第97話 新学期、強制スタート
九月一日。
校門を潜ると、そこには一ヶ月前よりも少しだけ高く、けれど刺すような日差しが残る青空が広がっていた。
俺――佐藤一真は、昨日までの「二人きりの夏」をカバンの奥にしまい込み、いつもの地味な『佐藤くん』としてのスイッチを入れる。
(……よし。今日からまた「他人のふり」だ。絶対にボロは出さないぞ)
教室に入り、自分の席に座る。
隣の海斗は、夏休みの部活の疲労が溜まってるのか、「あー、また地獄の日常が始まるぜ……」と机に突っ伏していた。
「おはよ、海斗」
「おぅ一真……。お前、夏休み何してたんだよ。ゲーセン誘ったのに『妹のパシリ』かよぉ」
「……。まあ、いろいろ大変だったんだわ」
まさか、海斗が裏で崇める「東雲凛」と、お家デートしたり猫カフェ行ったり、挙句の果てに花火の下でキスしたなんて、死んでも言えない。
その時、教室の空気が一瞬で華やいだ。
凛と一ノ瀬さんが登校してきたのだ。
「おっはよー! みんな、夏休み楽しんだー!?」
咲希さんの弾けるような声。そしてその隣で、さらさらとした黒髪を揺らし、完璧な「学園の天使」の微笑みを浮かべる東雲さん。
彼女は俺の席の横を通る際、一瞬だけ視線を俺にむけて、にひひと悪戯っぽく目を細めた。
(――――っ!!)
心臓が跳ねる。俺は慌てて教科書を広げて目を逸らした。
……全然ダメだ。一学期より難易度が上がってやがる。
始業式が終わり、休み時間になった。
いつも通り、東雲さんの周りには女子たちが集まり、夏休みの思い出話で盛り上がっている。俺はそれをBGMに聞き流そうとしていたのだが。
「ねえねえ、東雲さん! ちょっと、あれって本当なの!?」
女子の一人が、凛に詰め寄った。その声が少し鋭かったので、俺も海斗も思わず耳を澄ませる。
「……? 何がかな、岡田さん」
「これだよ! 三日前、駅ビルで東雲さんを見たって子がいて……。誰か男の人と、すっごい仲良さそうに手を繋いで歩いてたって!」
教室が一瞬で静まり返った。
俺の肺から、酸素が消えたような錯覚に陥る。
三日前。駅ビル。
……恐らく猫カフェの帰りの俺たちだ。
「え、マジで!? あの東雲さんが男と!?」
「他校の奴? それとも大学生!?」
男子たちが一斉にざわつき、海斗に至っては「……嘘だ。俺の女神に限ってそんな……不潔な……」と膝をガクガクさせている。
(……凛、頼む。上手く誤魔化してくれ。……一ノ瀬さんに相談した時みたいに、適当に理由を――)
俺は心の中で必死に念じた。
いつも通りの完璧な東雲さんなら、「あはは、親戚のお兄ちゃんだよ」とか、「ただの友達に強引に手を引かれただけ」とか、いくらでも逃げ道はあったはずだ。
けれど。
東雲凛は、ふっと俺の方をチラリと見た。
そして、これまで見たこともないような、どこか誇らしげで、けれど最高に幸せそうな「ハル」の顔を覗かせて。
「――あぁ、見られちゃったかぁ」
凛は照れくさそうに頬を掻き、あっけらかんと言い放った。
「うん。あれ、私の彼氏だよ」
「「「「「「――――――――はぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!???」」」」」」
絶叫。
教室が揺れた。
海斗は白目を剥いて椅子から転げ落ちそうになり、女子たちは悲鳴を上げ、クラスメイトたちがパニックに陥る。
「え、えええええっ!? ホントなの!? どんな人!? どこで知り合ったの!?」
「にひひ! 内緒! でもね、すっごく不器用で、でも私のことを世界で一番大切にしてくれる……そんな人なんだから」
凛はそう言って、幸せそうに目を細めた。
その視線は、騒ぎの中心にいながらも、真っ直ぐに俺――佐藤一真だけを射抜いていた。
(…………バカ。……凛のバカ……!!)
俺は顔が沸騰しそうなのを必死に抑え、机に頭を打ち付けた。
内緒にしようなって言ったじゃねーか!!
これじゃ、誰が相手かバレるのも時間の問題だ。
「…………一真」
床に転がっていた海斗が、這いずるようにして俺の足を掴んだ。
その顔は、もはやこの世の者のそれではない。
「……終わったよ、一真。……。東雲さんに、彼氏だ。……。……。俺、今からバッシュを焼いて、バスケ部やめてくる……。……。……。生きてる意味が、見当たらないんだわ……」
「……。……。落ち着け、海斗。……。……まあ、お祝いしてやれよ」
「できるかぁぁぁ!! 誰だよその彼氏! どこの馬の骨だよ! 呪ってやる、地獄の果てまで呪ってやるぅぅ!!」
……。
…………ごめんな、海斗。
その、地獄の果てまで呪われる予定の馬の骨は、今お前の隣で震えてる親友なんだわ。
俺は、スマホの裏側に貼られたドラゴンのシールをそっと握りしめた。
凛は女子たちに質問攻めにされながらも、時折こちらを向いて、誰にも気づかれない速さで「にひひ」と笑っている。
二学期、ログイン初日。
他人のふりというミッションは、開始十分で『FAILED(失敗)』の文字を叩き出されていた。
俺たちの夏休みは終わったけれど。
この灼熱の教室で、もっと熱くて、もっと心臓に悪い「本編」が。
今、強制的にスタートしてしまった。




