第百八話 同室の名前
扉が閉まる。
少年は。
左側の床に置かれた荷物を見た。
大きな鞄が一つ。
細長い包みが一つ。
丸めた毛布。
それから。
俺の机の上にある帳面を見る。
「書いてたのか」
「うん」
「何を」
「今日のこと」
少年の耳が。
少しだけこちらを向いた。
顔は荷物の方を見たまま。
耳だけが動く。
さっきから気になっていた。
耳は。
顔より先に音の方を向くことがあるらしい。
でも。
見ることにも相手がいる。
さっき書いたばかりだ。
俺は耳から目を離す。
少年が言った。
「今、耳を見てただろ」
「見てた」
「隠す気もないのか」
「隠したら、見てなかったことになる?」
「ならない」
すぐに返ってきた。
「じゃあ、言った方がいい」
「そういう問題か?」
少し考える。
多分。
それだけでもない。
見ていることを伝えれば。
何を見てもいいわけではない。
「嫌だった?」
「気にはなる」
嫌。
ではなく。
気になる。
同じではない。
俺は帳面を開きかけて。
止める。
今書いたら。
多分もっと気にする。
少年は鞄の留め具を外す。
服。
布袋。
木の箱。
中から一つずつ出して。
左の棚へ入れていく。
動きが速い。
迷わない。
置く場所を最初から決めているように見える。
「名前は?」
俺が聞く。
少年は手を止めない。
「先に自分から言えよ」
「あ」
確かに。
名前を知りたいなら。
まず自分が言う。
先生にも教わった気がする。
知識としては知っていた。
でも。
知りたい方が先に出た。
「アルス」
「それだけか?」
「アルス・ローベント」
家名まで言うと。
少年の手が一度止まった。
「貴族か」
「うん」
今度は俺から聞く。
「君は?」
「ニル」
待つ。
続きはない。
「それだけ?」
「お前が最初にそう言っただろ」
返された。
「家名は?」
「ない」
「種族は?」
今度は。
完全に手が止まった。
少年。
ニルが。
ゆっくり俺を見る。
「お前、会ったばかりの相手に全部聞くのか」
「知りたいから」
「順番ってものがあるだろ」
「名前の次は種族じゃない?」
「違う」
違うらしい。
「じゃあ何?」
「住んでた場所とか。得意なこととか。普通はもう少し話してからだ」
「種族より先に?」
「人による」
また。
人による。
便利な言葉。
でもここでは。
本当にそうなのだと思う。
同じ獣人でも。
聞かれて気にしない人と。
気にする人がいる。
何を先に話すかも違う。
「耳で分かると思った」
ニルの眉が動く。
「灰色の耳と尾があるから?」
「うん」
「それだけで決めるな」
「違う?」
「灰狼族だ」
当たっていた。
でも。
当たっていれば良いわけではない顔をしている。
「当たった」
「そういうところだぞ」
難しい。
答えが正しい。
推測の仕方も大きくは外れていない。
それでも。
相手は喜ばない。
「何が駄目?」
ニルは息を吐いた。
「耳の色が同じでも、別の一族はいる。住んでる場所で毛の色が変わるやつもいる。親が違えば、どっちの特徴が出るかも分からない」
「一つの特徴だけでは決められない」
「そうだ」
それなら分かる。
測定と同じ。
一つの値だけで全体を決めない。
「それを先に言ってくれれば」
「会ってすぐ説明させるな」
また顔をしかめた。
でも。
さっきより少しだけ。
声が柔らかい。
ニルは荷物を棚へ入れ終える。
最後に。
細長い包みを壁へ立てた。
「それは?」
「棒」
「何に使う?」
「訓練」
「武器?」
「棒だ」
同じ答え。
多分。
今はそれ以上話したくない。
俺は聞くのを止める。
止めると。
部屋が静かになった。
ニルがこちらを見る。
「もう聞かないのか」
「今は話したくないと思ったから」
「……そうか」
正しかったらしい。
少し分かった。
話したくない。
という言葉がなくても。
同じ答えを繰り返すことが。
線になる場合がある。
ただ。
いつもそうとは限らない。
後で先生に聞く。
ここには先生はいない。
思い出して。
少し止まる。
学園には先生がいる。
でも。
今までの先生ではない。
聞きたいことが出た時。
同じ人へすぐ聞けるわけではなくなった。
それも。
家を出た変化だった。
ニルが二つの寝台を見る。
「どっちを使う」
「右に荷物を置いた」
「右でいいのか?」
「多分」
「多分で決めるな。夜になって替えたいって言われても困る」
俺は右の寝台を見る。
窓に近い。
朝は明るそう。
机も右。
扉からは少し遠い。
左は扉に近く。
窓から少し離れている。
「ニルは?」
「俺はどっちでもいい」
どっちでもいい人に聞くと。
決める材料が増えない。
「朝、光で起きる?」
「起きる」
「音は?」
「起きる」
「匂いは?」
「ものによる」
耳だけではない。
多分。
俺より眠りが浅い。
「じゃあ窓から離れた方がいい?」
「なんで」
「光で起きるから」
「朝は起きるだろ」
そうだった。
起きる時間なら。
光で起きても問題ではない。
必要なのは。
起きるかどうかではなく。
起きたくない時に起きるか。
質問が足りなかった。
「夜に外の音がしても起きる?」
「窓を閉めればいい」
「暑い時は?」
「その時に決める」
その時。
まだ起きていないことを。
全部先に決める必要はない。
俺は右の寝台を指す。
「俺はこっち」
「じゃあ俺は左」
決まった。
簡単だった。
でも次に。
机。
棚。
窓。
灯り。
水差し。
掃除道具。
共有するものが残っている。
「全部決める?」
ニルが聞く。
俺が見ていたものを。
順に目で追ったらしい。
「決めた方が困らない」
「使って困ったら決めればいい」
「先に分かることは?」
「決めてもいい」
二人の間に。
最初の基準ができた。
先に困ると分かるものは。
今決める。
まだ分からないものは。
起きてから決める。
俺は机の引き出しを開ける。
左右に一つずつ。
「これは一人一つ」
「見れば分かる」
「確認」
「もういい」
ニルは左の引き出しへ。
小さな木箱を入れた。
俺も右へ帳面を入れる。
鍵はない。
「勝手に開けない」
俺が言う。
「当たり前だ」
「でも決まり?」
「決まりにするまでもない」
「言わなくても同じ?」
「普通はな」
普通。
家でも何度も聞いた言葉。
でも。
家の普通と。
ニルの普通が同じとは限らない。
「同じだと分かったから、言った意味はある」
ニルは俺を見る。
何か言いかけて。
やめた。
「お前、いつもそうなのか」
「何が?」
「全部、考えてから言葉にする」
「考える前に言うこともある」
「さっきの種族みたいに?」
「うん」
ニルが初めて笑った。
声は出なかった。
口元が少し動いただけ。
でも。
面倒だと思っている顔とは違った。
廊下で。
鐘が鳴った。
一回。
少し間を置いて。
もう一回。
その後。
遠くの部屋で扉が開く音が続く。
「何?」
「夕食だろ」
「どうして分かる?」
「案内に書いてあった」
壁を見る。
扉の横に。
一枚の紙が貼ってある。
起床。
朝食。
授業。
昼食。
夕食。
入浴。
消灯。
時間と鐘の回数。
俺も部屋に入った時。
一度見た。
でも。
荷物と寝台の方を先に見て。
細かく読んでいなかった。
「標識を見ろって言っただろ」
入学式の前。
廊下で迷いかけた俺に。
ニルが言った言葉。
「同じ人だった」
「今さらか」
耳と尾では分かっていた。
声も同じ。
でも名前を知ったことで。
さっきの少年と。
同室のニルが。
一人につながった感じがした。
「名前があると、記憶がまとまる」
「俺に言われても知らない」
食堂へ向かう。
廊下には。
同じ鐘を聞いた生徒が出てきていた。
一人。
二人。
三人。
部屋ごとに増える。
寮の規則が。
別々にいた人を。
同じ時間に動かしている。
階段へ集まり。
同じ方向へ流れる。
「全員、鐘で動く」
「夕食だからな」
「家では呼びに来た」
「ここで全員を呼びに回ってたら、飯が冷める」
効率。
人数が増えると。
方法が変わる。
屋敷では。
誰かが俺を呼びに来た。
学園では。
鐘が全員へ同時に知らせる。
ただし。
鐘の意味を知らないと動けない。
だから紙がある。
音。
規則。
掲示。
三つがつながっている。
「歩きながら止まるな」
後ろから声がする。
前との間が空いていた。
俺は進む。
見る場所が増えると。
足が止まる。
これも。
学園では気をつける必要がある。
食堂は広かった。
長い卓が。
何列も並んでいる。
種族ごとには分かれていない。
年齢でも。
完全には分かれていない。
空いている席へ座るらしい。
ニルが端の席を選ぶ。
俺は向かいへ座る。
「隣じゃない?」
「顔を見て話せるだろ」
なるほど。
部屋では。
寝台が並ぶ。
食事では。
向かい合う。
同じ二人でも。
目的で位置が変わる。
大皿から。
自分の分を取る。
パン。
煮込み。
焼いた野菜。
肉。
ニルは肉を多く取った。
俺は煮込みを少し多く取る。
見ていると。
ニルが先に言う。
「種族じゃないぞ」
「まだ何も言ってない」
「顔に出てる」
「肉が多いと思った」
「好きだからだ」
灰狼族だから。
とは限らない。
好きだから。
それだけかもしれない。
「いつも多い?」
「今日は腹が減ってる」
いつもですらなかった。
一回の観察で。
普段を決めない。
前にも分かっていたこと。
人を見る時は。
さらに気をつける必要がある。
食事の途中。
ニルが聞いた。
「お前、どこから来た」
今度は。
ニルからだった。
「ローベント領。馬車で二日くらい」
「くらい?」
「道と休む場所で変わる」
「普通に二日でいいだろ」
「でも同じではない」
ニルはパンをちぎる。
「俺は北の森の町。ここまで六日」
「道は?」
「今は食え」
止められた。
聞く順番だけではなく。
聞く時間もある。
口に物が入っている時に。
長い説明が必要な質問をしない。
それも。
多分。
共有されている普通。
食事を終え。
部屋へ戻る。
廊下は来た時より少し暗い。
部屋に入ると。
ニルが先に窓を少し開けた。
「閉める?」
「食堂の匂いが服についてる」
俺には。
ほとんど分からない。
でもニルには分かるらしい。
「どの匂い?」
「煮込みと煙」
自分の袖を嗅ぐ。
少し。
あるような。
ないような。
「近いと分からなくなる」
ニルが言う。
「匂いはずっとあると慣れる」
知っているらしい。
俺より匂いが分かるから。
慣れる変化も大きいのかもしれない。
聞こうとして。
やめる。
今は。
窓を開けたい理由だけ分かればいい。
全部を聞かなくても。
一緒に過ごすために必要なことは足りる。
夜。
灯りをつける。
机は二つある。
でも灯りは。
壁に一つ。
俺が帳面を開くと。
ニルは寝台の上で。
細長い包みの紐を結び直している。
壁の灯りは。
俺の手元を照らし。
同時に。
ニルの方も照らす。
「先に寝る時、明るいと困る?」
「その時は言う」
「今決めなくていい?」
「まだ寝ない」
その時に決める。
今日だけで。
何度も出てきた。
俺は帳面へ書く。
『同室者。ニル。灰狼族』
そこで止まる。
灰狼族。
それはニルの一部。
でも最初の一行に書くと。
そこが一番大事に見える。
線を引く。
『同室者。ニル』
次に。
『北の森の町から六日かけて来た』
『肉が好き。ただし、今日多く取ったのは腹が減っていたから』
向かいから声が来る。
「何を書いてる」
「ニルのこと」
紐を結ぶ手が止まった。
「やめろ」
「嫌?」
「俺の知らないところで、勝手に残されるのは嫌だ」
紙の上を見る。
見るだけではない。
書くと残る。
明日も。
来月も。
もしかしたら何年も。
ニルが忘れた後にも。
俺の帳面には残る。
観察すること。
覚えること。
記録すること。
同じではない。
俺は今の三行に。
線を引く。
読めなくなるまで。
何度か重ねる。
「消した」
「本当に?」
帳面を向ける。
ニルが見る。
「名前まで消したのか」
「どこまでならいいか分からなかった」
「名前はいい」
「出身は?」
「それもいい」
「肉が好き」
「それも別にいい」
「じゃあ全部いい?」
「勝手に理由を決めた部分が嫌だ」
「腹が減っていたから、はニルが言った」
「そうだけど」
ニルは少し考える。
「俺が言ったことと、お前が考えたことを、分けて書け」
神官の言葉。
先生の教え。
今日。
俺が最初に書いたこと。
聞いたことと。
自分が考えたことを分ける。
同じだった。
「分かった」
新しい場所へ書く。
『ニルが言ったこと』
名前。
出身。
食事。
その下に。
『俺が考えたこと』
同室では。
二人の普通が同じか確認する必要がある。
ただし。
全部を最初に決める必要はない。
困ると分かることは先に。
まだ分からないことは。
起きてから話す。
そして。
もう一つ。
『人のことを残す時は、本人に見せられる書き方にする』
書いてから。
帳面をニルへ向ける。
「これは?」
ニルは最初から読む。
時間をかけて。
最後まで。
「まあ、いい」
「直すところは?」
「俺がいつも肉を多く食うみたいに書くな」
書いていない。
さっき消した。
でも。
気にしている。
「分かった」
帳面を戻す。
少しして。
ニルが灯りを見る。
「消灯の鐘までなら、書いていい」
「鐘の後は?」
「暗くする」
「決まり?」
「今、決めた」
部屋に。
学園の規則とは別の規則が一つできた。
二人だけに使われる。
小さな規則。
俺が書く。
ニルが見る。
ニルが言う。
俺が直す。
規則は。
上から与えられるものだけではない。
一緒にいる人が。
困らないように作るものでもある。
「ニル」
「何だ」
「よろしく」
入学式の後。
言う機会はあった。
でも。
名前を知らなかった。
今なら。
誰に言っているか分かる。
ニルは少しだけ間を置いた。
「おう」
短い。
でも返ってきた。
廊下の向こうで。
別の鐘が鳴る。
今度は一回。
消灯まで。
あと少し。
俺は最後に書く。
『同じ部屋になっただけでは、同室者には足りない』
『名前を知り、互いに嫌なことを知り、少しずつ使い方を決める』
『部屋は最初から二人用だった』
『二人の生活は、今日から作る』
書き終える。
灯りはまだついている。
ニルもまだ起きている。
同じ部屋。
違う寝台。
違う荷物。
違う普通。
それでも。
最初の決まりはできた。
学園での一日目は。
ようやく。
終わりに近づいていた。




