第91話 会えない九日間の後に
凛視点
強化合宿、最終日の朝。
カーテンの隙間から差し込む陽射しは、今日も容赦なく私の肌を刺す。全身の筋肉が悲鳴を上げ、まぶたは鉛のように重い。
けれど、それ以上に私の胸の奥を重く支配していたのは、咲希に投げかけられた言葉の残響だった。
『凛りんから甘えてばっかりじゃない?』
その一言が、私の心の中で何度もリピート再生されていた。
(……そんなこと、ない。……はず、なんだけど)
朝の集合までのわずかな時間。私は洗面所の鏡の前で、自分の顔をじっと見つめた。
そこに映っているのは、部内のみんなが「東雲さん、今日もストイックでかっこいい!」と憧れる、凛としたエースの顔。……でも、鏡の中の瞳は、情けないほど不安に揺れていた。
思い返せば。
ネカフェで自分から肩に頭を預けたのも。
お祭り前に浴衣の試着タイムを持ちかけたのも。
一真の家で、衝動的に抱きついたのも。
全部、私からだ。
一真は、いつだって受け止めてくれた。拒むこともなく、呆れることもなく、大きな掌で私の頭を撫でてくれた。
でも、それは「一真の意志」なの?
それとも。三年間、ネットの海で私のわがままに付き合い続けてくれた、相棒としての「慣れ」や「義務感」なの?
「……バカ一真。……もっと自分から、……何か言ってくれればいいのに」
ポツリと漏れた独白は、歯を磨く水道の音にかき消された。
******
最終日の練習メニューは、これまで以上に過酷だった。
けれど、私は一度も弱音を吐かなかった。……というより、吐けなかった。
もしここで私が足を止めれば、心の中に溜まった「不安」という名のデバフが一気に溢れ出してしまいそうで、怖かったから。
「凛りん……。大丈夫? 今日、ちょっと……顔、怖いよ」
休憩中、咲希が心配そうにポカリを差し出してきた。
咲希には分かっているんだ。昨夜の恋バナが、私の心に不必要な傷をつけたことを。あの子に悪気がないのは分かっている。ただ、私の不器用さを心配してくれているだけ。
「大丈夫だよ。……。ちょっと、寝不足なだけ」
「にひひ。……。明日、カズッチくんに会えるから楽しみすぎて寝られなかったー、とか?」
「………………そうかもね」
私はあえて否定せずに、ボトルのキャップを閉めた。
本当は。
今すぐにでも一真にLIMEを送りたい。
『一真、会いたいよ』『寂しいよ』『大好きだよ』って、スマホの画面を埋め尽くすくらい、文字を打ち込みたい。
でも。
今の私は、自分の指先を動かすことに怯えていた。
もし、そんなメッセージを送って。
一真に『あいつ、相変わらず面倒くさいな』なんて思われたら?
「恋人」という関係が、三年間積み上げてきた「相棒」という最高の居場所を壊してしまうのだとしたら、私は――。
(……ハルなら、……こんなことで、……悩まなかったのに)
魔導師として、騎士の背中を信じていれば良かったあの頃に戻りたい。
けれど、一度知ってしまった彼の体温は。
私を、ただの「生意気な魔導師」から、どうしようもないほど一人の「弱い女の子」へと変えてしまっていた。
******
夕方。合宿所の玄関前。
解散のホイッスルが鳴り、部員たちが一斉に解放感に浸る中、私は一人、カバンの中からスマホを取り出した。
届いていたのは、一真からのシンプルなメッセージ。
一真:【合宿、お疲れ様。】
一真:【明日、十一時にいつもの駅ビルな】
一真:【忘れ物すんなよ?】
……。
それだけ。
「楽しみだ」とか、「早く会いたい」とか。
そんな言葉は、一文字もなかった。
(……にひひ。……一真らしい、ね)
無理やり笑おうとしたけれど、視界が少しだけ滲んだ。
あいつはきっと、私のことを「いつものハル」だと思っている。
明日会えば、また私が自分から腕を絡めて。
私が自分から「一真、大好き!」なんてはしゃいで。
あいつは「うるせーバカ」って言いながら、困ったように笑ってくれる。
そんな、これまで通りの日常を。
でも。
明日。……明日の私は。
そんな風に笑える自信が、今の私には……爪の先ほども無かった。
「……凛りん! バス、来るよ!」
「……。……。うん。……今行く」
私はスマホをポケットに放り込むと、夕焼けに染まる合宿所を後にした。
九日間の空白。
三年前から変わらない、文字だけの世界。
明日、一真の顔を見たとき。
私は、彼に何を言えばいいんだろう。
「他人のふり」なんて、もう必要ないはずなのに。
今の私は、これまでのどんなギミックよりも難しい「自分の本当の顔」というクエストの前に、立ち尽くしていた。
(待っててね、一真。……待ってて。……一真の方から、私を、見つけて。相棒、じゃなくて。一人の女の子として、……抱きしめて……)
帰りのバスの窓。
流れていく夜の景色を眺めながら、そんなことを思いながら私は自分の掌を、痛いくらいに握り締めた。
夏は、まだ終わらない。
けれど。
明日。九日ぶりの再会が。
俺たちの新しい物語を、どこへ運んでいくのか。
私の心臓は、期待よりも重い予感を孕んで、夜の静寂を刻み続けていた。
******
一真視点
午前十時五十分。
駅ビルの広場、巨大なデジタルサイネージの下。
俺――佐藤一真は、アスファルトから立ち上がる熱気に喉を焼かれながら、手持ち無沙汰にスマホの時計を見つめていた。
九日間。
凛が帰省と合宿に旅立ってから、今日までの時間は、ネトゲの単調な素材集めよりも何倍も、何十倍も長く感じられた。
画面越しのLIMEやビデオ通話だけじゃ、全く足りなかった。
あいつの笑い声。隣を歩く時の歩幅。ふとした瞬間に届く石鹸の香り。
それらすべてが欠けた俺の日常は、まるでバグでテクスチャが剥がれ落ちた、色彩のない世界だった。
(今日こそは、ちゃんと言わないとな)
双葉に「バカお兄」と一蹴され、ギルドの大人たちに背中を押された。
俺はこれまで「相棒だから」という言葉に甘えて、自分から踏み込むことを無意識に避けていたのかもしれない。
けれど、この会えない九日間で、俺はようやく自分の本当の『ステータス』を理解した。
俺の方が、あいつがいないとダメなんだ。東雲凛という女の子が隣にいないと、俺の人生はログインすらままならない。
「――一真」
不意に、少し掠れた、けれど世界で一番聞き慣れた声がした。
顔を上げると、人混みの向こう側に彼女が立っていた。
白のブラウスに、ネイビーのショートパンツ。
さらさらとした黒髪は今日は低めのツインテールにまとめられていて、その姿は驚くほど幼くて、眩しかった。
「凛。お疲れ。今、着いたところか?」
「……。うん。今さっき」
凛は俺の数歩前で立ち止まった。
いつもなら「にひひ!」と笑って、俺の腕に飛び込んでくるか、袖を強引に引っ張ってくるはずだ。
なのに、今の凛はどこか余所余所しい。視線を泳がせ、俺と目を合わせようとしないんだ。
「……行こっか。一真の言ってた、とっておきの場所」
その元気のない声を聞いた瞬間、俺の中の何かが弾けた。
不安そうな顔をさせているのは、俺だ。俺の不甲斐なさのせいだ。
俺は一歩踏み込み、彼女の手首を優しく、けれど絶対に逃がさないという意志を込めて握り締めた。
「――――っ!?」
「凛、悪い。場所を移動する前に、これだけは言わせてくれ」
「え、あ、何……?」
凛が驚いて顔を上げる。俺は彼女の瞳を真っ直ぐに見据え、自分でも驚くほど素直な言葉を口にした。
「寂しかった。九日間、ずっとお前に会いたかったわ」
「え……」
「LIMEじゃ全然足りないんだよ。お前の声が直接聞きたくて、お前の顔が目の前で見たくて。……正直、自分でも引くくらい、お前のことばっかり考えてた。……凛、大好きだよ。お前が隣にいないと、俺、全然ログインしてる気分になれないんだ」
……。
…………。
言い切った。
これまでの俺なら、照れ隠しで「相棒としてな」なんて余計な注釈をつけていたはずだ。
けれど、今はもうそんな逃げ道はいらない。
一人の男として、俺の隣に立っている彼女を求めている。その本音を、喉の奥からすべて吐き出した。
凛は、目を見開いたまま固まっていた。
みるみるうちに彼女の瞳に大きな涙が溜まって、宝石のように溢れ出していく。
「――――よかった」
凛は、ポロポロと涙を零しながら、けれど最高に幸せそうな笑顔を浮かべた。
「にひひ。……ズルいよ、一真。……私から言おうと思ってたのに」
「え、なんで泣いて……」
「……バカ一真。でもそれじゃあ……って。会いたかった。私だって、一秒だってお前のこと忘れてなかったんだから!」
凛は俺の胸元に飛び込むと、力一杯俺のシャツを握り締めた。
******
それから俺たちは、駅ビルにある静かな屋上庭園のベンチへ移動した。
凛は俺の肩にこてんと頭を預け、さっきまでの涙が嘘のように上機嫌で足をパタパタさせている。
「ねえ、一真。実はね、私……すっごく不安だったんだよ」
「不安?」
「そうだよ。咲希に『凛りんから甘えてばっかりじゃない?』って言われてさ。思い返してみれば、ハグしたのも、持たれかかったりしたのも全部私からでしょ? だから、一真は相棒としての義務感で付き合ってくれてるのかなって、合宿中ずっと一人で悩んでたんだから」
凛は不満げに俺の腕をつねった。
……やっぱり、あいつにそんな顔をさせていたのか。
「まずはごめん、そんな悲しい気持ちにさせて……」
そう言って頭を下げると。
少しして凛は俺の頭を撫で始めた。
「え、な……」
俺は思わず顔を上げるとそこには、やはり上機嫌なうちのお姫様が満面の笑みを浮かべていた。
「大丈夫、もう私だけじゃないってわかったから……」
そう言いながら自分の両手を自分の前で握り安堵の表情を浮かべた。
「でもほんとに義務感なんかじゃないぞ?俺が義務感であんなネカフェの密室に二人で入るかよ。……俺だって、お前に触れたいってずっと思ってたよ。でも、俺……嫌われたくなくて、カッコつけてただけで――」
「にひひ! カッコつけてたんだ! かわいいー!」
「うるせー。……この九日間会えなかった時も、そうでもしないとすぐにでも凛のこと迎えに言ってしまいそうで抑えるの大変だった……」
「そうだったんだ」
そう言って凛は胸をなでおろす。
「でも、もうそういうのはやめた。これからは、俺からも全力でお前に『バフ』かけてやるからな」
「うん。期待してるよ、騎士サマ」
凛は顔を上げると、俺の目をじっと見つめてきた。
その瞳の中には、もう不安の欠片も残っていない。
あるのは、三年前から変わらない深い信頼と、恋人としての確かな熱量だけだ。
「ねえ、一真。もう一回、言って? 今度はちゃんと目を見て」
「……。一回言っただろ」
「だーめ。九日分、貯まってるんだから。ほら、早く!」
凛は俺の顔に自分の顔を近づけて、逃がさないように微笑む。
俺は観念して、彼女の細い肩を引き寄せた。
「……凛。大好きだよ。……世界で一番、大切だよ」
「――――っ!!」
凛は顔を真っ赤にして、幸せそうに目を細めた。
「合格! 百億点! ……。にひひ、やっぱり生の声は破壊力が違うね」
彼女は俺の手を、指を絡める『恋人繋ぎ』でぎゅっと握り直した。
掌から伝わってくる、凛の少し高めの体温。
画面越しの声だけじゃ絶対に分からなかった、この「現実」の重みが、俺の心臓を心地よく叩き続けている。
「……よし。九日分の埋め合わせ、今から始めるぞ。何したい? どこ行きたい?」
「んー、決まってるじゃん! 今日は一真の部屋で、並んでログイン! ……そのあと、お昼寝する時は、一真の腕枕限定ね。ワガママ、全部聞いてくれるって言ったもんね?」
「……。……ああ。お前の気が済むまで、付き合ってやるよ」
俺たちは笑い合い、立ち上がった。
「親友」というチュートリアルは、この駅前の空の下で、完全に終わりを迎えた。
ここからは、佐藤一真と東雲凛。
世界で一番不器用で、世界で一番甘い、恋人同士の「本編」が続いていく。
眩しい太陽の光を浴びながら、俺たちは一度も手を解くことなく、家へと続く道を歩き出した。
九日間の空白は、もう、二人の笑顔だけでお釣りが出るくらいに埋め尽くされていた。
「にひひ! 一真、大好き!」
「……。ああ。俺も大好きだ、凛」
俺たちの夏は、ここから最高潮へと向かっていく。




