第二十三話 同じものの値段
市場から帰った翌朝。
俺は帳面を見ながら、昨日見たものを思い出していた。
肉屋。
魚屋。
野菜。
乾物。
保冷箱。
覚えているものを書き出していく。
そこで手が止まった。
「値段、見てなかった」
店には全部、値段があったはずだ。
買い物をする場所なのだから当然だ。
なのに俺は、どこから来たのか、どうやって運んだのかばかり見ていた。
俺は帳面に大きく書いた。
『値段』
そして、その下で止まった。
何を書けばいいのか分からない。
「マリー」
「はい」
「肉って、いくら?」
朝の支度をしていたマリーが振り返った。
「何のお肉でしょう?」
いきなり失敗した。
「……森角猪」
「どの部位でしょう?」
さらに失敗した。
「昨日食べたところ」
「私は値段まで存じませんね」
そうなるか。
同じ魔物でも、肉だけではない。
その肉の中でも部位が違う。
俺は『森角猪の肉』と書きかけて、消した。
「じゃあ、牛乳」
「牛乳でしたら、厨房へ聞いた方が早いと思います」
また厨房だ。
最近、俺の疑問のかなりの部分が厨房へ流れている気がする。
朝食のあと、俺はマリーと一緒に料理長を訪ねた。
「牛乳って、いくら?」
料理長は一瞬だけ俺を見たあと、もう驚かなかった。
「どの牛乳でしょう?」
まただ。
「牛乳にも種類あるの?」
「ございますよ。仕入れ先も違いますし、量でも変わります」
俺は少し考える。
「いつも俺が飲んでるやつ」
それなら分かるらしい。
料理長は厨房の帳面を出してきた。
毎日の仕入れが書かれている。
「こちらですね」
数字を見せてもらう。
値段はGで記録されていた。
ゴールド。
この世界で普通に使われているお金だ。
五歳になるまでの俺も知っている。
でも今まで、それ以上考えたことはなかった。
「昨日も同じ?」
「昨日は同じですね」
「ずっと?」
「いいえ」
料理長は少し前の記録を見せてくれた。
違う。
大きくは違わない。
でも同じ牛乳なのに、値段が少し動いている。
「なんで?」
「仕入れ先からの値段が変わりましたから」
「なんで変わったの?」
「そこまでは商人に聞かなければ分かりませんね」
出た。
一人を追いかけても、途中で別の人へつながる。
俺は最近、それが少し楽しくなってきていた。
「商人、いつ来る?」
「今日も何人か来ますよ」
「見たい」
料理長がマリーを見る。
俺も見る。
「お仕事のお邪魔をしないのでしたら」
許可が出た。
昼前。
屋敷の裏手に、一台の荷車が入ってきた。
積まれているのは野菜や乳製品だった。
市場で見た店とは違う。
こちらは屋敷へ直接品物を持ってくる商人らしい。
荷物を下ろしている間、俺は邪魔にならない場所から見ていた。
箱がいくつも運ばれる。
厨房の者が中身を確認する。
商人も帳面を見る。
品物を渡して終わりではない。
数える。
状態を見る。
記録する。
「毎日来るの?」
荷下ろしが終わってから聞いた。
商人は俺を見た。
「毎日ではございません。品物によりますね」
「牛乳も持ってきた?」
「はい」
「前より値段が変わったの、なんで?」
いきなり聞いたせいか、商人が少し笑った。
「よくご存じですね」
「帳面見た」
「なるほど」
男は荷車へ視線を向けた。
「少し前は、仕入れ先の一つで乳の出が落ちましてね」
「牛の?」
「ええ。それに暑い日が続いたでしょう。運ぶにも少し手間が増えました」
二つある。
取れる量。
運ぶ手間。
「少ないと高くなる?」
「他が同じなら、そうなりやすいですね」
「運ぶのが大変でも?」
「その分の費用はどこかで必要になりますから」
俺は考える。
牛乳そのものは同じだ。
昨日より突然おいしくなったわけではない。
魔法の力が増えたわけでもない。
でも値段は変わる。
「じゃあ、たくさん取れたら安くなる?」
「必ずではありませんが、そうなることはあります」
また「必ず」ではない。
最近、この言葉にも慣れてきた。
「なんで必ずじゃないの?」
商人が少し困った顔をした。
「そうですねえ……」
考えている。
「たくさん取れても、それ以上に欲しい人が増えれば、安くする必要はないでしょう?」
「あ」
欲しい人。
今まで、作る側と運ぶ側しか見ていなかった。
買う側も値段を動かす。
「逆に、たくさん持ってきても誰も欲しがらなければ?」
「売れませんね」
「腐る?」
「牛乳なら困ります」
「じゃあ安くする?」
「売り切りたいなら、それも考えます」
面白い。
俺は頭の中で線を引く。
取れる量。
欲しい人。
運ぶ手間。
悪くなるまでの時間。
全部が値段につながっている。
「保冷箱が良くなったら?」
商人が俺を見る。
「何がでしょう?」
「牛乳をもっと遠くまで運べる」
「そうですね」
「じゃあ安くなる?」
今度は、かなり長く考えた。
「安くなることもあるでしょう」
やっぱり。
「でも、ならないこともある?」
「遠くへ運べるなら、今まで売れなかった場所でも売れますからね。高く買ってくれるところへ運ぶ商人もいるでしょう」
そっちか。
俺は完全に一方向で考えていた。
運ぶのが楽になる。
費用が下がる。
だから安くなる。
でも、運べる範囲が広がるということは。
売れる場所も増える。
「便利になったら、値段が下がるだけじゃないんだ」
「便利になったら儲ける方法を考えるのが商人ですよ」
男は笑った。
分かりやすい。
でも嫌な感じはしなかった。
商人だって仕事だ。
利益がなければ、運んでくれなくなる。
「儲からないものは運ばない?」
「必要なら運ぶこともありますが、商売として続けるのは難しいですね」
続ける。
その言葉が引っかかった。
一回だけならできる。
でも、それを毎日やる。
何年も続ける。
それには別の条件がいる。
俺は少し前に見た保冷庫を思い出す。
作れることと、みんなが使えることは違う。
そこへ、もう一つ加わった。
使えることと、使い続けられることも違う。
商人が帰ったあと、俺は厨房の帳面をもう一度見せてもらった。
今度は値段を見る。
牛乳。
野菜。
肉。
塩。
同じ品物でも、ずっと同じ数字ではない。
季節で変わる。
仕入れ先で変わる。
量で変わる。
料理長に聞くと、品質でも変わるという。
「高いものの方がいい?」
「それも用途次第ですね」
また用途。
「煮込みに使うものと、そのまま食べるものでは、選び方を変えることもあります」
「安い方がいい時もある?」
「必要な品質を満たしているなら、安い方が助かりますよ」
なるほど。
高いから良い。
安いから悪い。
それも単純すぎる。
必要なものを、必要な状態で、必要な値段で手に入れる。
料理長が見ているのは、たぶんそこだ。
部屋へ戻る。
帳面を開いた。
『値段』
朝は、その下に何も書けなかった。
今なら書ける。
『取れる量』
『欲しい人』
『運ぶ距離と手間』
『保存できる時間』
『品質』
『使い道』
そこまで書いて、手が止まった。
まだある気がする。
たぶん、ものすごくある。
天気。
道。
魔物。
事故。
人手。
魔石の値段だって関係するかもしれない。
全部書き始めたら、また終わらない。
だから一番下に、まとめて書いた。
『物だけで値段は決まらない』
少し考える。
昨日、市場で俺は「物が動く」と書いた。
今日は、その物についている値段まで動いていると分かった。
しかも勝手に動いているわけではない。
誰かが作る。
誰かが欲しがる。
誰かが運ぶ。
誰かが売る。
その間で条件が変われば、値段も変わる。
俺は帳面の線を眺めた。
魔素の流れを知りたくて始めた観察が、とうとう金の流れにまで来てしまった。
「全然違うものなのにな」
窓辺のクロムを見る。
クロムは寝ている。
「でも、どっちも流れるんだな」
もちろん、魔素とお金が同じものだとは思わない。
ただ。
止まっているものだけを見ていると、分からないことがある。
どこから来たのか。
どこへ行くのか。
途中で何が変わるのか。
俺は帳面の端に、小さく書いた。
『流れを見る』
魔法を調べる時にも。
魔物を見る時にも。
物を見る時にも。
もしかすると、同じ見方が使えるのかもしれない。
まだ分からない。
だから、その言葉には丸をつけず、疑問符だけをつけておいた。




