第十八話 魔物と暮らす
動物と魔物の境目が、思っていたほどはっきりしていない。
それを知ってから、俺は屋敷の外を歩く生き物が少し気になるようになった。
馬。
犬。
鳥。
庭を横切る小さな虫。
どれも前からいた。
五歳になるまでの俺だって、何度も見ている。
ただ、今は見るところが違う。
あれにはどれくらい魔素があるんだろう。
魔物と呼ばれるものとは、何が違うんだろう。
そんなことを考えていた朝だった。
「アルス様、少しこちらへ寄ってください」
玄関前を歩いていた俺の肩を、マリーが軽く引いた。
何かと思って振り返る。
門の方から、一人の男が歩いてきていた。
旅装のような丈夫そうな服。
背中には小さな荷物。
そこまでは普通だった。
問題は、その隣だ。
「……鳥?」
大きい。
鳥に見えるけれど、俺の腰よりずっと高い。長い脚で地面を歩き、灰色の翼を身体へ畳んでいる。
頭の後ろには細い羽が何本も伸びていた。
「魔物ですよ」
マリーが言った。
俺はもう一度見る。
「魔物?」
「ええ」
昨日まで本で見ていたものが、普通に門から入ってきた。
俺は反射的にマリーの後ろへ隠れ――なかった。
少し迷ってから、その場に立ったまま観察する。
魔物は男の横を静かに歩いている。
縄で強く引かれているわけでもない。首には革の帯があるが、男が握っている細い紐は緩んでいた。
逃げようともしていない。
「危なくないの?」
「急に近づかなければ大丈夫です。あの方も一緒ですから」
「あの人、何してる人?」
「テイマーですね」
聞いたことはある。
でも俺の中に残っている五年間の記憶では、冒険者や騎士ほど身近な言葉ではなかった。
「魔物を操る人?」
「操る……とは少し違うと思いますよ」
マリーが困った顔をした。
ちょうど男がこちらへ近づいてきた。
屋敷の使用人へ何かを渡している。
手紙だった。
「配達?」
「そうみたいですね」
俺は魔物を見る。
背中には、小さな鞄のようなものが固定されていた。
剣もない。
鎧もない。
戦うために連れてきたようには見えない。
男が用事を終えると、魔物の首元を軽く撫でた。
魔物は一度だけ頭を振る。
「マリー」
「はい」
「聞いてきていい?」
「何をです?」
「全部」
「全部は困ります」
即答された。
でも、少しだけならいいらしい。
マリーと一緒に近づくと、男は俺に気づいて姿勢を正した。
「これは、アルス様」
どうやら俺のことを知っている。
貴族の家に出入りする仕事なら、家族の名前くらい覚えているのかもしれない。
俺は挨拶を返して、すぐ隣を見る。
近くで見ると、さらに大きかった。
翼の羽は一色ではない。
灰色の中に、薄い青が混ざっている。
「触ってもいい?」
男はすぐには頷かなかった。
まず魔物の方を見る。
それから、何か短い音を出した。
言葉というより合図に近い。
魔物が俺を見た。
じっと見る。
俺も見る。
しばらくして、魔物が首を少し下げた。
そこで初めて男が頷いた。
「今なら大丈夫です。正面からではなく、こちらからゆっくり」
言われた通りに手を伸ばす。
羽に触れた。
思ったより硬い。
でも根元は温かかった。
そして。
「……多い」
馬より分かりやすい。
身体の中を巡る魔素の存在が、俺でも感じられる。
「魔素ですか?」
男が聞いた。
「うん。馬より分かる」
「この子は魔物ですからね」
「だから多い?」
「そういう傾向はあります。ただ、同じ種でも違いますよ」
まただ。
同じなら同じ、ではない。
俺は帳面を持ってくればよかったと思った。
「この子、何するの?」
「主に手紙や小さな荷物を運びます。私と一緒に運ぶこともありますし、この子だけで次の中継所まで飛ぶこともあります」
「一人で?」
「ええ」
俺は空を見上げた。
それから魔物を見る。
「道、分かるの?」
「覚えた場所なら」
「どうやって?」
「景色、匂い、地形、風。それから魔素の流れも使っているのではないかと言われています」
最後だけ少し曖昧だった。
「分からないの?」
「本人に聞けませんから」
なるほど。
俺は魔物を見る。
魔物も俺を見る。
確かに聞けそうにない。
「テイマーって、魔物に命令する人じゃないの?」
男が笑った。
「命令することもありますよ。危ない時には、すぐ止まってもらわないと困りますから」
「じゃあ操ってる?」
「アルス様は、馬に乗る人が馬を操っていると思いますか?」
少し考える。
「……半分くらい?」
男がまた笑った。
「私も、それくらいだと思います」
意外な答えだった。
「こちらの言うことを覚えてもらいます。でも、こちらも相手のことを覚えます。何を嫌がるか、何を食べるか、どれくらい飛べるか、疲れた時にどうなるか。無理をさせれば、次から言うことを聞いてくれなくなることもあります」
「魔法で無理やり従わせないの?」
「そういう方法がまったくないとは言いませんが、少なくとも私はやりませんね」
男は魔物の首を撫でた。
「長く一緒に仕事をするなら、その方が面倒です」
それは少し分かる気がした。
無理やり動かす方法があったとしても、ずっと力を使い続けなければならないなら効率が悪い。
相手が自分から動いてくれるなら、その方がいい。
「この子、名前ある?」
「ありますよ。リュウです」
「リュウ?」
思わず聞き返した。
鳥なのに。
「変ですか?」
「ううん」
前世の感覚が出ただけだ。
この世界で龍と鳥の名前にどんな関係があるのかは知らない。
リュウは俺たちの会話など気にしていない様子で、地面を嘴でつついた。
「何食べてるの?」
「今のは小石ですね」
「石?」
「餌を砕くのに使います」
また帳面が欲しくなった。
魔物というだけで、魔法のような特別な仕組みばかりを考えていた。
でも実際に目の前へ来ると。
食べる。
疲れる。
覚える。
嫌がる。
休む。
生き物だった。
当たり前なのに、本で『魔物』という名前を見ているだけでは、その当たり前が抜け落ちていた。
「もう行きますよ」
男が言った。
リュウが身体を低くする。
「離れてください」
マリーに引かれて、俺は数歩下がった。
次の瞬間。
大きな翼が開いた。
風が来る。
「うわっ」
髪が全部後ろへ流れた。
一度。
二度。
強く羽ばたくと、あれだけ大きかった身体が地面から浮いた。
俺は口を開けたまま見上げる。
リュウは屋敷の上まで高度を上げると、大きく一度旋回した。
それから門の向こうへ飛んでいく。
男は歩いて帰るらしい。
「一緒に行かないの?」
「リュウは次の中継所へ行くそうですよ」
マリーが教えてくれた。
「じゃあ、あの人は?」
「別の子と戻るのでは?」
俺は男の背中と、もう小さくなったリュウを交互に見た。
一人の人間と一匹の魔物だけで完結しているわけではない。
中継所がある。
そこで別の人がいて、別の生き物がいる。
手紙が渡され、また次へ進む。
つまりこれは、魔物を使った仕組みだ。
魔物が珍しい生き物として存在しているだけじゃない。
人の暮らしの中に入っている。
俺は部屋へ戻ると、すぐ帳面を開いた。
『魔物も仕事をする』
書いてから、少し違う気がした。
消す。
『人と魔物が一緒に仕事をする』
こっちの方が近い。
その下に、今日聞いたことを書く。
食べ物。
飛べる距離。
疲れ方。
覚えた場所。
風。
匂い。
魔素の流れ。
書いている途中で、机の端に黒い前足が乗った。
「クロム」
いつの間にか椅子の横にいた。
クロムは机へ飛び乗ると、俺の帳面の上を普通に歩いた。
「そこ、書いてる」
止まらない。
そして帳面の真ん中に座った。
「……どいて」
動かない。
さっきまで魔物と人間の関係について考えていた俺は、しばらくクロムを見る。
命令する。
相手が従う。
そんな単純な話ではない。
「なるほど」
少しだけ納得した。
猫一匹すら、思い通りにはならない。
俺はクロムを持ち上げて隣へ移した。
クロムは不満そうに尻尾を一度振ると、今度は帳面の横で丸くなる。
「そこならいい」
返事はない。
俺は続きを書いた。
魔物は、倒すものだけではない。
人と一緒に暮らすものもいる。
人と一緒に働くものもいる。
そして、それを成立させるには魔法だけでは足りない。
相手を知る必要がある。
俺は最後に一行だけ付け足した。
『魔物を知るなら、強さより先に、生き方を見る』
昨日より、魔物という言葉の中身が少しだけ増えた。
本の中にいた魔物が、ようやく世界の中で動き始めた気がした。




