真実の愛は高くつく
「息を吸って、お嬢様。もっと、限界まで」
侍女のマリーが、私の背後で馬車の御者のような掛け声を上げた。彼女の膝が私の背骨に食い込み、クジラの骨でできたコルセットの紐がギリギリと悲鳴を上げる。私の肋骨も同時に悲鳴を上げていた。
「マリー、これ以上締めたら、私の内臓が口から飛び出してしまうわ。今日の舞踏会のメインディッシュは私ではないのよ」
「弱音を吐かないでくださいませ、ルシルお嬢様。ウエストは細ければ細いほど、殿方の愛情は深くなるのですから」
「殿方の愛情とやらは、女性の肺活量に反比例するのね。なんて非魔法学的なのかしら」
私が皮肉を言うと、マリーは容赦なくもう一段階、紐を引き絞った。私は声にならない呻きを上げ、鏡の中の自分を睨みつける。
鏡に映っているのは、没落寸前のエヴェラール伯爵家における最後の希望、いや、最後の「売れ残り」である私、ルシル・フォン・エヴェラールだった。年齢は二十二歳。この時代、この国——栄華を極めるガルシア王国において、貴族の娘が二十二歳で未婚というのは、ほぼ「化石」と同義である。十五歳で社交界にデビューし、十七歳で結婚、二十歳までに最低でも二人の跡継ぎ(できれば男児)を産むのが、美しく正しい貴族の女の歩むべき道とされているからだ。
マリーは私の青ざめた顔に満足すると、今度は小さな壺から白い粉を掬い取った。
「さあ、お仕上げです。今日は特別に、一番上等な錬白をご用意いたしましたわ」
「……それ、三日前に亡くなった隣の侯爵夫人が愛用していたものと同じブランドじゃない?」
「ええ! 夫人の遺品整理で、お安く譲っていただいたのです。さすがはお嬢様、お目が高い!」
マリーは悪びれもせず、その不吉な粉を私の顔に叩き込み始めた。
錬白。それは肌を透き通るような真珠色に染め上げてくれる魔法の粉だ。ただし、アレルギーがあると、ささやかな副作用として、使い続ければ歯は黒ずんで抜け落ち、髪は抜け、最終的には中毒で錯乱して死に至る。隣の侯爵夫人は「妖精に呼ばれている」と叫びながらバルコニーから身を投げたそうだが、社交界の噂では「最後までお肌は真っ白でお美しかった」と称賛されていた。
命を削ってまで顔を白く塗りたくるなんて、正気の沙汰ではない。しかし、死の危険よりも「今夜の舞踏会で殿方の目を惹かない」ことの方が、この国の女たちにとってはよほど恐ろしい事態なのだ。女は結婚しなければ生きていけない。財産を持つ権利も、職業に就く権利もない。私たちの価値は、誰の妻になるか、ただ一点に集約されている。
「お見事だ、ルシル! まるで陶器の人形のようじゃないか!」
バン、と乱暴に扉が開かれ、父であるエヴェラール伯爵が上機嫌で入ってきた。彼の恰幅の良い腹は、流行のベルベットのチョッキをはち切れんばかりに押し上げている。
「お父様。ノックという文化は、我が家と共に没落してしまったのでしょうか」
「堅いことを言うな。それより、今日のそのドレス、実に素晴らしい。亡きお前の母親が着ていたものとは思えん。五回も仕立て直した甲斐があったというものだ」
父は豪快に笑いながら、私の肩を叩いた。私は肺にわずかに残っていた空気を吐き出し、危うく気を失いそうになる。
「お父様、笑い事ではありません。このドレスの仕立て直し代すら、我が家には残っていないはずですが」
私の冷ややかな指摘に、父は一瞬だけ目を泳がせた。
エヴェラール家は、かつては王家にも連なる名門だった。しかし、この愛すべき、そして致命的に経済観念の欠如した父の代になってから、転がり落ちるように貧乏になった。「北の海氷を夏に売れば大儲けできる」という画期的なアイデアに全財産を投資し、輸送中に全てが水に変わった事件は、社交界で三年間は笑い草になった。最近では「錬金術師の胡散臭い石」やら「絶対に儲かる東方航路の株」やらに手を出しては、借金取りを増やす毎日である。
「ルシル、だからこそ今日の王宮舞踏会が重要なのだ!」
父は急に真顔になり、私の手をとった。
「聞いてくれ。実は昨日、鉄の銀行の使いが来た。もし今月末までに利息の支払いができなければ、この屋敷は差し押さえられ、私は債務者牢送りだ。お前は修道院行きになる」
「……つまり、私が今夜、お金持ちで、かつ私のような借金まみれの女を妻に迎えてくれるほど頭の弱い殿方を捕まえなければ、私たちは野垂れ死ぬということですね?」
「その通ーり! さすが私の娘だ、理解が早い。狙い目はロティンガム公爵だ。彼は今年で六十八歳になるが、領地には金鉱山があり、何より三日前に四番目の奥方を亡くしたばかりで傷心のはずだ! しかし心配するな。不治の持病があり、すぐに奥方の元にいくはずだ」
六十八歳。金鉱山持ち。四度目の男寡。
「お父様。ロティンガム公爵のこれまでの奥様方は、全員『階段から足を滑らせて』亡くなっているという噂をご存知ですか? 我が家の階段は平屋建てのように少ないですが、公爵邸の階段は大理石で百段以上あると聞いています。私は物理学的に不利です」
「愛があれば階段など乗り越えられる! それに、万が一お前が……その、名誉ある事故を利用して公爵が事故に遭ったとしても、持参金の代わりに多額の財が我が家に支払われる……ゴホン!」
「実の娘を、暗殺目当てに駆り出させる気満々ですね」
「人聞きの悪いことを言うな! とにかく、今日が我が家の運命の分かれ道だ。ルシル、お前のその無駄に高い知能はひた隠しにし、ひたすら微笑み、扇で口元を隠し、小鳥のように愛らしく振る舞うのだ。いいな!」
父はそれだけ言い残すと、嵐のように部屋を去っていった。
私は深い溜息をついた。コルセットが軋む。「真実の愛」とは、なんと安っぽい喜劇なのだろう。男は女の若さと処女性、そして「自分より頭が悪いこと」を求め、女は男の財力と地位、そして「自分が死ぬ前に男が早く死んでくれること」を求める。それがこの社会における恋愛の正体だ。
吟遊詩人たちが歌う「永遠の愛」など、栄養失調による幻覚か、腐ったワインが見せる悪夢に過ぎない。
私は重い腰を上げ、マリーに支えられながら馬車へと向かった。
屋敷の外に待っていたのは、かつては金箔で飾られていたであろう、今は塗装の剥げたみすぼらしい馬車だった。サスペンションなどという気の利いたものは存在しないため、石畳の道を走るたびに、馬車は私の脳髄を揺さぶるような振動を引き起こした。
窓から外を眺めると、王都ロンディニウムの裏通りが見える。華やかな大通りを一歩外れれば、そこは貧困と汚物の坩堝だ。道端には行き倒れた浮浪者が転がり、裸足の子供たちが腐ったキャベツの芯を巡って野犬と争っている。
そのすぐ横を、貴族たちの乗った豪奢な馬車が通り過ぎていく。馬車の車輪が泥水を跳ね上げ、子供たちを汚しても、誰も見向きもしない。
「ひどい匂いですわね。早く香水を……」とマリーが顔をしかめ、薔薇の香水をハンカチに染み込ませて私の鼻元に差し出した。
「ありがとう、マリー。でも、この匂いこそがこの国の真実よ」
私はハンカチを受け取らずに、窓の外を見つめ続けた。
この圧倒的な富の偏在。飢える平民たちと、一晩の舞踏会で平民の生涯賃金の百倍を消費する貴族たち。歴史書物を少しでも読めばわかることだ。このような社会構造は、決して長くは続かない。あと十年、いや五年もすれば、あの道端の子供たちは成長し、怒りを覚え、松明とピッチフォークを持って王宮に押し寄せるだろう。
私はその時が来る前に、修道院の奥深くで自給自足の生活を始めるか、あるいは革命軍に素早く寝返る準備をしておかなければならないと、本気で考えていた。ロティンガム公爵の後妻になって階段から落ちるか、または蹴落とすよりは、農具の使い方の練習をしておく方がずっと生産的だ。
やがて、馬車は煌びやかな王宮の正門をくぐった。
何百本もの松明に照らされた白亜の宮殿は、まるで夜の闇に浮かび上がる巨大なバースデーケーキのようだった。エントランスでは、着飾った貴族たちが次々と降り立ち、見えない階級闘争の火花を散らしている。
広間に足を踏み入れると、むせ返るような香水の匂いと、弦楽団が奏でる優雅な演奏の調べが押し寄せてきた。
天井には数千本の蝋燭が輝く巨大なシャンデリアが吊るされ、長机にはイノシシの丸焼き、孔雀の羽を飾ったパイ、そして噴水のように湧き出るワインが並べられている。
「見なさい、ルシル! なんという豊かさ、なんという美しさだ!」
父は目を輝かせながら言った。
「ええ、本当に。あそこのシャンデリアが一つ落ちれば、下で踊っている十人ほどの公爵夫人たちが串刺しになって、明日の社交界の勢力図が大きく変わるでしょうね。なんて美しい光景かしら」
「ルシル……同感だが、頼むから今日はその口を閉じておいてくれ……」
父は胃を押さえながら、獲物を探すように会場を見渡し始めた。「よし、私はロティンガム公爵を探してくる。お前は適当に愛想を振りまいて、若い男たちの気を引いておけ。嫉妬は良い引火剤になる」
父は私を人混みの中に置き去りにして、足早に消えてしまった。
一人残された私は、壁際の目立たない柱の陰に陣取った。ここなら、部屋全体を見渡しつつ、誰にも話しかけられずに済む。
私の目の前では、虚飾に満ちた喜劇が繰り広げられていた。
あそこで扇で顔を隠しながら微笑んでいるのは、清純派で有名なリリアン嬢だ。彼女の微笑みは、目の前の純朴そうな騎士に向けられているように見えるが、実際の視線はその後ろにいる年老いた(しかし金持ちの)伯爵の財布に向けられている。
その右側で、ワイングラスを片手に武勇伝を語っているのは、ガウェイン卿。先日の「ドラゴン討伐」で名を挙げた英雄だが、彼が殺したのは沼地に住む少し発育の良いただのワニであり、しかもワニを追い詰める過程で三つの農村の畑を完全に踏み荒らしたことは、王宮では暗黙の了解となっている。
皆、見事な役者だ。自分たちが何かに価値があるかのように振る舞い、薄っぺらな愛と名誉を語る。彼らの頭の中には、明日の税収のことも、民の飢えのことも、自らの無能さに対する自覚も、何一つ存在しない。
ああ、なんて退屈なのだろう。
帰って、領地経営の計算でもしたい。いや、我が家にはもはや、台帳をつけるような資産もないのだった。
「おや、あんな壁際に、一輪の美しい白百合が咲いている」
突然、甘ったるく、芝居がかった声が頭上から降ってきた。
見上げると、そこには見事な金髪を輝かせた、信じられないほど顔の整った青年が立っていた。胸にはこれ見よがしに王家の紋章が刺繍されている。
ガルシア王国の第二王子、アーサー殿下。社交界の女性たちがこぞって失神する「歩く恋愛小説」と呼ばれる男だ。貴族、庶民問わず、大人気の神々の恋愛譚を絵に描いたような人物。
「殿下。このような場所でお声がけいただき、光栄の極みに存じます」
私は完璧な角度で膝を折り、カーテシー(挨拶)をした。内心では「うわぁ、一番面倒なのが来た」と舌打ちをしながら。
「顔を上げてくれ、美しいお嬢さん。君のように知的な瞳を持った女性が、こんな隅で一人寂しくしているなんて、このアーサー、見過ごすことはできないな」
アーサー王子は私の手を取ると、手の甲に熱い口づけを落とした。周囲の令嬢たちから、一斉に嫉妬の視線がグサグサ突き刺さるのを感じる。背中が物理的に痛い。
「もったいないお言葉です。私はただ、皆様の華やかな舞を拝見しているだけで十分に満たされておりましたので」
「遠慮することはない。さあ、私と踊ろう」
王子は強引に私をダンスの輪へと引き込んだ。断る権利など、貧乏貴族の娘にはない。
ワルツのステップを踏みながら、王子は甘い声で囁き始めた。
「君の瞳は、夜空に浮かぶ星のように輝いている。君の髪は、絹のように滑らかだ。君を見ていると、私の心は……」
「殿下」私は微笑みを崩さずに、小声で口を挟んだ。「私の髪が滑らかなのは、今朝マリーがオリーブオイルを塗りすぎたからですし、瞳が輝いているのは、コルセットが苦しすぎて目に涙が溜まっているからですわ」
「……え?」
王子は一瞬、完璧な笑顔を硬直させた。彼はおそらく、これまでの人生で「自分の甘い台詞を冷静に解剖された」経験がないのだろう。
「あ、いや……それは、君がそれほどまでに、私のために美しく着飾ってくれたということだろう? 愛おしいことだ。そうだ、君は犬は好きかい? 私は最近、素晴らしい猟犬を手に入れてね。これが実に利口で……」
「あの、私は猫派でして……彼の国で有名な、モフり聖天教とやらに興味がありまして……」
そこから約十分間、王子は、私の言葉をほぼ無視して、自分の猟犬の素晴らしさについて語り続けた。犬の血統、犬の毛並み、犬がいかに自分に懐いているか。私は適当に相槌を打ちながら、「この男、顔が良いだけで中身はスッカラカンだな」と確信した。彼は私に興味があるのではなく、「自分にうっとりしている女を見る自分」が大好きなだけのナルシストだ。
ようやく曲が終わり、王子が「また後で君を探しに行くよ」と爽やかに去っていったときには、私は疲労困憊していた。
これ以上ここにいたら、今度はロティンガム公爵に見つかり、金鉱山の話と前妻たちの「不幸な事故」の話を聞かされる羽目になる。
私は誰にも気づかれないよう、広間の端にある重厚なカーテンの裏へと滑り込み、夜風が入るバルコニーへと脱出した。
「ふう……っ」
バルコニーに出た瞬間、私はコルセットを少しでも緩めようと、思い切り息を吐き出した。冷たい夜風が火照った顔を撫でる。香水の匂いのしない、土と夜露の匂い。やっと生き返った心地がした。
「あまり深く息を吸わない方がいいですよ、令嬢。その不吉な錬白が肺に入って、寿命を縮めることになります」
不意に、暗がりから声がした。
私はビクッと肩を震わせ、声のした方向を睨みつけた。
月明かりの下、バルコニーの手すりに寄りかかるようにして、一人の男が立っていた。
夜の闇に溶け込むような、漆黒のフロックコート。銀糸の刺繍すらない、実用性だけを追求したような無骨な仕立てだが、生地の質が極めて高いことは一目でわかる。
年齢は二十代後半から三十代前半だろうか。青白いほど肌が白く、切れ長の鋭い瞳には、広間で踊る貴族たちを見下すような、冷たい知性が宿っていた。
彼の片手には、ワイングラスではなく、なんと革表紙の分厚い台帳が握られていた。こんな王宮の舞踏会に、書類を持ち込んでいる人間など初めて見た。
「……淑女の化粧を不吉呼ばわりするとは、ずいぶんと無礼な方ですね。それに、暗がりで女性を驚かせるのも、紳士の作法とは思えませんわ」
私は警戒しつつも応戦した。
男は鼻で笑った。
「紳士の作法? そんなものは、あの中で踊っている無能なマネキンに任せておけばいい。私はただ、静かに計算をしたかっただけだ」
「計算ですか?」
「ああ」男は顎で、頭上の巨大なシャンデリアをしゃくった。
「あのシャンデリアの蝋燭の数は約千本。一本あたり銅貨三枚だとして、一晩で銀貨三十枚が煙となって消える。さらに、あの無駄に豪華なイノシシの丸焼き、外国産のワイン、楽団の雇い賃。この一晩の舞踏会のために費やされた金で、南部の飢饉に苦しむ三つの村を一冬越えさせることができる。実に馬鹿げていると思いませんか?」
私は目を丸くした。
こんな狂った思考回路を持つ人間が、私以外にも、このイカれた社交界に存在していたなんて。
「……三つの村を一冬越えさせる、ですか」
私はゆっくりと歩み寄り、彼の手すりの隣に並んだ。そして、同じようにシャンデリアを見上げた。
「計算が少し甘いのではありませんか?」
「何?」
男が怪訝そうに私を見た。
「南部の村の平均人口を五十人と仮定しましょう。彼らに必要なのは贅沢品ではなく、最低限の麦と塩です。現在の麦の相場は、一袋で銀貨一枚。つまり、この舞踏会の予算を正確に再分配すれば、三つの村どころか、七つの村の領民を餓死から救えます。しかも、彼らが生き延びて春に農作業を再開すれば、秋には税収として投資額の百二十パーセントが国庫に還流するはずです。シャンデリアの煙に投資するより、はるかに利回りの良い事業ですわ」
私がすらすらと言い切ると、男は初めて、私を真っ直ぐに見つめた。
その冷たい瞳の奥に、わずかな驚きと、それ以上の「興味」が揺らぐのがわかった。
「……御令嬢。貴女は……女性に学問を禁じているこの国で、どこでそんな経済の知識を?」
「実家が破産寸前で、毎日台帳とにらめっこしていれば、嫌でも数字には強くなりますわ。父に感謝ですわね。それに、神々の痴話喧嘩を読むより、複式簿記の学術書を読んでいる方が、精神衛生上よろしいですから」
私は肩をすくめた。
「私はルシル・フォン・エヴェラール。エヴェラール伯爵家の長女です。あなたは?」
男は台帳をパタンと閉じ、優雅にお辞儀をした。先ほどのアーサー王子のような芝居がかったものではなく、洗練された、無駄のない動きだった。
「クロード・ヴァレリウス。財務卿補佐にして、陛下の『特別監査官』を務めさせていただいております」
ヴァレリウス。
その名を聞いて、私は背筋が凍るのを感じた。
クロード・ヴァレリウス。社交界の裏側で「氷の死神」と恐れられる男。王国の財政を立て直すためなら、不正を働いた大貴族の首を容赦なく刎ねる、王の懐刀にして冷酷無比な官僚。
(よりによって、こんな大物に関わってしまうなんて……!)
私が内心で冷や汗を流していると、クロードは薄く、本当に薄く、唇の端を吊り上げて笑った。
「エヴェラール伯爵令嬢。貴女のその、噂通りの実用的な頭脳と、飾り気のない言葉は、あの中でワルツを踊っている羽の生えた鳥たちよりも、はるかに私の興味を惹きつけました」
彼は一歩、私に近づいた。微かに、古い羊皮紙とインクの匂いがした。
「どうでしょう。私と一つ、取引をしませんか?」
「取引ですか? 私はお金も権力も、そして殿方を喜ばせるような愛らしさも持ち合わせておりませんわよ」
「愛らしさなど、台帳の数字を合わせる役には立ちません。私が必要としているのは、貴方のように社会の腐敗を正確に数値化できる目と、それを笑い飛ばせる神経の図太さですから」
彼は手を差し出した。
それはダンスに誘う手ではなく、明確なビジネスパートナーとしての握手を求める手だった。
私は広間の方を振り返った。そこには、金鉱山目当ての結婚を強要する父と、頭の空っぽな王子と、腐りきった貴族社会が待っている。
そして目の前には、私と同じようにこの世界を冷たく見つめ、それを変えようとしている(あるいは利用しようとしている)死神がいる。
選択肢など、最初から決まっていた。
「いいでしょう、ヴァレリウス卿。ただし、私の労働対価は高くつきますわよ。最低でも、我が家の借金の利息分は払っていただきますからね」
「安いものです。貴女の知能は、その程度の借金よりはるかに価値がある」
私は彼の冷たい手を取り、力強く握り返した。
純白のドレスと、漆黒のコート。私たちはバルコニーの暗がりで、愛ではなく、パートナーとしての契約を結んだ。
真実の愛は錬金白の化粧より高くつく。だが、賢しい契約は、私たちに生き残る術を教えてくれるのだ。




