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第二十一話 昔を読む

翌日、俺は母上のところへ行った。


目的は決まっている。

昨日聞いた、昔の記録だ。


「母上。古い記録、見たい」


母上は読んでいた手紙から顔を上げた。


「ずいぶん急ね。何の記録かしら?」


「食べ物をどうやって運んで、どうやって保存してたか分かるやつ」


自分で言ってから、かなり広いことに気づいた。


母上も同じことを思ったらしい。


「それだけでは、たくさんありますよ」


「たくさんあるの?」


「領地を治めるというのは、記録を残すことでもありますから」


それは考えたことがなかった。


税を集める。

道を直す。

人を雇う。

食料を備える。


誰かが判断するなら、その前に何が起きていたのかを知らなければならない。


「見てもいい?」


「アルスに読めるものならね」


そこは問題だった。


俺には前世の知識がある。

でも、この世界の文字を読む能力まで突然増えたわけではない。


アルスとして五年間覚えてきた文字は読めるけれど、大人向けの文書になると知らない言葉が一気に増える。


母上に連れていかれたのは、屋敷の書庫だった。


何度か入ったことはある。


でも今までの俺にとって、ここは本がたくさんある部屋だった。


今日は違う。


棚に並んでいるものが、全部記録に見える。


「全部、うちの?」


「全部ではありません。書物もありますし、他領や王都から送られた資料もあります。ただ、アークライト家の古い記録もかなり残っていますよ」


母上は棚の一角から、一冊の分厚い帳面を取り出した。


表紙は擦れている。

新しい本とは明らかに違った。


「これは?」


「四十年ほど前の、領内の備蓄記録ですね」


四十年。


俺が生まれるより、ずっと前だ。


前世の感覚なら特別古いとは思わない。

けれど、今の俺にとっては、自分の人生の八倍も前の話だった。


母上が机に帳面を置く。


俺も椅子によじ登った。


開いてみる。


読める文字もある。

読めない文字も多い。


それでも数字らしい部分と、品物の名前はいくつか分かった。


麦。

豆。

塩。

干し肉。


同じ名前が何度も並んでいる。


「これ、何?」


俺は一つの欄を指した。


母上がのぞき込む。


「保存中に駄目になった量ですね」


「捨てた?」


「そういうことです」


もったいない。


でも、食べ物なら当然起きる。


俺は今度は別の行を見る。


同じ品物なのに、数字が違う。


「こっちは少ない」


「季節が違いますね」


「あ」


それだけで意味が変わった。


暑い時期。

寒い時期。


保存できる長さが違う。


俺は帳面へ顔を近づけた。


「今の記録もある?」


母上が笑った。


「あるでしょうけれど、アルスが見たいものは私より管理官に聞いた方が早そうですね」


呼ばれた管理官は、最初かなり困った顔をした。


五歳の子供に備蓄記録を見せろと言われれば、そうなると思う。


それでも母上が説明してくれて、比較できそうなものを何冊か用意してくれた。


昔の記録。

少し新しい記録。

最近の記録。


俺一人では読めないので、管理官にも残ってもらう。


「同じもの、ある?」


「同じもの、と申しますと?」


「昔と今で、ずっと保存してる食べ物」


管理官はしばらく帳面をめくった。


「麦ならございます。ただし保存方法は大きく変わっておりません」


「じゃあ肉」


「肉ですか」


また帳面がめくられる。


見つかった。


森角猪ではない。

でも、領内で昔から食べられている魔物の肉だった。


俺は二つの記録を並べる。


数字だけでは分からないところを、管理官に読んでもらった。


昔は、討伐された場所に近いところで処理する。


すぐ食べる分。

塩漬けにする分。

燻製にする分。


運べる範囲も限られていた。


最近の記録では、少し違う。


処理した肉の一部が、保冷用の魔道具を使って運ばれている。


「これ」


俺は指で行を追った。


「昔はない」


「当時も保冷の魔道具自体は存在していたはずですが、今ほど使いやすいものではありませんでしたから」


「高かった?」


「それもございます。大きさ、魔石の消費、故障、運搬。商人が使うにも採算が合わなければ意味がありません」


採算。


知らない言葉ではない。

でも、この世界で聞くと少し違って感じる。


できるかどうかと、使われるかどうかは別だ。


魔法で冷やせる。

魔道具も作れる。


それだけでは、広まらない。


「今は?」


「以前よりは安く、扱いやすくなりました。街道も良くなっていますから、昔より遠くへ運べます」


また一つだけではなかった。


魔道具だけが良くなっても駄目。


道がいる。

運ぶ人がいる。

魔石がいる。

直せる人もいる。


昨日、帳面に描いた線が頭の中で増えていく。


「じゃあ、保冷庫を作った人だけじゃないんだ」


管理官が首を傾げた。


「何がでしょう?」


「今みたいになったの」


俺は二冊の帳面を指した。


「保冷庫を良くした人がいて、道を作った人がいて、運んだ人がいて、魔石を取った人もいる。たぶん他にもいる」


管理官は少し考えてから頷いた。


「そうでしょうな」


誰か一人が、全部を作ったわけではない。


最初に考えた人がいたとしても、それだけで今の形にはならない。


誰かが使う。

困る。

直す。


別の誰かが、もっと良くする。


それをまた誰かが使う。


「面白い」


昨日とは違う意味で、その言葉が出た。


俺はずっと、目の前にあるものを調べていた。


魔素。

魔法。

魔石。

魔道具。


でも記録が残っているなら、目の前にないものも調べられる。


「母上」


「なあに?」


「もっと古いのもある?」


母上と管理官が顔を見合わせた。


嫌な予感を共有した顔だった。


「ございますが」


管理官が慎重に答える。


「古くなればなるほど、文字や記録の形式も違います。傷んでいるものもございますので、アルス様が自由に触れることはできません」


「触らなければ見ていい?」


「……まずは、今お出ししたものからにいたしましょう」


正しい。


俺は五歳だ。


しかも、少し前には魔道具を分解しようとして警戒された実績がある。


信用を積み直す必要がある。


「分かった」


素直に答えると、母上が少し驚いた。


「今日は聞き分けがいいのね」


「古いの見たいから」


「理由まで正直ね」


目的があるなら待てる。


俺は自分の帳面を開いた。


昨日描いた線の隣に、新しく二つの言葉を書く。


『今』


少し離して、


『昔』


その間を一本の線で結ぶ。


昨日までは、世界を横に見ていた。


森から魔物へ。

魔物から魔石へ。

魔石から魔道具へ。

魔道具から人の暮らしへ。


でも世界には、もう一つ方向がある。


昔から今へ。


今あるものには、今の形になるまでの途中がある。


成功したものだけじゃない。

使われなくなったものも、失敗したものも、きっとあった。


それを比べれば、何が変わったのかが分かる。


どうして変わったのかも、少しは見えるかもしれない。


俺は四十年前の帳面をもう一度開いた。


そこに書かれている人たちは、俺のことを知らない。


当然だ。

俺はまだ生まれていなかった。


それでも、その人たちが残した数字を、今の俺は読むことができる。


なんだ。


過去だって、観測できるじゃないか。


俺は新しいページを開いた。


知りたいことが、また増えた。

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