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【完結】私はいつでも大丈夫なので、早く婚約破棄してくださいね  作者: 逆立ちハムスター


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私は呆然と立ち尽くした。

抱きとめられて見つめ合うのは? 「怪我はないか、可憐な小鳥よ」みたいな甘いセリフは?

何一つなかった。ただ単に腕をガシッと掴まれて助けられ、現場の安全確認が迅速に行われただけだった。


「では、アーディティ様。書類の件は、公爵家の事務方へ改めてご連絡させていただきますね。お気をつけてお帰りください」


「……ええ。失礼、するわ……」


私は引きつった顔で応接室を後にした。

背後から「最近の公爵令嬢様、ちょっとお疲れなのかね」「さあな、躓き方も不自然だったし……」という騎士たちのヒソヒソ声が聞こえたような気がしたが、私は聞こえないフリをした。



午後。

ヴァースデヴァ公爵邸の中庭で、ティーパーティが始まった。


招いたのは、侯爵家令嬢のチャンドラ様と、伯爵家令嬢のパドマ様。

二人とも上品なドレスに身を包み、洗練されたお辞儀をして席に着いた。


(午前中の失敗は忘れるのよ、私! 騎士団での失態はただの事故! 本番はこのティーパーティよ!)


私は紅茶を一口飲み、扇を優雅に広げて二人を見据えた。

乙女ゲームにおける悪役令嬢の定番。それは、他の令嬢たちに嫌味を言い、マウントをとり、ドロドロの派閥争いを巻き起こすことだ。


ターゲットは、少し落ち着いたダークブルーのドレスを着ているチャンドラ様にした。


「……チャンドラ様。本日のそのドレス、少し……お地味ではなくて? 侯爵家のお立場にしては、随分とつつましい装いですのね。もしかして、お家計が苦しいのかしら?」


意地悪な笑みを浮かべ、あえて探るような嫌味を投げつける。


さあ来なさい! 「なんですって!?」と顔を真っ赤にして怒りなさい! 「公爵令嬢だからって威張らないで!」と泣き出しなさい!


しかし、チャンドラ様は怒るどころか、少し驚いたように目を瞬かせ、それから……あからさまに引きつった顔で眉をひそめた。


「……アーディティ様。唐突にそのようなことを仰るなんて、少し失礼ではありませんこと?」


「え?」


チャンドラ様は不快感を隠そうともせず、冷ややかな視線を私に向けた。


「我が家は質素倹約を良しとする家風ですし、今日のドレスは私が気に入って選んだものです。我が家の財政を心配していただく筋合いはございませんわ。……急にそのようなことを言い出すなんて、本日のアーディティ様は少々、お行儀がよろしくないようですわね」


隣に座っていたパドマ様も、こそこそとチャンドラ様に寄り添いながら、私を警戒するような目で見つめている。


「そうですよ、アーディティ様……。チャンドラ様のドレス、とてもシックで素敵なのに……急に嫌味をおっしゃるなんて、どうかされたのですか?」


(あ……あれ???)


場に、地獄のような『気まずい空気』が流れた。


ドラマチックなバトルも、激しいキャットファイトも起きない。

ただ単に私が「急に失礼なことを言い出して雰囲気をぶち壊した嫌な奴」になり、相手から「うわ、感じ悪……」と冷めた目で見られているだけだった。


「あ、いや……私はただ、もう少し華やかな方がお似合いかと思いまして……」

慌ててフォローしようとするが、一度冷え切った空気は戻らない。


「お心遣いは結構ですわ」チャンドラ様は紅茶に砂糖を落としながら、ため息を吐いた。「……まあ、アーディティ様も連日のお仕事でお疲れなのでしょうね。公爵家の第一令嬢ともなれば、多忙を極めるのでしょうから。……少しお心を休められた方がよろしくてよ?」


「……ええ、そうですわね。お気遣い、ありがとうございます……」


チャンドラ様とパドマ様は、それ以上私を責めることもせず、「まあ、疲れて変なこと言っちゃった可哀想な人」として私を扱い、会話を無難な世間話へと切り替えた。


怒りも憎しみも集まらない。

ただ「ちょっと付き合いづらい、たまに失礼な発言をする人」という微妙な評価だけが残った。


(違う……! 私がなりたかったのは、社交界を裏で牛耳る恐ろしい悪役令嬢なの! 『関わりたくない痛い人』じゃないのーーーッ!!)


私の心の中の悲鳴は、カトラリーの上品な音にかき消されていった。



夜。

すっかりメンタルを削り取られた私は、部屋でベッドに倒れ込んでいた。


「アーディティ様、本日もお疲れ様でございました。お茶会の後、チャンドラ様が『アーディティ様は少々お疲れのようだったから、また日を改めましょう』とおっしゃって、早々にお帰りになりましたよ」


カマラが呆れ顔でハーブティーを運んでくる。


「うう……カマラ……私、嫌われちゃったかしら……」


「嫌われたというよりは……『情緒が不安定で扱いづらい』と思われたのではないでしょうか。突然ドレスの嫌味などを言えば、当然の反応かと存じます」


カマラの容赦ない正論が突き刺さる。


(うっ……正論すぎて何も言い返せない……!)


やはり、この世界は現実的なのだ。

私が漫画や小説で読んだような「嫌味を言われてヒステリーを起こす令嬢」など存在しない。普通の人間は、急に嫌味を言われれば「何だコイツ」と引くだけなのだ。


「はあ……やっぱり私、悪役令嬢に向いてないのかな……」


落ち込む私のもとに、カマラが通達用のトレイを差し出した。


「アーディティ様、ヴィクラマ殿下からお手紙が届いております」


「えっ!? ヴィクラマ殿下から!?」


私は跳ね起きた。

夜に届く、王子からの手紙。

これだ! これこそが決定的なイベントのはずだ!


(今日の私の『奇行』――騎士団での失言や、お茶会での悪評が王子の耳に届いたのね! ついに『君の最近の言動には目にあまるものがある。婚約を破棄させてもらう!』という手紙が来たんだわ!)


私は興奮で震える手で、手紙の蝋封を破った。


中から出てきたのは、王子の自筆による丁寧な手紙だった。


『親愛なるアーディティへ。

今日、近衛騎士団のシュリーダラ副団長から報告を受けたよ。君が庁舎で足をつまずかせて転びそうになったそうだね。怪我はなかったと聞いて安心したが、とても心配している。

また、今日のティーパーティでも、君が少し元気がなく、様子がおかしかったとチャンドラ嬢から心配の連絡が入っていた。

最近、君は少し疲れが溜まっているのではないだろうか?

来週、二人で観劇に行く予定を立てていたけれど、君の体調が第一だ。もし辛いようなら、無理をせず延期にしよう。君が笑って過ごせることが、私にとって一番大切なのだから。

どうか今夜は温かくして、ゆっくり休んでおくれ。


君の無事を祈る婚約者 ヴィクラマより』


「…………」


手紙を読み終えた私は、その紙をそっと膝の上に置いた。


(……怒られてない。婚約破棄もされてない。……ただただ、普通に心配されてる……)


ヴィクラマ殿下は、浮気もせず、私を捨てようともせず、ただの『優しくて真面目な至極まともな婚約者』だった。

騎士団での失態も、お茶会での失敗も、すべて「アーディティ様は過労で体調が悪いのでは?」という、圧倒的善意の解釈によって処理されていたのだ。


「……アーディティ様? 殿下はなんと?」


心配そうに覗き込むカマラに対し、私は遠い目をして呟いた。


「……カマラ。私ね、体調が悪いみたい……」


「まあ! やはり! すぐにお医者様をお呼びしますか!?」


「いいえ、いいの……体調というか……頭が悪いみたいなの……」


「……はい?」


私は羽毛布団の中に潜り込み、深く、深くため息をついた。


誰も私を悪役令嬢として扱ってくれない。

誰も私を虐げてくれないし、誰一人として理不尽な理由で婚約破棄なんてしてくれない。


この世界の人間は、みんな普通に常識的で、普通に優しく、普通に生きていて――

一人で乙女ゲームの攻略本を開いて必死にフラグを立てようと空回りしている私だけが、ただひたすらに『痛くて変な人』になっているだけなのだ。


(私だけが……狂っているというの……!?)


暗闇の中で、私は己の哀しい現実に打ちひしがれながら、静かに目を閉じたのだった。

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