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「アーディティ様。いよいよ明日は、歴史に残る良き日となりますね。本日は早めにお休みになられ、お肌の調子を完璧に整えておかなければなりません」
ヴァースデヴァ公爵邸における私の私室。
専属侍女のカマラが、うっとりとしたため息を吐きながら、純白のシルクに金糸で精緻な刺繍が施されたウェディングドレスを見つめている。
最高級の素材を惜しげもなく使い、熟練のお針子たちが半年がかりで縫い上げた、国宝級のドレス。
そう。明日はついに、私アーディティ・ヴァースデヴァと、第一王子ヴィクラマ殿下との結婚の儀が執り行われる日である。
「ええ……そうね、カマラ。ついに、明日ね……!」
私はベッドの上に正座し、両手で固く拳を握りしめていた。
私の瞳の奥には、花嫁の純情な期待ではなく、血に飢えた狂戦士のようなギラギラとした光が宿っていた。
(ついに来たわ……! 乙女ゲームなどにおける最大にして最高の見せ場! 結婚式という名の『大断罪イベント』のステージが!!)
この数カ月、私は幾度となく「婚約破棄、スパダリでざまあ」のフラグを立てようと奮闘してきた。
高慢な態度をとってみたり、他の男に色目を使ってみたり、サンプリティなどに嫌味を言ってみたりした。
しかし、その全ては「有能な故の深謀遠慮」「高度な政治的皮肉」「過労による情緒不安定」という、この世界の圧倒的「常識」の壁に阻まれ、ただただ私の評価と好感度をカオスにするだけの結果に終わっていた。
気がつけば私は、ヴィクラマ殿下からは「かけがえのない最高のパートナー」として溺愛(※ただし会話の八割は政治と経済)され、サンプリティからは「尊敬する人生の師」と崇められている。
そんな状態のまま、無駄に日が過ぎていき、気付けばいつの間にか結婚式前夜を迎えてしまったのだ。
(でも、まだよ……。まだ諦める時間じゃないわ!)
私は心の中で燃え上がる執念の炎を燃やした。
王道展開を思い出せ。
「結婚式という最大の晴れ舞台」で、いるかも分からない神に誓う直前、あるいは誓った直後に、王子がヒロインの手を引いて現れ、「皆の者、聞け! この女の情緒不安定で精神を病み、悪逆非道を尽くした行いを!」と高らかに宣言し、花嫁を絶望の淵に突き落とす。
それこそが、最も読者(私)の心を熱くさせる、至高のエンターテインメントではないか!
(これまでの私の奇行や悪事を、実はヴィクラマ殿下が裏でこっそり調査していて、この日に一気に暴露する作戦なのかもしれない! そうよ、殿下は真面目だから、証拠を完全に集めるまでは動かなかっただけなのよ! そして、今までフラストレーションを抱えていた色仕掛けを施した攻略対象の中から、スパダリが我慢できずに立ち上がる)
「ふふ……ふふふふっ!」
「……アーディティ様? また何やら恐ろしい笑みを浮かべておいでですが……まさか、マリッジブルーですか? ご安心ください、我が公爵家の法務部が王室と交わした婚姻契約書には、いかなる不測の事態においてもアーディティ様の権利が完璧に保護されるよう、二万字に及ぶ免責条項が組み込まれております」
「違うわよカマラ! 契約書の話じゃないの! あー、早く明日にならないかしら 、ふふふふっ!」
私は純白の枕に顔を埋め、歓喜の悲鳴を上げる。
「この結婚は無効だ!」と叫ばれる瞬間を想像するだけで、アドレナリンがドバドバと分泌されるのを感じていた。
◈
そして、運命の朝が来た。
王都の中心にそびえ立つ、荘厳な国教大聖堂。
ステンドグラスから七色の光が降り注ぐ身廊には、王族、大貴族、各国からの賓客がずらりと並び、歴史的な瞬間の訪れを静かに待っている。
パイプオルガンの重厚な響きが堂内に満ち、国家の一大プロジェクトとしての威厳と重厚感が、空間全体を支配していた。
私は父であるヴァースデヴァ公爵のエスコートを受け、ゆっくりとバージンロードを歩き始めた。
(さあ、来なさい。どこからでもかかってきなさい……!)
私は純白のヴェールの下で、鋭い視線を左右に走らせた。
いつどこから「異議あり!」という怒声が飛んできてもいいように、常に首の筋肉をリラックスさせ、最も美しく「驚き、絶望する顔」を作る準備を整えている。何度も寝る前にシュミレーションしたのだ。
バージンロードの両脇には、正装した近衛騎士団が整列し、剣を掲げて見事なアーチを作っていた。
その先頭に立つのは、副団長であるシュリーダラ卿だ。
今日の彼はいつにも増して凛々しく、そのエメラルドの瞳には強い決意の光が宿っているように見えた。
(……! もしかして、シュリーダラ卿が!?)
私の脳内センサーが激しく反応する。
そうだ、脈無しと思っていた彼が『花嫁強奪』イベントの可能性もある! 「俺は公爵令嬢を政略結婚の犠牲になどさせない!」と叫び、祭壇の前で私を担ぎ上げて大聖堂の窓を突き破り、そのまま白馬に乗って逃避行に出るスパダリルートだ!
私が期待に胸を膨らませて彼に近づくと、シュリーダラ卿は私と目を合わせ、深く、力強く頷いた。
(来る……! 奪いに、来るッ……!)
私はいつでもお姫様抱っこされるよう、少し膝の力を抜いた。
「アーディティ閣下」
すれ違う瞬間、シュリーダラ卿が小声で囁いた。
「本日の大聖堂周辺の警備は、我が騎士団が完璧に掌握しております。どうか心置きなく儀式に臨まれてください」
「…………」
「ご結婚、誠におめでとうございます! 近衛騎士団一同、閣下の末永きご多幸をお祈り申し上げます!」
シュリーダラ卿は、涙ぐみながら完璧な最敬礼を捧げてきた。
部下の騎士たちも、ズバッ!という一糸乱れぬ完璧な音を立てて剣を掲げ、私を祝福している。
私は真顔に戻り、再び歩き出した。
ダメだ。彼らは完璧なプロフェッショナルなのだ。勤務中に花嫁を強奪するようなコンプライアンス違反を犯すわけがない。「テロ対策」などというゴリゴリの現実的ワードが出た時点で、私のロマンチックな逃避行の夢は木っ端微塵に砕け散った。
(いいわ、まだ本命は山が残っているもの! 他に期待ね)
祭壇が近づいてきた。
参列者の最前列には、男爵令嬢サンプリティの姿があった。
彼女は王室財務局の制服を美しく着こなし、小さな手にはハンカチを握りしめている。
(彼女よ! 彼女が突然泣き出して、「ヴィクラマ殿下は私を愛しているのに!」って叫んで式をぶち壊すのよ!)
私が期待を込めて彼女を見つめると、最高の微笑みで返してきた……それだけだった。
この国は狂っている。まともすぎてつまらない! 本当に狂っている!
恋愛の修羅場などどこにも、微塵もない。誰もが国家の発展と経済の安定に心血を注ぐ、真面目な仕事人間しかいないのだ。
◈
父の手から、ヴィクラマ殿下へと私の手が引き継がれる。
祭壇の上に立つヴィクラマ殿下は、輝くばかりの正装に身を包み、この世の全てを包み込むような優しく誠実な微笑みで私を迎えた。
「アーディティ。今日の君は、この世のどの花よりも美しい」
「ありがとうございます殿下……」
私は引きつった笑顔で応えた。
大司教による、気が遠くなるほど長い「婚姻に関する法的権利と義務、および国家間の連帯に関する誓約事項」の読み上げが始まった。
「汝、健やかなる時も、病める時も……」というロマンチックなものではなく、「王室法典第三章第七条に基づく財産分与の不可侵性を保証し……」という、もはや国家間条約の調印式に等しい厳密な内容である。
私はそれを聞き流しながら、ヴィクラマ殿下の横顔を盗み見ていた。
(殿下……。お願い。あなたが最後の希望なの。あなたがここで私を断罪してくれなければ、私は一生、この超絶真面目な国で、社畜王妃として生きるハメになる……!)
ついに、大司教の読み上げが終わり、新郎新婦が誓いの言葉を述べる時間がやってきた。
堂内が水を打ったように静まり返る。
数千人の視線が、私たち二人に注がれている。
ヴィクラマ殿下は、深く息を吸い込み、私の手をしっかりと握りしめた。
そして、大司教が用意した定型文の書かれた羊皮紙を、ゆっくりと伏せたのだ。
(……! 台本を無視した!?)
私の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
そうだ。断罪イベントは、いつも予定調和を壊すところから始まる。
殿下は参列者たちを真っ直ぐに見据え、よく通る声で口を開いた。
「この神聖なる誓いの場において、私からアーディティに、一つ伝えておかなければならないことがある」
(きたあああああああああああああああああっ!!!!!!!)
私の脳内で『運命』が大音量で鳴り響いた。
きた! ついにきた!
この沈痛な面持ち。台本を無視したアドリブ。そして「伝えておかなければならないこと」!
(さあ、言いなさい! ぶちまけなさい!『君のこれまでの計算された奇行は全て調べがついている!』って!『よってこの結婚は無効だ!』って叫びなさい!)
私はヴェールの下で、歓喜に震える唇を必死に噛み締めた。
参列者たちも、王子の突然の言葉に息を呑み、静まり返っている。
ヴィクラマ殿下は、私の方にゆっくりと向き直り、その真摯な瞳で私を真っ直ぐに見つめた。
「アーディティ。私は今日、この場において……君との『婚約』を解消する」
「――――ッ!!」
私の全身に、雷が落ちたような衝撃が走った。
言った。
本当に言いやがった!




