第96話 夜風と共に最高の余韻
駅ビルの喧騒から離れ、少し歩くと川のせせらぎが聞こえてくる。
俺と凛は、どちらからともなく、いつもの河川敷の堤防へと足を向けていた。
八月の終わり。空は燃えるようなオレンジ色から、深い紺色へとゆっくりと沈んでいく。昼間の猛暑を忘れさせるような涼しい夜風が、俺たちの火照った顔を優しく撫でていった。
「ふぅ。やっぱりここ落ち着くね」
凛が土手の斜面に腰を下ろし、膝を抱えながら夜空を見上げた。
俺もその隣に、肩が触れ合うくらいの距離で座る。
さっきまでのゲームセンターの熱気が、遠い夢のように感じられた。
「そうだな。お前、ゲーセンじゃ『体力無限か?』って思うくらい暴れてたけどな」
「にひひ! だって楽しかったんだもん。誰にも遠慮しないで、一真と全力で遊べるのって、やっぱり最高だよ」
凛はそう言って、俺の腕に自分の頭をこてんと預けてきた。
さらさらとした黒髪から漂うあの香りと、肩にかかる心地よい重み。
この一ヶ月で、この距離感は俺たちにとって「当たり前」のものになっていた。
「ねえ、一真。……あと少しで、学校、始まっちゃうね」
凛の声が、少しだけ寂しげに響いた。
その一言で、俺の心にもチクリとした痛みが走る。
「ああ。来週の月曜日から、また二学期だな」
「また学校じゃ『東雲さん』と『佐藤くん』に戻らなきゃいけないんだよね。咲希とか海斗くんの前では普通に喋れるようになったけど、それでも……二人の時は、名前で呼びたいな」
凛は俺のシャツの袖を指先でぎゅっと握りしめた。
「親友」という言葉を卒業し、「恋人」になったこの夏休み。
俺たちは、自分たちの世界を好きな色で塗り替えてきた。
けれど、学校という場所に戻れば、そこにはまた別のルールが待っている。
「……不安か?」
「……少しだけね。学校での私は、みんなの期待に応える『天使』でいなきゃとか思っちゃうし。一真と他人のふりをしてる間に、この夏休みの魔法が解けちゃいそうで、ちょっと怖いんだ」
凛は俯き、自分の影を見つめた。
学校での東雲凛は、あまりにも完璧すぎて、時々どこか遠い世界の住人のように見えてしまうことがある。彼女自身も、そのギャップにずっと苦しんできたのだ。
俺は空いた右手で、彼女の左手をそっと包み込んだ。
指を絡め、掌の熱を分かち合う。
「魔法なんて解けないよ。……ハル、お前は忘れたのか?」
「え?」
「俺たちの本拠地は、学校の教室じゃないだろ。三年前からずっと、画面の向こう側の、二人だけの場所だったはずだ。……それが今は、こうして隣にいる。それだけの話だろ」
俺は彼女の目を見据えて、はっきりと言い切った。
「学校で他人のふりをしていようが、苗字で呼び合っていようが、俺たちのステータスは変わらない。……俺はお前の騎士で、お前は俺の最高の相棒だ。二学期が始まっても、そのログイン画面は俺がずっと守ってやるよ」
凛は目を見開き、それからみるみるうちに瞳を潤ませていった。
けれど、その瞳には不安の色はもうなかった。
彼女は鼻を少し赤くしながらも、ふっと口角を上げ、最高の笑顔を見せた。
「にひひ。……ズルいよ一真。相変わらず、カッコよすぎ。……最高のバフ、いただきました」
凛は俺の手に力を込め、強く握り返してきた。
「そうだよね。私たち、三年間も画面越しに信じ合ってきたんだもん。……学校のクラスメイトなんていう薄っぺらい関係に、負けるわけないよね」
「ああ。当たり前だ。……それに、海斗や咲希さんがいる前で、こっそりアイコンタクトするのも、意外と楽しいだろ?」
「あはは! それは確かに! 凛々しい顔してノート取ってる一真に、こっそり『大好き』ってLIME送っちゃおっかな」
「やめろ、ニヤケが止まらんくなる……死刑だぞ」
「にひひ!」
いつもの、相棒としてのやり取り。
俺たちは夕闇に包まれた堤防の上で、しばらくの間笑い合った。
三年前。ただのデータとして出会った俺たち。
一年前。相棒として、お互いの声を唯一の救いにしていた俺たち。
そして、今。
恋人として、同じ風に吹かれ、明日への勇気を分け合っている俺たち。
夏休みが終わることは、終わりじゃない。
もっと賑やかで、もっと刺激的で、もっと甘い二学期という名の「新エリア」への突入に過ぎないのだ。
「……一真。……ありがとね。私、……一真に出会えて、本当に世界が変わったよ」
「……。俺もだよ、凛。大好きだ」
「……!バカ、そうやっていきなり言うのは反則!」
俺たちは立ち上がり、駅へと続く道を歩き出した。
繋いだ手は、もう汗ばんでいるけれど、離すという選択肢はどこにもない。
(……待ってろよ、二学期。……どんなギミックが来ても、俺とこいつなら、全部『S評価』でクリアしてやるからな)
俺は、スマホの裏側に貼られたドラゴンのシールをそっと指先でなぞり、前を向いた。
街灯の光が、二人の重なる影を長く引き延ばしていく。
九月の始まりを告げる、少しだけ凛とした夜風が、俺たちの背中を力強く押してくれていた。
「にひひ! 一真、明日の朝、ちゃんと『おはよ』のLIMEしてよね?」
「……わかってるよ。二学期の準備、しっかりしとけよ、相棒」
俺たちの「真夏のクエスト」は、最高の余韻を残したまま。
また新しい、終わらない物語へと続いていく。




