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第十四話 冷たい箱

魔素の球を、ほんの少しだけ手から離せた翌日。


俺は訓練場ではなく、厨房にいた。


別に練習を禁止されたわけではない。

先生から「今日は休みましょう」と言われたので、素直に休んでいるだけだ。


本当に。


「アルス様。なぜ厨房へ?」


隣を歩くマリーが聞いた。


「水」


「お水でしたら、お部屋へお持ちしますが」


「冷たい水が飲みたい」


朝から少し暑かった。


それだけの理由で来たはずだった。


厨房へ入ると、昼食の準備が始まっていた。

野菜を切る音。鍋から立つ湯気。焼いた肉の匂い。


料理長が俺に気づき、少し驚いた顔をする。


「アルス様? 何かご用でしょうか」


「冷たい水ください」


「かしこまりました」


料理長は棚から杯を取ると、厨房の奥へ向かった。


俺も何となく目で追う。


そこで、見覚えのある箱が開いた。


腰ほどの高さがある、木と金属で作られた箱。

中から水差しが取り出される。


料理長が杯へ注いで渡してくれた。


「どうぞ」


「ありがとう」


飲む。


冷たい。


氷水ほどではないけれど、部屋に置かれていた水より明らかに冷えている。


「……あれ?」


俺は箱を見た。


「どうかなさいました?」


「その箱、冷たい?」


料理長が箱を見る。


「保冷庫ですか? ええ、中は冷えております」


保冷庫。


五歳までの記憶にもある言葉だった。


厨房に食べ物を冷やしておく箱がある。

それくらいは知っていた。


でも今は、知っているだけでは終われない。


「どうやって?」


マリーが小さく息を吐いた。


たぶん、また始まったと思っている。


料理長は慣れていないらしく、少し戸惑った。


「どう、と申しますと……魔道具ですので」


出た。


便利な言葉。


「魔石?」


「はい。冷却用の魔石が中に入っております」


俺は箱へ近づいた。


外側は木。

角や扉の縁には金属が使われている。


触ると、外はそれほど冷たくない。


「開けてもいい?」


料理長がマリーを見る。


なぜ俺ではなくマリーを見る。


マリーが頷いた。


「見るだけでしたら」


信用がない。


料理長が扉を開けてくれた。


冷たい空気が足元へ流れてくる。


中には肉、野菜、乳製品らしい容器、それに水差し。

棚がいくつかあり、奥の壁には金属板のようなものが付いていた。


「魔石はどこ?」


「こちらです」


料理長が箱の側面を指した。


小さな蓋がある。


「開け――」


「ません」


マリーに先を取られた。


「まだ何も言ってない」


「開けたいお顔でした」


最近、顔で全部ばれている気がする。


仕方なく蓋を見るだけにする。


「ずっと冷たいの?」


「魔石が働いている間は」


「どれくらい?」


料理長が困った顔をした。


「使う魔石にもよりますが、こちらは交換したばかりですので、しばらくは」


しばらく。


曖昧だ。


でも料理長に正確な日数を求めるのも違う気がする。


「もっと冷たくできる?」


「できますよ」


「じゃあ、なんでしないの?」


今度は料理長がすぐ答えた。


「食材が凍ってしまいますので」


あ。


そうか。


冷たければ冷たいほど良いわけではない。


肉も野菜も、全部同じ温度で保存すればいいわけじゃない。


「じゃあ、これは凍らないくらい?」


「そうですね。食材を傷めにくい程度に調整されています」


調整。


その言葉に引っかかった。


「どうやって調整するの?」


「こちらで」


箱の横に、小さなつまみが付いている。


料理長が指で示した。


印がいくつか刻まれている。


数字ではない。

弱い、普通、強い。それに近い段階らしい。


「これを動かすと、魔石が変わる?」


「魔石そのものが変わるわけではありません。中の術式が、魔石から受ける力を調整すると聞いております」


術式。


帳面の端に書いた言葉が、こんなところにも出てきた。


「料理長が作ったの?」


「まさか」


笑われた。


「私は料理人です。魔道具は職人から買うものですよ」


当然だった。


前世でも、冷蔵庫を使う料理人が冷蔵庫を設計していたわけじゃない。


使う人。

作る人。

直す人。


役割が分かれている。


「壊れたら?」


「簡単な不具合なら出入りの職人に見てもらいます。駄目なら工房へ送りますね」


「中、見たことある?」


「ありません」


「マリーは?」


「ございません」


二人とも普通に使っている。


でも仕組みまでは知らない。


それで困っていない。


むしろ、それが道具というものだ。


使うたびに仕組みを理解する必要があるなら、便利な道具とは言えない。


俺はもう一度、保冷庫の中を見る。


冷たい。


食材が入る。


扉を閉じれば、その状態をしばらく保てる。


それだけなら、前世の冷蔵庫と似ている。


でも同じではない。


電気ではなく魔石。

冷媒も圧縮機もない――少なくとも、同じものが入っているとは思えない。


「これ、大きくできる?」


料理長が首を傾げた。


「大きなものもありますよ」


「どれくらい?」


「商会や大きな宿でしたら、人が入れるほどの保冷室を使うところもあると聞きます」


もうあるのか。


少しだけ残念。


いや、違う。


俺はすぐ考え直した。


あるなら、その先を見ればいい。


「もっと大きいのは?」


「さあ……私には」


「持ち運べるのは?」


「小さな保冷箱ならございます」


それもある。


「ずっと冷たいままのは?」


「ずっと、というのは難しいでしょうね。魔石は交換が必要ですから」


そこで初めて、答えが止まった。


俺は保冷庫の扉を閉じた。


冷やせる。


大きくもできる。

小さくして持ち運ぶこともできる。


でも、魔石が必要。

交換も必要。

温度の調整も必要。


そして、たぶん値段も違う。


「これ、高い?」


「アルス様」


マリーが笑った。


「今度はお値段ですか?」


「だって、みんな持ってるのかなって」


料理長が答える。


「この大きさのものは、どこの家にもあるという品ではありませんね。もっと簡単な保冷箱や、地下室を使う家も多いでしょう」


なるほど。


できることと、誰でも使えることは別だ。


前世でも同じだった。


技術が存在する。

作れる。

買える。


その三つは、全部違う。


「アルス様」


マリーに呼ばれた。


「なに?」


「お水を飲みにいらしたのでは?」


忘れていた。


手を見る。


杯は空だった。


「飲んだよ」


「では、お部屋へ戻りましょう」


「もう少し見たい」


「厨房はお仕事中です」


周りを見る。


料理人たちが、俺たちを避けながら忙しそうに動いている。


確かに邪魔だ。


「ごめんなさい」


料理長へ言うと、少し笑われた。


「またお時間のある時でしたら」


「質問していい?」


「私に分かることでしたら」


いい人だ。


俺はマリーと厨房を出た。


廊下を歩きながら、さっきの箱を思い出す。


冷たい箱。


前世なら、何も考えず冷蔵庫と呼んでいた。


この世界では魔道具。


名前は違う。

仕組みも違う。


でも、人が欲しがったものは似ている。


食べ物を長く持たせたい。

冷たいものを冷たいままにしたい。

腐らせたくない。


必要があるから、誰かが方法を考えた。


魔素がある世界なら、魔素を使って。


「マリー」


「はい」


「保冷庫って、誰が最初に作ったの?」


「存じません」


「いつからある?」


「私が生まれる前からございます」


「昔のは今と同じ?」


「それも分かりませんね」


分からない。


でも、その分からないは少し違った。


魔法そのものの謎ではない。


人が積み上げてきた時間の謎だ。


今ある保冷庫も、最初から今の形だったとは限らない。


誰かが作った。

誰かが直した。

誰かがもっと使いやすくした。


そして今では、料理長が仕組みを知らなくても普通に使える。


俺は少し嬉しくなった。


「今度、魔道具を作る人に会いたい」


「旦那様にお願いしてみてはいかがです?」


「会えるかな」


「アルス様が分解しないと約束できれば」


またそれか。


「分解しない」


少し考える。


「勝手には」


マリーが足を止めた。


「なぜ言い直したのです?」


「分解した方が分かることもあるから」


「アルス様」


「許可を取るよ」


「必ずですよ」


約束した。


部屋へ戻ると、俺は帳面を開いた。


今日は魔素を一度も動かしていない。


それでも書くことはあった。


『保冷庫』


その下に。


『冷やす。魔石。術式で調整。大きさが違う。持ち運べるものもある。魔石交換が必要』


少し考えて、もう一行。


『作れることと、みんなが使えることは違う』


そこで筆を止めた。


魔法を知りたいと思っていた。


でも、魔法だけ見ていても、この世界のことは分からないらしい。


魔法を使う人がいる。


魔道具を作る人がいる。


それを買う人がいる。


直す人がいる。


そして、仕組みを知らなくても使える人がいる。


一つの冷たい箱の周りに、それだけの人間がいる。


俺は帳面を閉じた。


魔素を動かすことばかり考えていた頭の中に、初めて別の問いが残った。


どうやって作るのか、だけじゃない。


どうすれば、それが誰にでも使えるものになるんだろう。

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