第十七話 動物と魔物
『今は、本で』
そう書いた以上、俺は本で調べることにした。
魔物についての本は、思っていたより多かった。子供向けの図鑑だけでも何冊かあり、危険な魔物、森に住む魔物、畑を荒らす魔物、旅で気をつける魔物と、分け方までばらばらだ。
俺はそのうち一冊を机へ広げた。
「角兎……」
絵だけ見れば、耳の長い兎だった。
ただし額に小さな角がある。
説明には、草原や林の縁に住み、草や木の実を食べると書かれていた。人を見ると逃げることが多く、追い詰めなければ危険も少ないらしい。
「これも魔物なんだ」
横で裁縫をしていたマリーが顔を上げた。
「角兎ですか? ええ」
「人を襲わないのに?」
「魔物だからといって、すべてが人を襲うわけではありませんよ」
そうなのか。
俺は次のページをめくった。
今度は大きな牙を持つ猪のような魔物だ。こちらには、人里へ近づいた場合は注意、と書かれている。
さらに次。
小さな鳥に似た魔物。
その次は蜥蜴。
見た目だけなら、前世の動物と大きく変わらないものも多い。
「じゃあ、普通の動物と魔物って何が違うの?」
「難しいことを聞きますね」
マリーの手が止まった。
「魔物は魔素の影響を強く受けた生き物、と教わりましたけれど」
「動物にも魔素はあるよね?」
「あります」
「じゃあ、どこから魔物?」
マリーが黙った。
俺も黙る。
また、聞く相手を間違えたかもしれない。
「……先生に聞きましょうか」
「うん」
最近、この流れが増えてきた。
分からないことがある。
マリーに聞く。
マリーも分からない。
分かりそうな人を探す。
でも、それでいい。
誰も一人で全部を知っているわけではない。
その日の午後、俺は魔法の先生に同じ質問をした。
「動物と魔物は、どこから違うの?」
先生はすぐには答えなかった。
「どこから、というのは?」
「動物にも魔素がある。魔物にもある。でも魔物は魔素の影響が強い。じゃあ、ここまでは動物で、ここから魔物って決まってる?」
指で机の上に線を引く。
先生は少し考えてから、首を横に振った。
「そのように一本の線を引くのは難しいですね」
やっぱり。
「魔物と呼ばれる生き物には、普通の動物より多くの魔素を取り込み、身体や性質が大きく変化しているものが多くいます。魔石を持つ種も多い。ですが、それだけですべてを分けられるわけではありません」
「魔石がない魔物もいる?」
「います」
「魔素が多い動物も?」
「いますよ」
線が消えた。
俺は帳面を開いた。
『魔石がある=魔物、ではない』
書いてから先生を見る。
「危ないかどうか?」
「それでも分けられません。危険な野生動物もいますし、おとなしい魔物もいます」
それも駄目。
「人になつくか?」
「どちらにも、なつくものとなつかないものがいます」
「頭がいいか?」
「それも同じです。非常に賢い魔物もいます」
どんどん分からなくなる。
でも、嫌ではなかった。
むしろ面白い。
俺は帳面に線を一本引き、その左右へ『動物』『魔物』と書いた。
最初は、その間に境界線を引こうと思っていた。
でも手が止まる。
「もしかして、きれいに分かれてない?」
先生が頷いた。
「少なくとも自然は、人が使う言葉に合わせて生き物を作ってはくれませんからね」
その言い方が気に入った。
人間は名前をつける。
分類する。
似たものをまとめる。
それは便利だ。
でも、名前をつけたから本当に世界がそこで分かれているとは限らない。
前世でも同じだった。
生き物の分類は、人間が理解するために作ったものだ。新しいことが分かれば分類が変わることだってある。
「じゃあ、魔物っていうのは人が呼んでる名前?」
「そう考えるのが近いでしょう。もちろん、魔素への適応が強い生物には共通する特徴もあります。ただ、境界に近い生き物をどう呼ぶかは、土地や時代で違うこともあります」
土地でも違う。
俺はそれも書いた。
『名前と自然の境界は同じとは限らない』
少し難しい文章になった。
五歳の帳面らしくない気もする。
まあ、自分しか読まないからいい。
「実物を見たことはありますか?」
先生に聞かれた。
「魔物?」
「ええ」
「たぶん、ない」
少なくとも野生の魔物を近くで見た記憶はない。
屋敷や街の周辺は安全に管理されているし、五歳の子供をわざわざ危険な場所へ連れていく理由もない。
「では、動物なら?」
「馬なら見たことある」
「ちょうどいいですね」
先生が立ち上がった。
連れていかれたのは、屋敷の厩舎だった。
馬が数頭いる。
荷車や馬車を引いたり、人を乗せたりする普通の馬だ。
俺が近づくと、一頭がこちらを見た。
大きい。
五歳の身体で見ると、前世で見た馬よりさらに大きく感じる。
「触ってもいい?」
「厩務の者がいいと言えば」
近くにいた厩務員へ聞くと、おとなしい一頭を選んでくれた。
俺はゆっくり手を伸ばす。
鼻先に触れると、温かかった。
そして意識を向ける。
魔素。
「……ある」
当たり前だ。
生き物には魔素があると、何度も聞いている。
でも、自分以外の生き物を意識して感じたのは初めてだった。
自分の身体ほどはっきりしない。
先生や兄上の魔素を見る時とも少し違う。
馬の身体の中に、確かに何かが巡っている。
「この馬は魔物じゃない?」
「普通の馬ですね」
先生が答えた。
「でも魔素はある」
「あります」
俺は馬の首を撫でた。
魔素があるから魔物ではない。
魔石を持つから必ず魔物でもない。
危険だから魔物でもない。
なら、俺が今まで頭の中で作っていた『動物』と『魔物』の箱は、思っていたほど固いものではないらしい。
その時、厩舎の入口をクロムが横切った。
黒猫。
俺は反射的にそちらを見る。
「……クロムは?」
先生もクロムを見た。
「猫でしょう」
「普通の?」
「少なくとも、私にはそう見えます」
少なくとも。
その言葉が妙に引っかかった。
クロムは俺たちを一度だけ見て、そのまま厩舎の奥へ歩いていく。
馬の一頭がクロムへ顔を向けたが、特に警戒する様子もない。
俺は少しだけ魔素を感じようとした。
馬は分かる。
周囲にも薄くある。
クロムは――。
「…………」
やっぱり、よく分からない。
何もないわけではない気がする。
でも馬のようには捉えられない。
追いかけて確かめたくなったが、やめた。
今は動物と魔物の話だ。
クロムは別の疑問として残してある。
俺は帳面を開いた。
『馬にも魔素はある』
その下へ続ける。
『動物と魔物の間に、一本の線があるとは限らない』
少し考えて、もう一行。
『名前は、世界そのものではない』
書き終えて顔を上げると、馬が俺の帳面を鼻先で押した。
「うわっ」
帳面が閉じる。
厩務員が笑った。
先生も笑っている。
「食べないでよ」
馬は知らない顔で鼻を鳴らした。
たぶん、こいつにとっては動物でも魔物でもどうでもいい。
腹が減れば食べる。
眠ければ眠る。
嫌なら離れる。
分類に悩んでいるのは人間の方だ。
俺は閉じた帳面を抱え直した。
世界を知るには、名前を覚えるだけでは足りない。
その名前の下に、実際には何がいるのかを見なければならないらしい。
魔物を見るのは、まだ先でいい。
でもその日、俺は初めて。
魔物を知る前に、動物をちゃんと見ていなかったことに気づいた。




