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(よし! 周囲の注目は集まった! ここで彼が私の手をとれば、見事なスキャンダルの火種よ!)
シュリーダラ卿は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに真剣な表情に戻り、恭しく私の手を取った。
「公爵令嬢閣下からのお誘い、身に余る光栄に存じます。不調法者ゆえ、足を踏まぬよう尽力いたします」
(硬い! セリフが固すぎる! でもまあいいわ、フロアに出ればこっちのものよ!)
私たちはフロアの中央へと進み出た。
楽団が優雅なワルツの曲を奏で始め、私たちはステップを踏み出す。
シュリーダラ卿のリードは、彼が「不調法」と言ったのが嘘のように完璧だった。強靭な体幹と的確な重心移動で、私のステップを一切邪魔することなく、かつ確実に誘導してくる。
(すごい……。背も高いし、腕の筋肉が服の上からでも伝わってくるわ……。やっぱり顔が良い……)
一瞬、普通にときめきそうになったが、私はすぐに首を振って己の目的を思い出した。
(違う! ただ楽しく踊るだけじゃダメ! ここで意味深なことを言って、彼を翻弄するのよ!)
私はシュリーダラ卿の胸元に顔を近づけ、周囲には聞こえないような、吐息混じりの小さな声で囁いた。
「ねえ、シュリーダラ卿……。私、時々この王宮という鳥籠から、無性に抜け出したくなるの……。ねえ、あなたなら……私を遠くへ連れ去ってくれるかしら……?」
(どう!? この『禁断の逃避行を匂わせる危険な誘惑』! さあ、「俺でよければ、地の果てまで」って耳元で囁き返しなさい!)
私は甘い展開を期待して、彼のエメラルドの瞳を見つめ上げた。
シュリーダラ卿は、数秒間、私をじっと見つめ返し――。
「……アーディティ様。もしかして、ご気分が優れませんか?」
「え?」
「確かに、この会場は少し人が多く、熱気がこもっておりますね。アルコール多いですし。息苦しさを感じて『抜け出したい』とおっしゃるのも無理はありません。私の気配りが足りませんでした」
「あ、いや……」
「もし眩暈や吐き気があるようでしたら、すぐに別室へご案内し、医者をお呼びします。無理をして倒れられては大変です。いかがなさいますか?」
シュリーダラ卿の瞳に浮かんでいるのは、恋慕でも情熱でもなく、「要救助者に対する真剣な医療的配慮」であった。
「だ、大丈夫よ! なんともないですわ……」
私は慌てて否定したが、このままではただの「体調不良の人」で終わってしまう。
焦った私は、ワルツのターンの瞬間、わざと彼の方へ体勢を崩して寄りかかろうとした。
(これならどう!? 密着して、どきまぎさせるのよ!)
「きゃっ……」
私がバランスを崩した瞬間、シュリーダラ卿の腕が瞬時に動き、私の腰をガシッと固定した。
「おっと。足元が滑りましたか。ご安心ください、私がしっかりと支えておりますゆえ」
一切の動揺もなく、私の体重を完全にコントロールし、コンマ一秒で元の正しい姿勢へと戻される。
そこにあるのは「女性の柔肌に触れてドキドキする」姿ではなく、「要人の転倒リスクを未然に防ぐプロ」の姿だった。
周囲の貴族たちから、拍手と称賛の声が漏れ聞こえてくる。
「おお、ごらんなさい。アーディティ様とシュリーダラ副団長のあの見事なステップを」
「ええ。体勢が崩れかけた際も、完璧なリカバリーでしたな」
「さすがは公爵令嬢と近衛騎士。実に健康的で、模範的なダンスだ」
(健康的で模範的……!! 一番言われたくない言葉だわ!!)
私は絶望のまま、残りの曲を無表情で踊り切った。
◈
曲が終わり、シュリーダラ卿が私をフロアの端までエスコートしてくれたちょうどその時。
「二人とも、お疲れ様」
ヴィクラマ殿下が、にこやかな笑顔でこちらへ歩み寄ってきた。
(……!! 殿下!!)
私はハッとして背筋を伸ばした。
そうだ。私自身は失敗しても、婚約者であるヴィクラマ殿下が「他の男と踊るなんて!」と嫉妬してくれれば、まだ修羅場ルートの希望はある!
「あ、殿下……。私ったら、ついシュリーダラ卿と踊ってしまって……」
私はわざと申し訳なさそうな、しかしどこか挑発的な視線を殿下に向けた。
さあ、怒って! 「君の軽薄な行動には呆れた!」と私を責めて!
しかし、ヴィクラマ殿下は怒るどころか、シュリーダラ卿に向かって深々と頷いた。
「素晴らしいダンスだったよ、シュリーダラ。君が彼女を完璧にリードしてくれたおかげで、アーディティもとても楽しめたようだ」
「もったいないお言葉、恐悦至極に存じます、殿下。アーディティ様のステップが軽やかで美しかったゆえでございます」
シュリーダラ卿も真面目に答える。
「いやいや、君のあの体勢の立て直しは見事だった。さすがは近衛騎士団副団長だ。アーディティの安全を君に任せれば、私も安心できるというものだよ」
「はっ。今後とも、王家と公爵家のために粉骨砕身する所存です」
ヴィクラマ殿下とシュリーダラ卿は、互いの能力を認め合うように、ガッチリと熱い握手を交わした。
男同士の、爽やかな信頼関係の構築。
そこには嫉妬の欠片もなく、ただ「有能な婚約者」と「有能な部下」が互いを褒め称え合っている美しい光景が広がっていた。
「…………」
私は、その二人の隣で、完全に「蚊帳の外」の置物と化していた。
(……なんでお前ら、仲良くしてんのよ)
誰も怒らない。誰も嫉妬しない。誰も私を咎めない。
ただひたすらに、平和で、常識的で、模範的な夜会が進行していくだけだ。
新たな曲の演奏が始まり、ふと周囲を見渡せば、チャンドラやパドマも、それぞれ婚約者いるというのに別の男性と楽しく踊っていた。
ダンスカードはないけれど、礼儀として踊るのは共通らしい。
私から誘うというのも、もしかしたらと思ったが、思ったよりこの世界の宗教思想は強いかったようだ。
◈
夜会の帰り道。
ヴァースデヴァ公爵家の豪奢な馬車の中で、私は無言で窓の外を眺めていた。
「アーディティ様。本日の夜会も、大変有意義なものとなりましたね。サンプリティ様との税制に関する有意義な意見交換、そしてシュリーダラ様との模範的なダンス。公爵様も、アーディティ様の完璧な立ち振る舞いを誇りに思われるでしょう」
向かいの席で、カマラが本日のハイライトを満足げにまとめている。
「……そうね。完璧な夜会だったわね……」
私は力なく答えた。
完璧だ。完璧すぎるのだ。
公爵令嬢として、何一つ間違ったことはしていない。周囲からの評価も爆上がりだろう。
だが、私が欲しかったのはそんなものではない。
「はあ……」
私は馬車のシートに深く沈み込み、目を閉じた。
(私、この世界で一生、また前世みたいに普通に真面目に生きていくしかないの……?)
前世の私が夢見た、波乱万丈でロマンチックな展開は、この緻密で堅牢な「現実世界」の壁にことごとく跳ね返されていく。
一人で乙女ゲーム的なシナリオを追っている私は、ただの「ちょっと情緒が不安定だけど、根は真面目で有能な公爵令嬢」として、この狂いのない日常に組み込まれてしまっているのだ。
「……アーディティ様? やはりご気分が優れないのですか? シュリーダラ様も心配しておられましたし……」
「いいのよ、カマラ。……ただ少し、現実に酔っただけだから……」
夜の王都を走る馬車の揺れに身を任せながら、私はまた一つ、乙女ゲームの攻略本ページを破り捨てた。
私の『婚約破棄・ざまあ・スパダリ溺愛』への道は、想像を絶するほど遠く、険しい。




