第十三話 想像だけでは足りない
丸くする。
それだけのことに、三日かかった。
もちろん、本当に球になっているのかは見えない。
ただ、手のひらの先へ出した魔素が以前のようにぼんやり広がらず、一か所へまとまっている感覚はある。
「これ、丸い?」
俺が聞くと、先生は少し間を置いてから頷いた。
「かなり近いですね」
「かなり?」
「完全な球ではありません。少し歪んでいます」
俺には分からない。
まとまっていることは感じられても、先生ほど細かく形を捉えられないらしい。
『形を作る能力と、形を感じる能力は別かもしれない』
帳面に書き込む。
できるようになるほど、できていないことが見つかる。
困った。
楽しい。
「では、今日はここまでにしましょう」
「まだ始めたばっかりだよ」
「始めてから一時間ほど経っています」
嘘だろ。
庭の端にある時計を見る。
本当だった。
「アルス様」
後ろからマリーの声がした。
振り返ると、水の入った杯を持って立っている。
「休憩です」
「あと一回」
「昨日も聞きました」
「今日はまだ言ってない」
「昨日の分が残っています」
そんな制度があるらしい。
仕方なく座って水を飲む。
クロムは少し離れた木陰で丸くなっていた。
最近、俺が訓練している間はだいたいあそこにいる。
何を考えているのかは相変わらず分からない。
猫だからな。
たぶん寝ているだけだ。
俺は帳面を開いた。
身体の中を巡らせる。
外へ出す。
保つ。
形を作る。
ここまでは、少しずつできるようになった。
なら。
次は何をする?
答えはすぐに出た。
動かす。
父上が木片を浮かせたとき、魔素を通して力を加えると言っていた。
でも、物を動かす前に。
魔素そのものは動かせるんじゃないだろうか。
手のひらの前に作った球を、そのまま前へ。
「……できそう」
「何がです?」
マリーが聞く。
「次の実験」
「先生に聞いてからにしてくださいね」
先回りされた。
休憩が終わると、俺はすぐ先生に聞いた。
「丸くした魔素を飛ばしていい?」
先生の眉が少し動いた。
「飛ばす、ですか」
「前に動かすだけ」
「何かに当てるつもりは?」
「ないよ」
「では、人のいない方向へ。強く押し出そうとはしないでください」
許可が出た。
俺は立ち上がり、訓練場の何もない方へ右手を向ける。
いつもの手順。
全身を巡らせ、右腕へ。
手のひらから外へ出して、まとめる。
少し歪んでいるらしいけど、一応は球。
ここから。
前へ。
俺は頭の中で、魔素の球が真っ直ぐ飛んでいく様子を想像した。
「…………」
何も起きない。
もう一度、強く想像する。
前へ飛ぶ。
速く。
真っ直ぐ。
「…………」
動かない。
むしろ意識を向けすぎたせいか、形が崩れて散った。
「あれ?」
先生は黙って見ている。
俺はもう一度、球を作った。
今度はもっとはっきり想像する。
地球で見たボール。
投げる。
飛ぶ。
前へ進む。
「…………」
やっぱり動かない。
三回目も同じだった。
俺は右手を下ろした。
「想像しただけじゃ動かない」
「そうですね」
先生は当然のように答えた。
「知ってた?」
「はい」
「先に教えてよ」
「アルス様が試したいとおっしゃいましたので」
ぐう。
それはそうだ。
俺は地面へ座り、帳面を開いた。
『球を前へ動かそうとした。動かない。飛ぶところを想像しても変化なし』
少し考えて、その下に書き足す。
『想像だけでは足りない』
これは結構大事かもしれない。
前世では、魔法なんて存在しなかった。
でも物語の中にはたくさんあった。
火を想像すれば火が出る。
強く念じれば力が増す。
技の名前を叫べば発動する。
もちろん、作品ごとに仕組みは違う。
俺の頭の中には、そういう架空の知識も大量に残っている。
だけど。
ここは物語の中じゃない。
少なくとも、俺が知っている物語そのものではない。
「先生」
「はい」
「じゃあ、何が足りないの?」
「それを考えてみましょうか」
先生は足元から小さな木片を拾った。
以前、父上が浮かせていたものと似ている。
「アルス様。これを動かしたいとき、どうします?」
「魔法で」
「その前です」
その前。
俺は木片を見る。
普通に動かすなら。
「手で押す」
「そうですね」
先生は指で木片を押した。
当然、動く。
「なぜ動きました?」
「先生が押したから」
「では、魔法では?」
少し考える。
父上の言葉を思い出した。
対象を捉える。
魔素を通す。
動かしたい方向へ力を加える。
「……力を加える」
「はい」
先生は木片から手を離した。
次の瞬間、木片が地面を滑った。
「想像は大切です。何をしたいのか決めるために必要です。しかし、動いてほしいと思うだけでは、動かすための働きがありません」
俺は木片を見る。
なるほど。
飛ぶところを想像した。
でも俺は、魔素を前へ動かすために何をした?
何もしていない。
形を保ったまま、飛べと思っただけだ。
「じゃあ、魔素に力を加える?」
「試してみますか?」
やる。
俺は再び右手を出した。
魔素を外へ。
まとめる。
ここから前へ押す。
でも。
どうやって?
手で触れるわけじゃない。
魔素を使って魔素を押す?
自分で考えていて変な感じがする。
とりあえず、球の後ろ側へ意識を向けた。
後ろから前へ流す。
そんな感覚で――。
ぐにゃ。
「うわ」
球が崩れた。
でも。
さっきとは違った。
「動いた?」
「少しだけ」
先生が答えた。
「形は崩れましたが、前方へ魔素が流れました」
俺は帳面へ飛びついた。
『後ろから前へ流そうとした。形は崩れた。少し前へ動いた』
動いた。
失敗したけど、動いた。
さっきまでとは違う失敗だ。
「もう一回」
「あと二回までです」
先生より先にマリーが言った。
「なんで二回?」
「アルス様のお顔が、十回やるお顔だからです」
どんな顔だ。
でも二回は確保した。
二回目。
球を作る。
後ろ側から前へ流す。
また崩れた。
ただし、一回目より少しだけ前へ伸びた気がする。
三回目。
今度は押す力を弱くする。
形を保つことと、前へ流すことを同時に意識する。
難しい。
二つ考えた瞬間、球全体の感覚が曖昧になる。
それでも。
ほんの一瞬だけ。
まとまった感覚が、手のひらから離れた。
すぐに散った。
距離にすれば、ほんのわずかだ。
「……離れた」
「離れましたね」
先生が頷く。
俺は右手を見る。
何も残っていない。
火も出ていない。
光もない。
音すらしない。
それでも、今まで手のひらの近くでしか保てなかった魔素が、一瞬だけ俺から離れた。
嬉しくて、もう一回やりたくなる。
「今日は終わりです」
言う前に止められた。
「まだ何も言ってない」
「お顔が言っています」
マリーにも先生にも、俺の顔はそんなに分かりやすいんだろうか。
俺は諦めて帳面を閉じた。
帰り道。
頭の中では、今日の失敗を何度も繰り返していた。
想像するだけでは動かなかった。
流れを作ると、動いた。
でも形が崩れた。
形を保つ操作と、動かす操作は別。
なら両方を同時に扱えるようになればいい。
たぶん、その先にも別の操作がある。
熱くする。
冷たくする。
押す。
引く。
回す。
固める。
できるかどうかは、まだ分からない。
前世で見た物語の魔法も、地球で知った科学も、この世界の答えそのものではなかった。
使えるのは、答えじゃない。
「こうしたらどうなる?」
その問いだけだ。
俺は帳面を抱え直した。
想像しただけでは、魔法にならない。
でも。
想像したものが本当にできるのか、一つずつ確かめることはできる。
それなら十分だ。
むしろ、その方が面白い。




