第百九話 同じ鐘で起きる
消灯の鐘が鳴った。
今度は。
近かった。
低い音が。
壁を通って。
床まで少し震わせる。
俺は帳面を閉じる。
ニルが灯りへ手を伸ばした。
「消すぞ」
「うん」
火が消える。
暗い。
屋敷の自分の部屋とは違う。
窓の形も。
家具の位置も。
天井の高さも。
まだ体が覚えていない。
見えなくなると。
部屋の広さが分からなくなった。
代わりに。
音が増える。
廊下を歩く足音。
遠くで閉まる扉。
寝台が軋む音。
布が擦れる音。
隣の部屋から。
小さな笑い声。
少しして。
誰かが壁を叩いた。
笑い声が止まる。
寮は静かになった。
でも。
無音ではない。
人がたくさんいる静けさだった。
「ニル」
「何だ」
起きている。
「眠ったかと思った」
「眠ってたら返事しない」
確かに。
「耳が良いと、うるさくない?」
「何が」
「全部」
暗闇の中で。
少し間があった。
「最初はな」
「今は?」
「聞かなくていい音を覚えた」
聞こえなくなる。
ではない。
聞こえている中から。
気にしないものを分ける。
「どうやって?」
「寝る」
説明する気はなさそうだった。
でも。
多分。
繰り返すことで覚える。
廊下の足音は危険ではない。
隣の寝台の音も。
窓の外の風も。
毎日起きる。
起きても何も変わらない音を。
少しずつ外す。
「アルス」
「何?」
「聞かなくていい話を覚えろ」
「今の?」
「今の」
俺は口を閉じる。
暗い中で。
ニルの呼吸が聞こえる。
少し長い。
俺よりゆっくり。
合わせようとすると。
逆に気になる。
吸う。
吐く。
ニルの呼吸。
俺の呼吸。
廊下の音。
風。
全部が重なる。
眠る時は。
観察しない方がいいのかもしれない。
目を閉じる。
もう閉じていた。
暗さは変わらない。
考えるのを止めようとする。
止めようとすると。
止めようとしていることが残る。
難しい。
いつの間にか。
音がなくなった。
違う。
俺が眠った。
次に気づいた時。
部屋はまだ暗かった。
何かが動いている。
布の音。
小さな足音。
目を開く。
窓から。
薄い青い光が入っていた。
ニルが。
寝台の横に立っている。
「何してる?」
「起きた」
「鐘は?」
「まだ」
早い。
ニルは制服の上着を着る。
耳が。
時々扉の方を向く。
「何か聞こえた?」
「厨房」
俺には聞こえない。
「もう動いてる?」
「多分」
朝食を作るなら。
起床の鐘より前に始める必要がある。
俺たちが同じ時間に食べるために。
その前から動いている人がいる。
鐘は。
全員の一日の始まりではない。
鐘で起きる人の始まり。
厨房の人たちは。
もっと前から起きている。
「寝てていいぞ」
ニルが言う。
「起きた」
「まだ暗い」
「ニルも起きてる」
「俺はいつもこのくらいだ」
いつも。
学園に来る前から。
体が同じ時間に起きるらしい。
場所が変わっても。
時間が変わらない。
「鐘がいらない?」
「寝過ごした時にはいる」
必要ない日が多くても。
失敗した日に役に立つ。
鐘は。
全員を起こすというより。
遅れている人も。
同じ流れへ戻す仕組みなのかもしれない。
俺も起きる。
足を床につける。
冷たい。
屋敷では。
朝になると部屋が少し温められていた。
ここでは。
自分で服を着る。
制服を手に取る。
前と後ろを確認する。
袖を通す。
襟を直す。
マリーはいない。
昨日は。
洗礼の服を着た時のことを思い出した。
襟。
紐。
袖。
何度も直していた。
俺には分からない少しの違いを。
マリーは見つけた。
鏡を見る。
大きくは間違っていない。
でも。
襟の片方が少し折れている。
直す。
今度は。
反対側がずれた気がする。
「それでいいだろ」
ニルが言う。
「同じじゃない」
「誰もそこまで見ない」
「見る人はいる」
「お前みたいなやつか」
それなら。
見る人はいる。
でも。
自分が気にする理由とは違う。
マリーなら。
どう直すか。
少し見たくなった。
いない。
だから。
自分で決める。
左右が完全に同じではない。
でも着られる。
今日はこれでいい。
顔を洗うため。
水差しを持つ。
持ち上げると。
軽い。
昨日使った分だけ減っている。
「水はどこでもらう?」
「廊下の突き当たり」
「案内にあった?」
「水差しの横」
見る。
小さな木札。
『給水場は廊下東端』
昨日はなかった気がする。
違う。
見ていなかった。
物の近くに。
必要な情報が置かれている。
掲示板へ全部を集めるのではない。
使う場所に置く。
「分かりやすい」
「分からなかっただろ」
「今分かった」
水差しを持って廊下へ出る。
同じように。
何人かが水を汲みに来ていた。
眠そうな顔。
髪が整っていない人。
もう制服をきちんと着ている人。
靴を履かず。
室内用の履物のまま来た人。
起床の鐘はまだ。
でも。
起きる時間は同じではない。
部屋へ戻り。
顔を洗う。
水が冷たい。
目が覚める。
ニルは。
窓の前で細長い包みを解いていた。
中から出たのは。
本当に木の棒だった。
俺の身長より少し短い。
黒っぽい。
何度も握られた場所だけ。
色が少し違う。
「使う?」
「少し」
「どこで?」
「外」
「見ていい?」
ニルの手が止まる。
昨日のことを思い出したらしい。
「邪魔しないなら」
許可された。
一緒に階段を下りる。
寮の裏に。
小さな空き地がある。
昨日は通らなかった場所。
地面は固い。
端に木が何本か立っている。
ニルは。
空き地の中央までは行かない。
端を選ぶ。
他にも。
体を動かしている生徒がいる。
走る人。
腕を回す人。
剣の形を繰り返す人。
誰も指示していない。
授業でもない。
同じ場所に集まっているけど。
していることは違う。
ニルが棒を構える。
両手。
右足が少し前。
動く。
速い。
振る。
止める。
戻す。
次。
同じ動き。
でも。
少しずつ違う。
足の位置。
棒の角度。
止まる場所。
「何回する?」
返事はない。
棒が動いている間は。
話さない方が良さそうだった。
見る。
今度は。
見ていることを隠さない。
ニルも許可した。
でも。
近づかない。
質問もしない。
見るだけ。
同じ動きが続く。
十回。
二十回。
途中から。
数えるのを止めた。
回数より。
崩れる場所を見た方がいい。
最初は。
棒の先が同じ場所で止まっていた。
少しすると。
わずかに下がる。
腕が疲れた?
呼吸は大きく変わらない。
足も。
ほとんど動かない。
下がった後。
ニルは一度構えを解いた。
手を開く。
握り直す。
それから再開する。
腕ではなく。
手?
「今のは?」
動きが止まってから聞く。
「何が」
「棒の先が下がった」
ニルがこちらを見る。
「分かるのか」
「少し」
「握りすぎた」
やっぱり。
力を入れすぎると。
疲れる。
でも。
棒を落とさないためには握る必要がある。
強く握ることと。
必要な時に力を入れることは違う。
「ずっと強くしない?」
「動く時だけだ」
魔素と似ている。
ずっと体の外へ押し続ければ。
無駄が増える。
必要な場所。
必要な時間。
必要な量。
ただし。
同じ言葉にはしない。
棒の使い方と。
魔素の扱いは別のもの。
似ているところがあるだけ。
ニルが棒を包み直す。
「もう終わり?」
「朝はこれだけ」
「毎日?」
「できる日は」
毎日ではない。
いつも。
とも少し違う。
決めすぎない。
雨の日。
体調が悪い日。
予定がある日。
条件で変わる。
「帳面に書くなよ」
「今は持ってない」
「部屋に戻ってからも」
「ニルが言ったことは?」
「握りすぎた、までならいい」
どこまで残していいか。
少しずつ分かる。
起床の鐘が鳴った。
空き地にいた人が。
一斉に動きを止めたわけではない。
最後の一回を終える人。
すぐ寮へ戻る人。
その場で息を整える人。
鐘は同じでも。
反応には少し幅がある。
ニルは歩き出した。
「戻るぞ」
「すぐ?」
「朝食の前に片づける」
俺もついていく。
部屋へ戻ると。
廊下の音が増えていた。
扉。
足音。
声。
水差し。
昨日の夜とは違う。
同じ建物が。
時間で別の場所になる。
ニルは棒を壁へ戻す。
俺は。
寝台の毛布を見る。
起きたまま。
形が崩れている。
「これ、どうする?」
「畳む」
「毎日?」
「点検がある」
初めて聞いた。
「いつ?」
「朝食の後」
「案内にあった?」
「部屋の扉」
見る。
内側。
目の高さより少し上に。
寮の朝の手順が書かれている。
起床。
寝具を整える。
換気。
朝食。
部屋の確認。
登校。
昨日。
扉を閉めた時。
この紙は見えていた。
でも。
読んでいなかった。
見る場所が多い。
壁。
机。
水差し。
扉。
情報が。
使う場所ごとに分かれている。
一つずつは分かりやすい。
でも最初は。
どこに何があるかを知らない。
「最初に全部教えない?」
「書いてある」
「どこに書いてあるかは?」
「探せ」
「時間がかかる」
「一回見れば覚えるだろ」
ニルにとっては。
多分そう。
俺は。
意味を考えて止まる。
だから遅い。
紙を読むだけなら。
ニルの方が早い。
意味を広げるのは。
後でもできる。
今は。
毛布を畳む。
端を合わせる。
半分。
もう半分。
寝台の足元へ置く。
ニルの毛布を見る。
俺より小さくまとまっている。
「同じにする?」
「寝台の上にあればいい」
点検の基準は。
左右が揃っていることではないらしい。
必要な状態。
見た目の統一。
同じではない。
窓を少し開ける。
換気。
冷たい空気が入る。
昨日の食事の匂いは。
もう分からない。
朝食の鐘。
今度は。
意味が分かる。
二人で部屋を出る。
昨日と同じ廊下。
同じ階段。
でも。
迷わない。
一度歩いたから。
途中の曲がり角で。
ニルが何も言わず右へ進む。
俺もついていく。
「今日は標識を見ないのか」
「道を覚えた」
「一回で?」
「食堂までは」
全部ではない。
食堂まで。
分かる範囲だけ答える。
ニルも。
昨日より俺の聞き方に慣れた気がする。
食堂。
昨日と同じ長い卓。
でも。
座っている人が違う。
朝は。
席が埋まるのが速い。
食べ終わった人から立つ。
話す声も少ない。
昼や夜より。
次の時間が近いから?
俺たちは。
また端へ座る。
ニルは。
パン。
卵。
温かい汁。
肉は少ない。
見る。
ニルが先に言う。
「朝はこれでいい」
「昨日より少ない」
「昨日は腹が減ってた」
「記録と同じだった」
「書くなよ」
「書かない」
俺は。
卵を割る。
殻が少し皿に落ちた。
指で取る。
家では。
朝食が運ばれてきた。
卵の殻を取ったことはある。
でも。
食器を戻す場所。
残したものの分け方。
席を立つ順番。
ここでは自分で見る。
周りを観察する。
食べ終わった人は。
皿を重ねる。
卓の端へ運ぶ。
残り物は別の容器。
匙は水の入った桶。
パンくずは。
布で集める。
「見すぎると冷めるぞ」
「先に流れを見てる」
「前のやつの真似をすればいい」
全部を理解してから動かなくても。
前の人と同じにすれば。
流れには乗れる。
俺は食べる。
食べ終わってから。
前の人を見る。
皿。
匙。
残り物はない。
同じように戻す。
できた。
理由は。
まだ全部知らない。
でも。
動ける。
学園では。
先に動いて。
理由を後から知ることも増えるかもしれない。
部屋へ戻ると。
扉が開いていた。
中に。
寮の職員らしい大人がいる。
名前は知らない。
寝台。
窓。
床。
順に見る。
俺たちを見る。
「問題なし」
それだけ言って。
次の部屋へ移る。
短い。
「何を見た?」
「散らかってないか」
「どこまでなら散らかってる?」
「問題なしだったんだからいいだろ」
今日の基準は通った。
でも。
境目は分からない。
毛布がもう少し曲がっていたら?
靴の向きが違ったら?
机に帳面を出していたら?
試したくなる。
でも。
わざと散らかすと。
ニルも困る。
一人の観察ではない。
共有する部屋だから。
実験するなら。
相手の許可がいる。
「明日、少しだけ変えてみる?」
「何を」
「毛布の位置」
「やらない」
許可されなかった。
終わり。
授業へ向かう準備をする。
帳面。
筆記具。
案内。
教本は。
教室で受け取るらしい。
鞄に入れる。
昨日より。
荷物が少ない。
でも。
忘れているものがあるかもしれない。
「ニル、何を持った?」
「案内に書いてあるもの」
「確認していい?」
「自分のと比べろ」
中身を全部見せるのではなく。
言葉で確認する。
帳面。
筆記具。
学生証。
昼食用の小さな札。
同じ。
「大丈夫」
「最初から紙を見れば大丈夫だった」
「二人で確認すると、もっと大丈夫」
「増えない」
「見落としは減る」
ニルが少し考える。
否定しなかった。
部屋を出る。
今度は。
食堂ではなく。
教室棟。
標識を見る。
東棟。
一年。
基礎課程。
教室番号。
案内の紙と。
壁の表示を比べる。
ニルは先に進む。
俺は。
止まらないように読みながら歩く。
昨日より少し速い。
廊下には。
同じ制服の生徒が流れている。
全員。
同じ教室ではない。
曲がり角で分かれる。
階段で分かれる。
掲示の前で止まる。
一つの鐘で動き始め。
それぞれの場所へ向かう。
「こっちだ」
ニルが教室の扉の前で止まる。
番号は合っている。
中へ入る。
机が並んでいる。
二人で使う机。
前には。
黒い板。
教壇。
窓。
昨日の礼拝堂とは違う。
ここは。
話を聞くだけの場所ではない。
書く。
読む。
試す。
質問する。
そのための形をしている。
「どこに座る?」
「指定がある」
机の端に。
小さな札が置かれていた。
名前ではない。
学生証の番号。
自分の番号を探す。
ニルとは。
離れている。
同室でも。
授業では隣ではない。
部屋を分ける基準と。
教室を分ける基準が違う。
俺の席は。
中央より少し前。
窓からは離れている。
座る。
机の傷。
椅子の高さ。
前の人との距離。
黒い板までの角度。
見える。
聞こえる。
書ける。
そのために。
机の向きが揃っている。
寮の部屋では。
二人が向かい合って決めた。
教室では。
全員が前を向くように。
最初から決められている。
目的が違うから。
配置も違う。
鐘が鳴る。
話し声が小さくなる。
完全には止まらない。
前の扉が開く。
一人の教師が入ってきた。
名前は。
まだ知らない。
教師は教壇へ立つ。
教室全体を見る。
俺も教師を見る。
見る側と。
見られる側。
でも今は。
一人が大勢を見る。
大勢も。
同じ一人を見る。
教師が口を開く。
「最初の授業を始めます」
教室が静かになる。
屋敷では。
俺一人のために先生がいた。
ここでは。
違う場所から来た生徒が。
同じ言葉を聞く。
同じ鐘で起きても。
同じ朝を過ごしたわけではない。
それでも。
今は同じ教室にいる。
学園での最初の朝は。
ようやく。
授業までたどり着いた。




