第二十話 森から食卓へ
その日の夕食に、森角猪が出た。
昼間まで作業台の上にあった魔物が、今は薄く切られて皿の上に並んでいる。表面には焼き色がつき、香草の匂いがした。
俺はしばらく肉を見る。
「アルス?」
母上に呼ばれて顔を上げた。
「食べないの?」
「食べる」
別に怖いわけではない。
ただ、さっきまでの姿を知っているせいで、いつもの料理より途中が見える。
一口食べる。
「……おいしい」
普通においしかった。
少し歯応えがあるけれど、臭みはない。料理長が「当たり」と言っていた意味が、なんとなく分かった。
「今日は良い個体だったそうだな」
父上が言った。
「父上も知ってるの?」
「報告は受けているよ。領内の森へ騎士を出しているのだからね」
俺は肉をもう一切れ食べる。
そこで、昼間には考えなかったことに気づいた。
「あの大きいの、全部食べるの?」
父上の手が止まった。
「全部というのは、今日か?」
「うん」
「まさか」
そうだよな。
あれだけ大きな魔物を、一度の食事で食べきれるはずがない。
「じゃあ残りは?」
「アルス」
兄上が呆れた顔をする。
「食事中まで質問するのか」
「今、気づいたから」
「気づかなくていいこともあるぞ」
たぶん兄上にとってはそうなのだろう。
でも父上は少し笑った。
「厨房へ回した分は、何日かに分けて使うだろう。保冷庫へ入れるものもあれば、保存用に加工するものもある。騎士たちへ回る分もあるはずだ」
保冷庫。
最初の箱へ戻ってきた。
俺は肉を見る。
魔物を倒す。
肉を持ち帰る。
すぐ食べる。
残りを冷やす。
冷やせるから、今日食べなくてもいい。
「保冷庫がなかったら?」
「塩漬けや燻製にする量が増えるだろうね。冬なら気候も利用できる。昔から保存する方法はいくつもあるよ」
なるほど。
冷やすことだけが保存ではない。
「じゃあ、保冷庫ができて食べ方も変わった?」
父上が少し考えた。
「私は生まれた時から使っているから、昔と比べるのは難しいな」
それもそうか。
今あるものが、いつから当たり前になったのか。
使っている本人には分からないこともある。
「古い記録なら残っているかもしれないよ」
母上が言った。
「厨房の記録?」
「領地の記録にもね。昔は何をどこから運び、どう保存していたのか。税や備蓄にも関わるものだから」
また増えた。
俺は危うく席を立ちそうになった。
「食べ終わってからですよ」
後ろにいたマリーに止められる。
「まだ立ってない」
「立つお顔でした」
もう反論しないことにした。
食事を終えるまで、頭の中で今日見たものを順番に並べる。
森。
魔物。
騎士。
解体。
厨房。
保冷庫。
食卓。
一列につながった。
翌朝、俺はもう一度厨房へ行った。
今度は冷たい水が目的ではない。
「昨日の肉、どこ?」
料理長が笑った。
「おはようございます、アルス様。ずいぶん直接的ですね」
「おはよう。昨日の肉、どこ?」
挨拶を追加しても質問は変わらない。
料理長は保冷庫を指した。
「一部はこちらです。今日使う分ですね」
「残りは?」
「塩をしたものと、燻製に回したものがあります。騎士団側へ渡した分もありますよ」
「全部ここに入れないの?」
「入りませんから」
単純だった。
俺は保冷庫を見る。
便利でも、容量には限界がある。
「もっと大きい保冷庫なら入る?」
「入るでしょうね」
「じゃあ大きくすればいいのに」
料理長が少し笑った。
「大きければ、その分だけ高くなりますし、魔石も多く使います。それに毎日あれほどの獲物が入るわけではありません」
あ。
必要以上に大きくても無駄なのか。
「たまに足りないくらいがいい?」
「私は今くらいで困っておりませんね」
作る側から見れば、大きい方がすごいのかもしれない。
使う側から見れば、必要な大きさで十分。
昨日の魔石と同じだ。
大きい。
強い。
たくさん入る。
それだけでは、良い道具とは決まらない。
「保存した肉って、味変わる?」
「変わりますよ」
料理長は棚から、小さな燻製肉を一切れ持ってきた。
「こちらは少し前のものですが」
マリーを見る。
料理長まで確認するようになった。
マリーが頷く。
俺は受け取って食べた。
「しょっぱい」
「保存を優先していますからね」
昨日の焼いた肉とは全然違う。
でも、これはこれでおいしい。
「冷やした方は?」
「比較的、生の状態に近く保てます。ただし、いつまでもというわけにはいきません」
「どれくらい?」
「肉の状態や保冷庫の調子にもよります」
また条件が増える。
俺は厨房の隅で帳面を開いた。
『保存』
その下から線を伸ばす。
『冷やす』
『塩』
『燻製』
「他にもある?」
「乾燥させることもありますし、料理してから保存することもあります。食材によって違いますよ」
追加する。
線が増えていく。
「アルス様」
マリーが帳面をのぞいた。
「何をお書きになっているのです?」
「つながり」
「つながり?」
俺は別のページを開いた。
昨日から書きたかったものだ。
左端に『森角猪』と書く。
そこから線を伸ばす。
肉。
皮。
牙。
骨。
魔石。
肉から、さらに線を伸ばす。
食卓。
保冷。
塩漬け。
燻製。
魔石からは、魔道具。
皮や牙の先は、まだ分からないから空けておく。
「一匹から、こんなに分かれる」
料理長も横からのぞき込んだ。
「まあ、捨てるところを減らすのは大事ですからね」
俺には仕組みに見えていたものが、料理長には日々の仕事として見えている。
同じものを見ても、見えているものが違う。
「これ、逆にもたどれる?」
「逆?」
「保冷庫から魔石。魔石から魔物。魔物から森」
口にしながら、自分で面白くなってきた。
冷たい水を飲みたかっただけだった。
そこで保冷庫を見た。
保冷庫を調べたら魔石があった。
魔石を調べたら魔物へ行った。
魔物を追ったら騎士やテイマーがいた。
そして今、また保冷庫へ戻ってきた。
最初の場所へ戻ったのに、見えるものは全然違う。
保冷庫はもう、ただの冷たい箱ではなかった。
森とつながっている。
職人とつながっている。
魔物とつながっている。
料理人とつながっている。
そして食卓とつながっている。
俺は帳面の中央に、小さく丸を描いた。
その周囲へ、分かったものを置いて線で結ぶ。
一つずつなら、ただの知識だった。
でも線を引くと、世界の形が少し見える。
「アルス様、そろそろお勉強のお時間です」
「あと一本」
「何の一本です?」
「線」
マリーは帳面を見てから、少しだけ待ってくれた。
俺は最後に『人』と書いた。
そこから全部へ線を伸ばそうとして、やめる。
人だけではない。
魔物もいる。
動物もいる。
土地もある。
魔素もある。
全部を一枚に書こうとしたら、たぶん帳面が足りない。
俺は笑って筆を置いた。
「終わった?」
「うん。今は」
マリーと一緒に厨房を出る。
廊下を歩きながら、俺は帳面を抱え直した。
分からないものを一つ選んで追いかける。
すると、その先で別のものにつながる。
それをまた追いかける。
たぶん、この世界はそうやってできている。
何か一つだけを切り離して理解する方が、難しいのかもしれない。
五歳の俺には、まだ世界のほんの一部しか見えていない。
それでも。
線を一本ずつ増やしていけばいい。
いつか帳面では足りなくなるくらいに。




