第二十二話 市場へ
古い記録を見た翌日。
俺は朝食の席で、母上に聞いた。
「市場って、いつ行くの?」
母上が紅茶のカップを置いた。
「市場?」
「うん」
「アルスが?」
「うん」
兄上がこちらを見る。
姉上も見る。
父上まで見る。
「何?」
「いや」
父上が少し笑った。
「今度は何を調べ始めたのかと思ってね」
信用がない。
いや、ある意味では信用されているのかもしれない。
俺が何の理由もなく市場へ行きたいと言い出すはずがない、と。
「昔の記録を見たら、肉を運ぶ方法が変わってた」
「それで市場なの?」
母上が聞く。
「今はどうやって運んでるのか見たい」
正確には、それだけではない。
記録には結果が残っていた。
何が届いた。
いくら保存した。
どれだけ駄目になった。
でも、その間にいる人たちは見えない。
誰が運んでいるのか。
どこから来るのか。
どうやって売るのか。
昨日から、それが気になっていた。
「ちょうど明日、街へ出る予定がありますよ」
母上が言った。
「行っていい?」
「きちんとマリーの言うことを聞くなら」
俺はマリーを見る。
後ろに立っていたマリーが、にっこり笑った。
「手を離さないでくださいね」
「分かった」
「勝手に店へ入らない」
「分かった」
「知らない人についていかない」
「それは大丈夫」
前世込みで四十六年以上生きた記憶を持つ人間に、その注意は必要ない。
そう思ったが。
今の見た目は五歳だった。
必要かもしれない。
翌日。
俺は母上とマリーと一緒に馬車へ乗った。
屋敷の門が遠ざかる。
街へ出ること自体は初めてではない。
アルスとしての記憶にも、何度か家族と出かけた記憶がある。
でも以前は、店や人をただ眺めていただけだった。
今日は違う。
道を見る。
荷車を見る。
積まれている箱を見る。
すれ違う馬車の車輪を見る。
「アルス様」
「うん?」
「今日はずっと窓の外を見ていますね」
「道を見てる」
「道ですか?」
「四十年前より良くなったって聞いたから」
マリーが少し黙った。
「四十年前の道を私は存じません」
「俺も知らない」
「では比べられないのでは?」
その通りだった。
「……記録を探す」
「また増えましたね」
増えた。
街へ着く。
馬車を降りた瞬間、音が一気に増えた。
人の声。
車輪の音。
動物の鳴き声。
何かを叩く音。
遠くから聞こえる呼び込み。
そして匂い。
焼いた肉。
香辛料。
土。
果物。
屋敷とは情報量が全然違う。
「手」
マリーが差し出した。
俺は素直につかむ。
ここで迷子になったら、観察どころではない。
大通りを歩く。
左右に店が並んでいた。
野菜。
果物。
布。
陶器。
金属製品。
見たことのないものも多い。
「あ」
俺は足を止めた。
肉屋だった。
店先に肉が並んでいる。
昨日見た記録を思い出す。
「冷やしてない」
店頭の肉は、保冷庫の中には入っていなかった。
「アルス様?」
「これ、悪くならないの?」
店主が聞いていたらしい。
「今日売る分ですからね」
男が笑った。
「今日?」
「朝に出して、なるべくその日のうちに売ります。残ったものは状態を見て加工へ回しますよ」
俺は店の奥を見る。
「保冷庫は?」
「ありますよ。奥に小さいのが」
ある。
でも全部を入れているわけではない。
「なんで出してるの?」
「見えないと、お客さんが買えませんから」
なるほど。
保存だけを考えるなら、ずっと冷やしておけばいい。
でも店には、売るという別の目的がある。
「どこから来た肉?」
「これは近くの牧場。こっちは昨日入った角兎ですね」
「魔物?」
「そうですよ」
普通の肉と魔物の肉が、同じ店に並んでいた。
特別扱いされている様子はない。
俺は角兎の肉を見る。
本で見た魔物だ。
あの絵が、肉になってここへ来ている。
「誰が取ったの?」
「そっちは冒険者から買ったものです」
冒険者。
また線が一本増えた。
「冒険者が直接ここに持ってくるの?」
「小さい獲物ならありますよ。大きなものは解体場や商人を通すことが多いですが」
俺は頭の中でつなぐ。
魔物。
冒険者。
解体。
商人。
肉屋。
客。
森角猪とは、少し違う道だ。
「同じ魔物でも、違う道を通るんだ」
店主が首を傾げた。
マリーはたぶん意味が分かったらしい。
「アルス様、今日は帳面をお持ちではありませんね」
しまった。
持ってくればよかった。
「覚える」
「全部ですか?」
「たぶん」
前世の知識が戻ったからといって、記憶力まで特別になったわけではない。
たぶん無理だ。
「帰ってから、覚えている分だけにしましょう」
「そうする」
市場を進む。
次に俺が止まったのは、魚だった。
海からかなり離れているわけではない。
それでも、ここまで運ばなければならない。
「これ、今日の?」
魚屋の女性が笑う。
「全部じゃないよ。今朝届いたのと、昨日の夕方に届いたの」
「昨日?」
「保冷箱で運んでるからね」
出た。
俺は箱を探す。
店の奥に、厨房で見たものより小さな箱が置かれていた。
「それ?」
「そうだよ」
近づきたい。
マリーを見る。
マリーが女性へ確認する。
許可が出た。
俺は箱の外側だけを見る。
厨房の保冷庫より小さい。
持ち手がある。
「運べるんだ」
「そのための箱だからね」
「重くない?」
「軽くはないよ」
「魔石は?」
「入ってる」
「どれくらい持つ?」
「箱と石と天気次第」
また条件。
でも今度は驚かなかった。
たぶん、世界のものはだいたいそうなのだ。
一つの数字で全部を決められる方が少ない。
「これがある前は?」
女性が少し考えた。
「私は子供だったからねえ。塩を使った魚や干したものが今より多かったって、親からは聞いたよ」
記録と同じだ。
俺は嬉しくなった。
紙に書かれていた昔と、目の前にいる人の話がつながった。
「今は生の魚を遠くまで運べる?」
「昔よりはね。でも遠すぎるところまでは無理さ。箱だってタダじゃないし、魔石もいる」
やっぱり。
できることと、どこでもできることは違う。
俺たちはさらに市場を歩いた。
同じ保冷箱でも、使っている店と使っていない店がある。
野菜はそのまま積まれているものが多い。
乳製品を扱う店では冷却が重視されている。
乾物屋には、そもそも冷やす必要がほとんどないものが並んでいた。
そこでようやく気づいた。
俺は保冷庫を見てから、冷やすことばかり考えていた。
でも。
「冷やさなくていいものもある」
「もちろんですよ」
母上が笑った。
「全部を冷やす必要はありません」
当たり前だった。
必要なところに使う。
必要でなければ使わない。
新しいものがあるからといって、古い方法が全部消えるわけでもない。
塩漬けもある。
燻製もある。
乾燥もある。
その横に、冷却が加わった。
置き換えではなく、選択肢が増えたのか。
「母上」
「なあに?」
「新しいものができても、古いものって残るんだね」
母上は店先に並ぶ干した果物を見た。
「便利なら残るでしょうね」
「新しい方がいいとは限らない?」
「何に使うかによるのではないかしら」
何に使うか。
また同じところへ戻ってくる。
大きい方がいいとは限らない。
強い方がいいとは限らない。
新しい方がいいとも限らない。
使う人がいて。
目的があって。
その時に合うものが選ばれる。
市場の中央まで来たところで、俺は立ち止まった。
人が多い。
物も多い。
その全部が動いている。
誰かが持ってくる。
誰かが売る。
誰かが買う。
なくなれば、また運ばれてくる。
昨日見た記録は、その結果の一部だった。
でも実際の世界では、数字になる前にこれだけの人が動いている。
「アルス?」
母上が呼ぶ。
「どうしたの?」
「見てる」
「何を?」
俺は少し考えた。
店を見る。
荷車を見る。
買い物をする人を見る。
その向こうで、荷物を下ろしている男たちを見る。
「流れ」
母上が首を傾げた。
うまく説明できない。
物が流れている。
お金もたぶん流れている。
人も動いている。
魔石も。
魔物も。
食べ物も。
一つの場所に止まっているように見えて、ずっと入れ替わっている。
魔素と少し似ている。
そう思ったところで、俺は自分で笑った。
何でも魔素につなげるのは、さすがに早い。
「帰ろうか」
母上が言った。
「うん」
帰りの馬車で、俺は窓の外を見続けた。
今度は行きとは違う。
道だけではない。
向こうから来る荷車が、どこから来たのか気になる。
積んでいるものが、どこへ行くのか気になる。
市場で見た魚は海から来た。
角兎は、たぶんどこかの森や草原から来た。
俺が知らない場所から物が集まり、また知らない誰かのところへ散っていく。
屋敷へ戻ると、すぐ帳面を開いた。
忘れる前に書く。
『市場』
そこから線を伸ばした。
『作る人』
『取る人』
『運ぶ人』
『売る人』
『買う人』
少し考えて、
『保存する人』
も加える。
でも、また足りない。
道を作る人。
箱を作る人。
魔石を取る人。
魔道具を直す人。
全部書こうとして、やめた。
代わりに中央へ一つだけ書いた。
『物が動く』
その下へ、
『人も動く』
さらに少し考えて、
『方法は一つではない』
と書いた。
保冷箱ができても、干物は消えなかった。
魔道具があっても、全部の店が使うわけではない。
優れた方法が一つあって、それが世界中を塗り替える。
そんな単純な形ではないらしい。
クロムが窓辺から俺を見ている。
「世界って、思ったよりごちゃごちゃしてるな」
当然、返事はない。
でも。
たぶん、そのごちゃごちゃしたものを全部消してしまったら、世界ではなくなる。
俺は今日描いた線を眺めた。
綺麗に整理するのは、あとでいい。
今はまず。
実際にどう動いているのかを見る方が先だ。




