第92話 幸せすぎる絶望
駅からの帰り道。俺たちは一度も手を離すことなく、夏の陽光に焼かれたアスファルトを踏みしめて歩いた。
凛の左手と、俺の右手。絡められた指先からは、九日分の寂しさを埋めるような、心地よい圧力が伝わってくる。
「……一真。なんか、家が近づくにつれて顔が引き攣ってるよ? まさか、私のこと連れ込むのが怖くなった?」
凛が横からにひひと笑い、俺の顔を覗き込んできた。
「怖いに決まってるだろ。前凛が家に来た時、双葉から不審者を見るような目で見られたんだぞ。そして雫さんにも疑いの目で見られてたような気がしてならなくて……。うちの妹になにかしたら許さないよ?みたいな」
「あはは! 考えすぎだよ!大丈夫だよ、今日はお姉ちゃんもいないし、なんかあったら双葉ちゃんには私からちゃんと言っておくから」
そんな軽口を叩き合っているうちに、見慣れた我が家に到着した。
玄関の扉を開けると、冷房の涼しい空気と一緒に、ドタドタという騒がしい足音が聞こえてきた。
「――っ! 凛先輩!! お帰りなさいませ!!」
現れたのは、部活のジャージ姿のまま、まるで国家元首を迎えるような勢いで最敬礼をする妹・双葉だった。
「にひひ、双葉ちゃん、ただいま! お土産、駅で買ってきたよ」
「……っ!! 勿体なき幸せ……! 凛先輩、お疲れじゃないですか? さあ、早くリビングへ! ……おいお兄そこどけ。凛先輩の動線に立つな」
なんなんだコイツは。ネタでやってるのか本気でやってるのか分からん。
半分ネタ、半分本気と言ったところか?
「…………」
案の定だが、俺への扱いは変わっていなかった。
けれど、双葉は凛をリビングへ案内しようとするのを遮るように、俺が凛の手を握り直して一歩前に出た。
「悪い、双葉。今日は俺の部屋で、これから二人でゲームの攻略会議なんだ。……お土産はそこに置いとくから、後で三人で食べようぜ」
「…………えっ?」
双葉が目を見開いて、俺と、俺に手を引かれて赤くなっている凛を交互に見た。
いつもなら「お兄の部屋なんてバイオハザードだから入っちゃダメ!」と騒ぐはずの妹が、俺の真剣な――「恋人」としての顔を見て、毒気を抜かれたように口を噤んだ。
「…………。ま、まあ。凛先輩がそうしたいなら、いいけど。……お兄、もし一ミリでも変なことしたら、本当にハンマー持っていくからね」
「わかってるよ」
俺たちは双葉の(消極的な)許可を得て、二階の俺の部屋へと避難した。
……ほんとに可愛いやつだ。
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ガチャリ、とドアを閉め、鍵をかける。
わずか六畳の、見慣れた俺の聖域。
けれど、そこに浴衣ではない、カジュアルな私服姿の凛がいるだけで、部屋の密度が三倍くらいに跳ね上がった気がした。
「……ふぅ。やっと二人きりだね」
凛はカバンを置くと、ベッドの端に腰を下ろして、パタパタと手で顔を仰いだ。
「ああ。……九日ぶりだお前と二人きりになるの」
「そうだね。にひひ、九日間の密度が濃すぎて一真が『まだしません!』とか叫んでたのが遠い昔のように……懐かしいわ」
「…………その話は墓まで持っていけ」
俺は照れ隠しにパソコンの電源を入れ、二つのモニターを立ち上げた。
凛も自然な動作で俺の隣に座り、予備のキーボードとマウスを使い慣れた手つきで引き寄せる。
俺も男だ。『まだしません』発言を出された事で男としてもしや……みたいな考えが頭をよぎった。
実際準備するものは準備した……つもりだ。
だが結論を先に言うと結局そんなこと、はなかった。
ゆっくりでいい。俺たちのペースで行こう。
そこからの二時間は、文字通り「相棒」としての時間だった。
合宿で溜まっていた新イベントの攻略、ギルドメンバーとのチャット、そして、他愛のない罵り合い。
「カズ、そこ! 突っ込みすぎ!」
「うるせー! お前のバフがコンマ五秒遅いんだよ!」
ボイスチャットなし。
すぐ隣から聞こえる、彼女の本物の声。
画面の中で重なり合うアバターと、リアルで触れ合う肩の熱。
やっぱり、三年間、ずっとこれがしたかった。
画面越しじゃ絶対に届かなかった、この「安心感」の正体。
けれど、クエストを一つクリアしたところで、凛が不意にコントローラーを置いた。
「…………。一真。……疲れた」
「そうだな、合宿帰りだもんな。少し休めよ」
「うん。……それで。……。……覚えてる? 駅前での約束」
凛は上目遣いで、少しだけ潤んだ瞳を向けてきた。
――『一真の腕枕ね』
俺の心臓が、今日何度目かわからない爆発を起こした。
「……。……本気、か?」
「だーめ。拒否権なし。……九日も待たせた騎士サマの義務でしょ?」
凛はそう言うと、俺の腕を強引に引っ張ってベッドの方へと導いた。
俺は観念して、仰向けに横たわる。
「……ほら、こいよ」
俺が左腕を広げると、凛は顔を真っ赤にしながら、けれど迷うことなく俺の脇に潜り込んできた。
ずしり、と。
俺の腕に、彼女の頭の心地よい重みがかかる。
ふわりと、彼女の髪から漂うあの甘い香りが、一瞬で俺の理性を焼き尽くそうとした。
「――――っ!!」
「…………にひひ。一真、固まりすぎ。石像になっちゃうよ?」
凛は俺の胸元に顔を押し付け、クスクスと笑いながら、俺のシャツをギュッと指先で掴んだ。
「……。……。お前だって、……心臓、五月蝿いぞ」
「いいの。……これが、私の『ログイン報酬』なんだもん。……一真の匂い、すっごく落ち着く……」
凛は満足そうに目を閉じ、俺の腕にさらに身体を密着させてきた。
薄暗い部屋。
窓の外から聞こえる蝉の声と、遠くで響くお母さんの笑い声。
親友から恋人になった俺たちの、初めての「何もしない」時間。
画面の中の騎士と魔導師は、今、お互いの体温を分け合うようにして、静かに休息の時を過ごしていた。
「……ねえ、一真」
「なんだよ」
「……相棒。……。これからもずっと、……私の隣、……。……空けておいてね?」
凛の声は、眠気に耐えるように、けれど確かな意志を持って響いた。
「…………。ああ。……わかってるよ。……お前の特等席は、死んでも誰にも譲らねーわ」
「…………にひひ。……。……。大好きだよ、一真」
「……ああ、俺も大好きだよ」
彼女の呼吸が、ゆっくりと深く、穏やかになっていく。
腕の中に収まった、小さくて、温かくて、けれど世界で一番大切な重み。
三年前。ボイチェンのノイズ越しに始まった物語。
あの頃の俺には、想像もできなかった未来が、今、俺の左腕の中にあった。
気づけば九日間の疲れが募ったのか既に彼女は寝てしまっていた。
スースーと、規則正しい寝息を立てて眠るその姿はたまらなく愛おしく感じる。
俺は、彼女の寝顔を見つめながら、空いた右手で彼女の頭を優しく、優しく撫でた。
こんな無防備な彼女の顔を見ていると、さっき男として……みたいなことを考えていた自分がアホらしくなってくる。
……まぁ『まだしません』だな。
そんなことを思いつつも、
(……。……。さて。……これ。……。……いつ腕を引き抜けばいいんだ……?)
幸せすぎる絶望を噛み締めながら。
俺は、一生解きたくないこの「魔法」に包まれて、自分もゆっくりと目を閉じた。
俺たちの、不器用で、けれど最高に無敵な「本編」は。
この密室の微睡みから、また一段と熱く、深く、走り出そうとしていた。




