第十話 失敗の記録
紙をもらった。
正確には、紙を何枚か綴じた小さな帳面をマリーが用意してくれた。
「これならなくしませんから」
「俺、そんなになくす?」
「紙でしたら」
否定されなかった。
たしかに一枚ずつ渡されたら、どこかへ置いて忘れる気はする。
俺は机に座り、最初のページを開いた。
何を書くかは決めてある。
右手に魔素を集める。
一回目――できた。少し遅い。
二回目――途中で散った。
三回目――できた。手が少し熱い。
四回目――細かく意識したら失敗。
五回目――大雑把にやったら成功。
昨日のことを思い出しながら、一つずつ書いていく。
書き終えて眺めた。
「……少ないな」
五回しかない。
しかも「遅い」とか「少し熱い」とか、全部俺の感覚だ。
数字はない。
前世なら時間を測ることも、温度を測ることもできた。
この世界にも測る道具はあるのだろうけれど、今の俺には使えない。
だったら、今あるものでやるしかない。
「アルス様」
「なに?」
「今日は魔素を使わないのですか?」
「使うよ」
俺は帳面を持ち上げた。
「その前に、これ」
マリーが覗き込む。
「昨日の練習ですか?」
「うん。忘れたら比べられないから」
「比べる?」
「今日と昨日」
マリーはしばらく帳面を見ていた。
「アルス様は、不思議なことをなさいますね」
「誰もやらない?」
「いいえ。騎士の方も訓練の記録を残しますし、魔法の先生も記録をつけていらっしゃいますよ」
また俺だけではなかった。
「じゃあ普通じゃん」
「五歳では、あまり見ません」
そこか。
俺は帳面を閉じた。
まあいい。
年齢はそのうち増える。
訓練場へ行くと、教師は俺の帳面にすぐ気づいた。
「それは?」
「昨日の記録です」
渡す。
教師はページを開き、少し驚いた顔をした。
「ご自分で?」
「はい」
「なるほど……」
何度か読み返している。
「何か変?」
「いえ。記録を取ること自体は良いことです。ただ――」
教師が一回目と五回目を指した。
「これでは、後から読んだ時に条件が分かりません」
「条件?」
「立っていたのか、座っていたのか。何回続けた後なのか。疲れていたのか。休憩した直後なのか」
あ。
言われてみれば、その通りだ。
同じ結果を比べたいのに、何が同じだったのかを書いていない。
「あとから書いたから、もう分かんない」
「でしたら、昨日の記録はそれで構いません」
教師が帳面を返してくれる。
「分からないことまで埋めてはいけません。次から残せばいいのです」
その言葉が気に入った。
分からないところを、想像で埋めない。
俺は帳面を開き、新しいページの上に大きく書いた。
今日。
立った状態。
練習前。
右手。
「これでいい?」
「十分でしょう」
よし。
「では始めましょう」
教師の前で、右手へ魔素を集める。
一回目。
できた。
帳面に書く。
二回目。
できた。
書く。
三回目。
途中で少し乱れた。
書く。
四回目。
できた。
「アルス様」
「はい?」
「記録に夢中になって、休むことを忘れないように」
「まだ四回です」
「回数だけで決めないことです」
また条件が増えた。
俺は右腕を確認する。
重くはない。
痛くもない。
でも、一回目より少しだけ魔素を動かしにくい気がする。
それも書いた。
『四回目。成功。最初より少し動かしにくい気がする』
気がする。
曖昧だ。
でも、今はそれでいい。
「先生」
「はい」
「昨日、兄上が空気を動かしてましたよね」
「ええ」
「その前に、身体の外へ魔素を出すんですよね?」
「正確には、外へ働きかけられる状態を作ります。術式や方法によって、魔素をどこまで身体の外へ放つかは違います」
また一つじゃない。
「じゃあ、何も動かさないで、外に出すだけなら?」
教師が俺を見る。
「試してみたいのですか?」
「はい」
少し考えたあと、教師は頷いた。
「ごく少量なら構いません。ただし、飛ばそうとしないこと。火や風に変えようともしない。手のひらの外へ触れるところまでです」
「分かりました」
やっと一歩進める。
俺は帳面を地面へ置いた。
右手を前へ出す。
まず身体の中の魔素を整える。
胸から肩。
肩から腕。
腕から手のひら。
ここまではできる。
問題は、その先だ。
皮膚の内側で止まっている感覚を、ほんの少し外へ。
「…………」
動かない。
もう少し押す。
動かない。
さらに――。
「力を入れすぎない」
教師に止められた。
俺は一度、魔素を戻した。
「押したら駄目?」
「駄目ではありませんが、今のアルス様は力で押し出そうとしています」
「違うの?」
「扉を開けずに、壁の向こうへ行こうとしているように見えます」
分かりやすい。
でも。
「扉って何?」
「それを探すのも練習です」
そこは教えてくれないのか。
俺はもう一度試した。
今度は押さない。
手のひらまで魔素を運ぶ。
その先。
身体と外の境目を意識する。
昨日、外の魔素を感じた時と少し似ている。
内側には、自分の魔素。
外側には、周囲の魔素。
その二つが接している場所。
「……ここ?」
ほんの一瞬。
指先の外に、自分の感覚が続いた。
驚いた瞬間、消えた。
「今!」
教師が頷く。
「少し出ました」
「出た?」
「ええ」
俺は急いで帳面を拾った。
『一回目。押した。失敗。力を入れすぎた』
その下。
『二回目。押さない。身体と外の境目を探した。少し出た。驚いたら消えた』
書いてから、もう一度読む。
成功。
いや。
何を成功とするかが曖昧だ。
「先生。今のは成功?」
「最初の一歩としては」
俺は少し考えて、成功とは書かなかった。
『少し出た』
それだけにする。
「もう一回」
「二回までです」
「え」
「初めて身体の外へ魔素を出したのです。今日は感覚を覚えるだけにしましょう」
「まだ全然疲れてない」
「疲れてからやめるのでは遅いのです」
正しい。
正しいけど、納得したくない。
マリーを見る。
首を横に振られた。
味方はいなかった。
仕方なく帳面を閉じる。
その時、教師が言った。
「アルス様」
「はい?」
「今日の記録は、大切に取っておくといいでしょう」
「どうして?」
「上達すると、最初に何が分からなかったのかを忘れるからです」
俺は帳面を見た。
最初に何が分からなかったのか。
確かに、右手へ魔素を集めるだけでも、最初は難しかった。
今では少しずつ当たり前になっている。
このまま続ければ、身体の外へ出すことだって、そのうち当たり前になるのかもしれない。
そうなった時。
今日の失敗は、もうできない。
「そっか」
俺は帳面を抱えた。
成功だけ残しても、どうやってそこへ着いたのかは分からない。
失敗したこと。
分からなかったこと。
勘違いしたこと。
それも全部、途中にあったものだ。
訓練場から屋敷へ戻りながら、俺は最初のページをもう一度開いた。
雑で、曖昧で、条件も足りない。
それでも捨てるのはやめた。
綺麗な答えより。
そこへたどり着くまでの道の方が、あとで役に立つかもしれない。




