第98話 彼氏捜索本部
「一真……。俺、やっぱり決めたよ」
翌日の昼休み。
隣の席から聞こえてくる海斗の声は、幽霊が這い出してきたかのように湿っぽく、そして不穏だった。
「……何をだよ。またバッシュを焼くとか言うなよ?」
「違う。……『東雲凛・彼氏特定捜査本部』を立ち上げる。俺が本部長だ。協力しろ、一真。お前は俺の右腕だ」
「………………」
俺は、持っていたお茶のペットボトルを握りつぶしそうになった。感情がぐちゃぐちゃである。
あの日、始業式の後に凛が言い放った「彼氏だよ」という言葉。それは、この二日間でクラスだけでなく学年全体、ひいては部活動のネットワークを通じて学校中に拡散されていた。
「いいか、一真。犯人の特徴は絞られている。東雲さん曰く『不器用だけど世界で一番大切にしてくれる最高の騎士サマ』だ。……騎士だぞ? つまり、乗馬部か? それとも西洋剣術の使い手か? 日本にそんな奴いるのか!?」
「……。いや、それはたぶん比喩……だと思うぞ。絞られてはないだろ」
「比喩だと!? あの東雲さんがそんな抽象的な表現を使うわけがない! 相手は間違いなく、中世ヨーロッパから転生してきたか、あるいは……お前みたいに一日中ゲームをしてる奴なら分かるような、何か特別な絆を持った奴に違いないんだ!」
海斗の直感が、時折恐ろしいほど正解の近くを掠めていく。
俺は冷や汗を拭いながら、「まあ、他校の大学生とかじゃないのか?」と適当に話を逸らした。
「大学生……。ありえるな。駅ビルで手を繋いでいたという目撃証言もある。……クソッ! どこのどいつだ! 俺たちの凛りんを連れ去った『馬の骨』は!」
……。
海斗、すまない。その馬の骨は、今まさに、お前の隣で「物理の公式」をノートに書きなぐって動揺を隠している男なんだわ。
ふと、教室の入り口付近に視線をやる。
東雲さんは、いつものように女子グループに囲まれていた。
彼女が「彼氏がいる」と公言したことで、男子たちが直接アタックしてくることは減ったが、代わりに女子たちの質問攻めがさらに激化している。
「ねえねえ、凛ちゃん! その彼氏さんって、どんな服着てるの?」
「スポーツマン? それともインドア派?」
凛は、女子たちの輪の中で楽しそうに笑いながら、ちらりとこちらを見た。
そして。
彼女は誰にも気づかれないほどの速さで、自分の髪に挿した「あの髪留め」を指先で弾いた。
「んー、どっちかと言えばインドアかな? でも、バドミントンとか、やらせたら意外とすごかったりするんだよ。……あはは、これ以上は内緒!」
「ははっ、なんだか佐藤くんみたいじゃん」
……。
…………。
教室内が一瞬、静まり返った。
女子たちの一人が冗談半分で俺の名前を出した瞬間、俺の心臓は物理的に止まったかと思った。
「えー、佐藤くん!? まさかー!」
「でも確かに、球技大会の佐藤くんはカッコよかったよね」
「あはは、凛ちゃんと佐藤くん? 意外すぎて想像できないわ!」
女子たちはゲラゲラと笑い、すぐに別の話題へと移っていった。
凛も「にひひ、どうかしらね」なんて言いながら、完璧なポーカーフェイスで受け流している。
……危なすぎる。
あいつ、わざとヒントを出して楽しんでやがる。
******
五時限目の授業後。
窓の外からは、本格的な夏の終わりを告げる蝉の声が聞こえてくる。
俺がノートを整理していると、ポケットの中でスマホが震えた。
凛:【カズッチくん、生きてる?】
凛:【さっきの名前出された時の顔、最高だったよ】
凛:【心臓の音、ここまで聞こえてきそうだったもん】
……。
俺は机の下で、震える指で返信を打つ。
一真:【お前のせいだろ!!】
一真:【ヒント出しすぎだ。海斗が捜査本部とか作ってんだぞ】
凛:【いいじゃん、楽しいし】
凛:【それにね、一真】
凛:【私、もう「東雲さん」として我慢するの、飽きちゃったんだ】
凛:【本当は、みんなの前で「一真が好き!」って叫びたいくらいなんだよ?】
「――――っ!!」
俺は思わず、持っていたシャーペンを床に落とした。
カラン、という高い音が静かな教室に響く。
凛は、斜め前方の席で、誰にも見えない角度でこちらを振り返り、ぺろっと舌を出して見せた。
……ダメだ。
東雲凛という女の子は、恋人になった途端、ハルとしての生意気さと、凛としての美しさを併せ持った「最強の誘惑者」へと進化していた。
学校での「他人のふり」というルールは、もはや俺一人が必死に守り続けている、崩壊寸前の防波堤に過ぎなかった。
******
放課後。
海斗の執拗な「捜査会議」への誘いを『妹が熱を出した』という嘘で断り、俺は校門を飛び出した。妹よ、毎度ごめんよ。
向かった先は、校舎の裏手、古い倉庫の陰。
そこは、一ノ瀬さんに「宣戦布告」した場所であり、俺と凛が密会するための「秘密のセーフハウス」だった。
しばらく待っていると、足音が聞こえてきた。
現れたのは、凛。
彼女は周囲を確認すると、スッといつものお淑やかな「東雲さん」の表情を崩し、俺の元に近づいてきた。
そしてぎゅっと、手を握った。
「一真! お待たせ!」
「お、おい……凛、誰かに見られたら……」
「大丈夫、咲希が見張っててくれるから。にひひ、さすが私の親友でしょ?」
凛は俺のシャツの裾をぎゅっと握りしめ、幸せそうに目を細めた。
「……凛。お前、さっきの教室での発言、本気か?」
「何が?」
「『好きって叫びたい』ってやつだよ。……お前、学園のアイドルなんだぞ。そんなことしたら……」
「アイドルなんて、もういいの。……私、カズの『ハル』でいられるなら、それだけでいいんだもん」
凛は顔を上げ、俺の目を見つめた。
夕暮れの光に透ける彼女の黒髪。
その瞳に宿る熱は、画面越しに「頑張れ」と言い合っていた三年前とは比べ物にならないほど、強くて、深かった。
「それにしても一真のことをよく言わないなんて……みんなわかってないなぁ」
そう言って凛は頬を膨らます。
恐らく先程の教室での女子グループとのやり取りの内容だろう。
「まぁ、今までクラスの中で影薄い人でやらせてもらってたからなぁ……」
そういうと凛に背中を押される。
「私が貴方のことを好きなんだから自信持ってよね!開けっぴろげにしていいってなったらすぐにみんなに一真のいいとこを教えてあげなきゃ」
「開けっぴろげって……」
「にひひ。……でも。……一真が『まだ秘密がいい』って言うなら、ガマンしてあげる。……。その代わり」
彼女は一歩踏み込み、俺の耳元で囁いた。
「今日の夜のログイン。……二人きりのプライベートチャンネルで、たっぷりノロケさせなさいよね? 彼氏くん」
「………………。わかったよ、相棒」
俺は彼女の細い肩を抱き寄せた。
教室では、犯人捜しに躍起になる海斗やクラスメイトたち。
けれど、この倉庫の陰だけは、俺たちの本当の物語が進行する「特等席」。
文化祭の足音が聞こえ始める九月の放課後。
俺と彼女の「内緒のカップル生活」というクエストは。
一ノ瀬咲希という最強の味方を得て、また一段と、甘くて危険な難易度へと突入しようとしていた。
「にひひ! 一真、大好きだよ!」
彼女の弾けるような笑顔。
それを独占している優越感が。
俺の心の中にある「モブ」としての卑屈さを、一瞬で溶かして消し去ってくれた。




