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彼女はきっと、貧しいながらも一生懸命で、王子の孤独な心に寄り添い、「殿下、そんなにお仕事ばかりなさってはダメです! たまにはお休みにしてください!」とか言って王子を骨抜きにし、私という「厳格で冷たい公爵令嬢」を邪魔者扱いし始めるのだ!
そして王子は彼女に夢中になり、私に言いがかりをつけて……!
(落ち着け私! まだ慌てる時間じゃない! まずは観察よ! ここで私が完璧に意地悪な態度をとれば、埃を被っていた『婚約破棄フラグ』がバシッと立つわ!)
私は即座に、背筋をピンと伸ばし、公爵令嬢特有の見下ろすような冷ややかな視線を少女に向けた。口元にはあえて上から目線の微笑を浮かべる。
「……ヴィクラマ殿下。そちらの可憐な方は、一体どなたかしら? このような重要な財務協議の場に、男爵家の令嬢をお連れになるなんて……どのようなご意図がおありなのかしら?」
(どう!? この『身分違いの女を排斥しようとする高慢ちきな公爵令嬢』のムーヴ! 完璧でしょ殿下? さあ殿下、私を責めなさい! 責め倒しなさい!「彼女を侮辱することは許さん!」って言いなさい!)
私は胸を躍らせ、ヴィクラマ殿下の言葉を待った。
しかし、ヴィクラマ殿下は至極当然といった表情で、書類から目を上げて頷いた。
「ああ、紹介が遅れたね。彼女はサンプリティ嬢だ。今年の王立アカデメイア高等学院法学部を首席で卒業し、国家公務上級試験をトップの成績で合格した、財務局の新進気鋭の会計官だよ」
「……はい?」
私は思わず素の声を漏らした。
サンプリティと呼ばれた少女は、ピシッと完璧な角度で綺麗な辞儀をした。
「初めまして、アーディティ・ヴァースデヴァ公爵令嬢様。王室財務局第三監査課に配属されました、サンプリティと申します。本日は、アーディティ様が以前提出された『公爵領における医療費助成と関税相殺の計算モデル』について、補足の試算データをお持ちいたしました」
「え……あ、はい……?」
サンプリティ嬢は一切の無駄のない動きで、厚さ三センチほどの書類の山をテーブルの上に滑らかに広げた。その瞳には、お花畑のような甘さは一切なく、前世の「徹夜明けのバリバリのキャリアウーマン」と同じ鋭いプロの光が宿っていた。
ヴィクラマ殿下が感心したように息を吐く。
「彼女の分析は素晴らしいよ、アーディティ。君が提案してくれた医療費削減案の数値ミス――特に第三条の控除上限額の計算ロジックに潜んでいた誤差を、彼女が完璧に修正してくれたんだ。おかげで我が国の年間歳出を約二パーセント削減できる見込みが立った」
「そ、そうですの……」
「はい!」サンプリティ嬢は爽やかに微笑んだ。「アーディティ様の元々のアイデアが実に革新的で感銘を受けました! 特に十五ページの『地方特産品に対する従価税の階段的緩和措置』は秀逸です! 公爵令嬢でありながら、これほど現場の流通実態を把握されているとは……! 私、尊敬いたしました!」
「あ……ありがとう……?」
違う。
違ーーーーーーうっ!!!!
何なのこの子!? 「殿下ぁ〜、アーディティ様が私を睨んできますぅ〜」とか言わないの!?
なんでゴリゴリの有能な後輩公務官として私を尊敬してくれちゃってるの!?
しかも私が適当に前世の知識(昔読んだニュースのうろ覚え)を混ぜて書いた提案書を、超絶優秀な計算力で補完して完璧な行政文書に仕上げてくれちゃってるじゃないの!!
◈
「……というわけで、アーディティ。サンプリティ嬢の作成した修正案を元に、来月の貴族院議会への提出書類を作成したいのだが、君の意見を聞かせてほしい」
ヴィクラマ殿下が真剣な眼差しで私を見る。
サンプリティ嬢も、目を輝かせてペンを構えている。
「あ、ええと……」
私は必死に頭を回転させた。なんとかして、この状況を「ドロドロの昼メロばりの恋愛バトル」に引き戻せないっだろうか。
「……殿下。サンプリティ嬢は非常に優秀なようですけれど……お二人、随分と仲がよろしくていらっしゃるのね? 私という婚約者がありながら、このように若い女性と二人きりで連日お仕事をなさるなんて……社交界でどのような噂が立つか、お考えになったことはおありですか?」
(よし! 焼きもち焼きの面倒くさい女! これで「嫉妬に狂った公爵令嬢」の完成よ! 殿下、私に呆れて「君のそういう狭量なところが嫌になった」と言ってちょうだい!)
私が期待に胸を膨らませて殿下を見つめると、ヴィクラマ殿下は少し驚いたように目を丸くし、それからふっと優しく微笑んだ。
「……なるほど。君に余計な心配をかけてしまったようだね、アーディティ。申し訳ない」
「えっ」
「だが、安心してくれ。サンプリティ嬢との執務の際は、常に第三監察官のアーリヤマン卿と、女性記録官の二名が同席している。王室のコンプライアンス規定に基づき、密室での男女二人のみの執務は厳重に禁じられているからね。噂など立つ余地もないよ」
「コ、コンプライアンス規定……」
「それに」ヴィクラマ殿下は真摯な瞳で私の手を優しく握りしめた。「私の婚約者は、世界で君一人だ。君のその類まれなる知性と、国を思う情熱を、私は深く尊敬している。君以外の女性を妃に迎えることなど、私の人生の選択肢には存在しないよ」
「……ッ!?」
(ちょっと待って!! なんでいきなりスパダリ風の甘いデレをブッ込んでくるの!? 分かってる建前でしょ。でも違うの! そうじゃないの! 私はあなたに溺愛されたいんじゃないの! あなたには私を捨ててほしかったの!!)
「殿下……ありがたいお言葉ですが、私は……!」
「アーディティ様!」サンプリティ嬢が感動に目を潤ませて叫んだ。「素晴らしい絆です! お二人のような高潔な関係性こそ、我が国の貴族の模範でございます! 私、お二人のために全力でこの予算案を通してみせます!」
「いや、あの、サンプリティさん……?」
「さあ、アーディティ。次の議題に移ろう。次は『地方道路網の修繕における公債発行の是非』についてだ」
「……はい」
◈
夕刻。
王宮での「地獄のように真面目で退屈な財務会議」を終え、私は馬車に揺られてヴァースデヴァ公爵邸へと戻っていた。
正直言うと、財務会議などどうでもいい。前世のニュースで、経済財政諮問会議が行われたと聞いて、「私も参加したい!」と思ったことなど一度もないからだ。
それよりも、カフェ巡りやショッピング、サブスクのドラマの消化、ペットとまったり過ごす休日など、そっちの方が100倍楽しい。
がっくりと肩を落とし、車窓の外を流れる美しい王都の街並みを眺める。
「はあ……」
「お疲れ様でございました、アーディティ様。本日も素晴らしい成果を納められたとお聞きしましたよ。公爵様も大変お喜びです」
馬車の中で同乗していた侍女のカマラが、ニコニコと嬉しそうに言った。
「カマラ……私ね、今日こそ『運命の事件』が起きると思ったのよ……」
「運命の事件と申しますと?」
「例えば……そう! 近衛騎士団の若き副団長、シュリーダラ様! あの人が突然馬車の前に立ち塞がって止めて、『アーディティ、君をこんな冷たい政治闘争から連れ去りたい』とか言って、私を奪い去ってくれるような……そういうドラマチックな展開よ!」
カマラは真顔になり、呆れたように首を振った。
「アーディティ様。シュリーダラ様は先月、王都の治安維持計画に関する警備予算の増額申請を却下され、現在は憲兵隊の台帳チェックでてんてこ舞いでございますよ。そんな余計な誘拐事件などを起こしたら、彼は即座に軍事裁判にかけられ、減給と免職処分になります」
「うぐっ……」
「そもそも、国家の要職にある公爵令嬢を誘拐するなど、国家叛逆罪に相当いたします。シュリーダラ様のような誠実な騎士が、そのような破滅的な愚行に走るはずがございません」
「んぐ……し、知ってるわよ! 分かってるわよそんなこと!」
私は馬車のシートにバタリと倒れ込んだ。
分かっているのだ。
この世界の人々は、みんな驚くほど真面目で、倫理観があり、法を守り、現実に生きている。
公爵令嬢を陥れるような頭の悪いお花畑ヒロインなど存在しない。ここにいるのは、国家公務官試験を勝ち抜いた超絶優秀な男爵令嬢だけだ。
婚約者を裏切って、国を棄ててまで浮気に走る愚かな王子など存在しない。ここにいるのは、過労死寸前まで書類仕事に追われる誠実な公務王子だけだ。
そして、人妻(仮)を力ずくで奪い去るような危険なスパダリなど存在しない。ここにいるのは、減給を恐れて予算申請に頭を抱える至極真っ当な騎士様だけなのだ。
「……私の『婚約破棄・ざまあ・スパダリ溺愛』の夢は……どこへ行ってしまったの……」
「アーディティ様、お気持ちは分かります……。いえ、何をおっしゃっているのかはさっぱり分かりませんが、明日は朝一番で、シュリーダラ様率いる近衛騎士団の装備調達に関する監理委員会がございます。今夜も遅くなりますので、お早めにお休みくださいね」
「……はい」
前世の社畜時代、私は「転生したら楽な高貴な身分になって、エンタメみたいなドラマチックな恋と大逆転劇を楽しむんだ!」と夢見ていた。
しかし、現実は。
公爵令嬢アーディティとしての日常は、前世と同じくらい、あるいはそれ以上に「書類仕事と現実的な手続き」に満ち溢れていた。
華やかさはある。権力もある。地位もある。
だが、そこにはフィクションのような「事件」など、かけらも起きないのだ。
(ああ神様……私にいつか、『お前を連れていきたい!』と言ってくれる愚かなスパダリが現れる日は来るのでしょうか……!?)
夕闇に包まれる王都の空を見上げながら、私は本日何度目になるか分からないため息をついた。
もちろん、そんな日は永遠に訪れないということを、私自身が一番よく理解していたのだが――。




