第93話 夏の終わり
八月の終わり。
窓の外からは、盛夏の頃の勢いを失った、どこか物悲しいツクツクボウシの声が響いていた。
一週間前までは、外に出るだけで肌を焼くような殺人的な熱気だったのに、今は夕暮れ時になると少しだけ涼しい風がカーテンを揺らすようになっている。
「……はぁ。終わっちゃうんだな」
俺は、自室のベッドに寝転びながら、天井の木目を数えていた。
カレンダーの「夏休み」という魔法の期間は、残り一週間を切っている。
この一ヶ月と少し。俺の人生で最も濃密で、最も甘くて、そして最も心臓に悪かった時間が、もうすぐ「学校」という名の現実へと引き戻されようとしていた。
「なにが? 何が終わっちゃうの?」
不意に、すぐ近くから鈴を転がすような地声が響いた。
俺は慌てて視線を横にやる。
そこには、俺の学習机の椅子に深く腰掛け、俺の貸した大きめのTシャツ姿で足をパタパタさせている東雲凛がいた。
「……夏休みだよ。もう、あと数日だろ。一週間後には、またあの暑苦しい教室で他人のふりをしなきゃいけないんだぞ」
「にひひ! 一真ってば、ネガティブだなぁ。……でも、確かに。他人のふりは、前よりずっと難しくなってるかもね。……私、一真の顔を見たら、絶対にやけちゃう自信あるもん」
凛はそう言って、椅子をくるりと回して俺の顔を覗き込んできた。
強化合宿を終えた彼女は午前で部活を終えると俺の家へと訪れるようになっていた。
三年前。画面の向こう側の存在だったハルが、今、俺の部屋でくつろいでいる。
その事実を改めて噛み締めると、胸の奥がじわーっと熱くなる。
「……。それで、ハル。お前こそ、やり残したことはないのか? 部活ばっかりで、夏らしいことあんまりしてないだろ」
「それ!! その話をしたかったんだよ!」
凛はパッと顔を輝かせると、ベッドに座る俺の元へ駆け寄ってきた。
彼女は自分のスマホを俺の目の前に突きつける。
「これ、見て! ……駅ビルにあるカフェ『サンライズ』の、夏季限定メニュー!」
画面に映し出されていたのは、一目見て「正気か?」と疑いたくなるような、異様な高さのスイーツだった。
何層にも重ねられたホイップクリーム、これでもかと盛り付けられた色とりどりのフルーツ、最上段には特大のアイスクリームと大きなプリンが鎮座している。
その名も、『超弩級・スカイハイ・タワーパフェ』。
「……お前、これ一人で食うつもりか?」
「バカ言わないでよ! ソロじゃ絶対に攻略不可能なレイドボスでしょ、これ! ……だから。……夏休み最後のクエスト。……二人で、攻略しに行かない?」
凛は上目遣いで俺をじっと見つめてきた。
「……パフェを食べるのが、クエスト?」
「そうだよ! ……私さ。合宿中、ずーっとこれのこと考えてたんだ。……一真と一緒に、これの山頂を目指したいなーって。二人きりの打ち上げ」
彼女は、俺のシャツの袖を指先でぎゅっと握りしめた。
なんなんだ山頂を目指したいとは。
「……だめかな? 一真。……。私、甘いものには自信あるんだけど……。……一真の『物理攻撃(食欲)』がないと、完食できる気がしないの」
……。
…………。
断れるわけがなかった。
彼女がこのパフェを見つけて、俺と一緒に食べることを「合宿のモチベーション」にしていたのだとしたら、相棒として、そして彼氏として、その期待に応えるのは当然の任務だ。
「……。……わかったよ。受注する。胃薬、用意して待ってろよ」
「やったぁ!! さすが一真! ……にひひ、楽しみだなぁ! ……あ。それじゃあ、丁度明日はオフだし、午前十一時に駅前ね!」
凛は嬉しそうに跳ねると、そのまま俺のベッドにダイブしてきた。
「……おい! お前、人のベッドで何やってんだよ!」
「いいじゃん! 幸せなんだもん。……。……ねえ、一真」
凛は枕に顔を埋めたまま、ボソッと呟いた。
「……。私、……一真と付き合えて、本当によかった。お姉ちゃんにも、お父さんにも……。みんなにもっと自慢したい気分なんだよ、本当は」
「…………」
「……でも、学校での『他人のふり』も。今の、二人だけの『秘密』も。なんだか、特別なイベントをこなしてるみたいで、ワクワクするのも本当。……にひひ。大好きだよ、相棒」
……。
ダメだ。この美少女は、時折こういう不意打ちの『バフ』を平然とかけてくる。
俺は、熱くなった頬を隠すように、彼女のポニーテールからこぼれた後れ毛をそっと撫でた。
「……。ああ。……俺もだよ。さっさと帰って、明日の準備しろよ。……遅刻したら、ポエム音読の刑だぞ」
「やだ! 絶対遅れない! ……。じゃあ、今日は帰るね。……。また後で、ログインするから。……寝落ち禁止だよ?」
凛はベッドから起き上がると、俺の頬に一瞬だけ、柔らかな感触を置いていった。
「――――っ!!」
「にひひ! 『先行報酬』、お買い上げありがとうございましたぁー!」
彼女は風のように部屋を飛び出していった。
階段をドタドタと下りる音。リビングで双葉が「凛先輩!? 顔真っ赤ですよ!?」と驚く声が聞こえてくる。
……。
…………。
一人残された部屋。
俺は自分の頬に手を当て、まだ残っている彼女の熱を確かめた。
(……甘党、か。……お前がそんなにパフェを楽しみにしてるなんて、三年前には想像もできなかったわ)
「ハル」として、男のフリをして暴言を吐きまくっていたあの頃。
彼女の好きなものが「猫」や「パフェ」だなんて、俺は一度も聞いたことがなかった。
けれど、恋人になった今。
俺は毎日、彼女の新しい「一面」を知っていく。
それは、どんなレジェンド装備を手に入れるよりも。
どんな広大な新マップを開拓するよりも。
俺の人生を、ワクワクする未知の冒険へと変えてくれていた。
(……。よし。……明日は、絶対に完食してやるからな)
俺は、スマホの裏側に貼られたドラゴンのシールを、誇らしげに見つめた。
夏休み最後の、二人きりのデート。
最高に甘くて、最高に賑やかな、俺たちの「本編」が。
明日、また新しいページをめくろうとしていた。
俺は、自分の中に湧き上がった確かな幸福感を噛み締めながら、明日の攻略ルートを確認するためにスマホを手に取った。
夜空には、秋の気配を含んだ月が、優しく部屋を照らしていた。




