第十一話 想像だけでは動かない
身体の外へ、ほんの少しだけ魔素を出せた。
翌朝。
俺は帳面を開き、昨日の記録を読み返していた。
『二回目。押さない。身体と外の境目を探した。少し出た。驚いたら消えた』
何度読んでも、やっぱり曖昧だ。
でも、あの感覚は覚えている。
手のひらで終わっていたはずの自分の感覚が、一瞬だけ、その先まで続いた。
ほんの少し。
それでも身体の中だけを動かしていた時とは、明らかに違った。
「外に出せるなら……」
俺は右手を眺めた。
昨日、先生は言っていた。
火や風に変えようとするな、と。
つまり逆に言えば、身体の外へ出した魔素を使って、火や風を起こすことはできる。
兄上は実際に空気を動かした。
父上は木片を浮かせた。
だったら。
俺は前世で見たものを思い浮かべた。
漫画。
小説。
ゲーム。
手のひらから火。
指先から雷。
見えない力で物を吹き飛ばす。
魔法のある世界に転生した人間なら、一度くらい考えるだろう。
強く想像すれば、出るんじゃないか。
「…………」
試したい。
ものすごく試したい。
俺は右手を前に出した。
そして、止めた。
昨日、二回までと言われた。
それに部屋で一人で魔法を使うなとも言われている。
「危ない危ない」
危うく一日で自分の記録を無視するところだった。
ベッドの上では、クロムが丸くなっている。
「今、止めたの偉くない?」
クロムは目も開けなかった。
褒める気はないらしい。
その日の訓練は、昨日と同じところから始まった。
全身に魔素を巡らせる。
右手まで運ぶ。
身体と外の境目を探す。
そこから先へ、ほんの少しだけ感覚を伸ばす。
一回目。
失敗。
二回目。
一瞬だけ出た。
三回目。
昨日より少し長い。
俺はそのたびに帳面へ記録した。
教師は急かさない。
成功した時より、失敗した時の俺の様子をよく見ているようだった。
「先生」
「はい」
「聞いていい?」
「もちろんです」
俺は右手を開いた。
「外に出した魔素って、想像しただけで火になったりします?」
教師が少し黙った。
「なぜ、そう思ったのですか?」
しまった。
説明しにくい。
前世で読んだ漫画です、とは言えない。
「なんとなく」
「なるほど」
教師はそれ以上追及しなかった。
「では、試してみますか?」
「いいの?」
思わず声が大きくなった。
教師が笑う。
「私が見ていますから。ただし、ごく少量です」
やった。
俺は帳面を地面へ置き、右手を前へ出した。
「何を起こします?」
「火」
一番分かりやすい。
教師が頷く。
「では、やってみてください」
俺は右手へ魔素を集めた。
身体の境界を探し、その外へ少しだけ伸ばす。
ここまでは、さっきできた。
そして。
火を想像する。
赤い炎。
燃える薪。
ろうそく。
ガスコンロ。
前世で見た炎なら、いくらでも思い出せる。
熱。
光。
燃焼。
酸素。
燃えるものがあって――。
「…………」
何も起きない。
さらに強く想像する。
炎。
燃えろ。
火。
「…………」
やっぱり何も起きない。
手のひらの先に出ていた魔素まで散った。
「駄目だ」
「そうですね」
教師は平然としている。
俺は帳面を取った。
『火を強く想像した。何も起きない』
書いてから顔を上げる。
「想像が弱い?」
「そう考えますか?」
「違うの?」
教師は少し離れた場所に立ち、片手を出した。
「見ていてください」
その指先に、小さな火が灯った。
ろうそくより少し大きい程度の炎。
見慣れてしまえば小さな魔法なのだろう。
でも今は、その間に何が起きたのかが気になる。
「今、火を想像した?」
「もちろん、完成する現象は意識しています」
「じゃあ同じじゃない?」
「同じではありません」
教師は火を消した。
「アルス様は、火が出るところだけを考えました」
図星だった。
「私は魔素をどう動かし、どこへ集め、どのような変化を起こすかを知っています。その結果として、火が生まれます」
俺は少し考えた。
「完成した形を思い浮かべるだけじゃ駄目?」
「少なくとも、それだけでは難しいでしょう」
なるほど。
魔法だからといって、何でも想像で出てくるわけじゃない。
「でも、火が出るって知らない人は?」
「最初から自分で見つけるのは大変でしょうね。だから人は教わります」
それも当然だ。
魔法が何千年、何万年使われてきたのかは知らない。
でも、この世界の人たちは昨日突然魔法を手に入れたわけじゃない。
誰かが試した。
失敗した。
少しだけ成功した。
それを次の誰かへ伝えた。
今、先生が俺に教えているものだって、その積み重ねの先にある。
「じゃあ、魔法ってもう全部分かってる?」
教師が笑った。
「まさか」
即答だった。
「分からないことの方が多いですよ」
その言葉に、少し嬉しくなった。
全部分かっているなら、俺が調べることがない。
「同じ火でも、やり方は一つ?」
「いいえ。人によって得意な方法も違いますし、使う道具や術式によっても変わります」
「結果が同じでも?」
「途中が違うことはあります」
俺は急いで帳面に書いた。
『同じ結果でも、途中が同じとは限らない』
さらに、その下へ書く。
『想像だけでは火は出なかった』
ここで手が止まった。
一回しか試していない。
「……出なかった、でいいのかな」
「何がです?」
「一回失敗しただけなのに、想像だけじゃ火は出ないって決めていい?」
教師が少し驚いた顔をした。
それから、ゆっくり頷いた。
「良いところに気づきましたね」
やっぱりそうか。
俺は書いた文字に一本線を引いた。
消さない。
読めるように残す。
そして横に書き足した。
『今回は出なかった』
これなら事実だ。
想像だけで絶対に火が出ないのかは、まだ分からない。
俺にできなかっただけかもしれない。
やり方が悪かったのかもしれない。
必要な条件が足りなかったのかもしれない。
「先生」
「はい」
「火は、まだ教えなくていいです」
「おや」
少し意外そうな顔をされた。
「やりたがると思っていました」
「やりたい」
ものすごくやりたい。
「でも、その前に外の魔素をちゃんと動かしたい」
火を出す方法だけ覚えてしまったら、火を出せるようにはなるだろう。
でも、それでは何が起きているのか分からない。
まずは一番単純なところから。
身体の中。
身体の境界。
身体の外。
そこまでを自分で分けてみたい。
教師は少し考えてから頷いた。
「では、今日は外へ出した魔素を散らさず保つ練習をしましょう」
「はい」
俺は右手を前へ出した。
その前に帳面を見る。
『今回は出なかった』
失敗。
でも、嫌な感じはしない。
むしろ一つ減った。
魔法は、強く願えば何でも起きる。
少なくとも今の俺には、そうではなかった。
前世の物語で見た魔法は、答えじゃない。
この世界に本当に魔法があるからといって、物語の中の仕組みまで正しいとは限らない。
だったら使い方は一つだ。
思いつく。
試す。
違ったら捨てる。
少し合っていたら、その部分だけ残す。
俺は手のひらの先へ意識を向けた。
見えない境界の向こうに、ほんの少しだけ自分の魔素が触れる。
今度は驚かない。
火も出さない。
ただ、その状態を観察する。
知らないものを知るのに、近道があるとは限らない。
でも。
間違った道が一つ分かったなら、それも前進だ。




