第90話 合宿夜、恋バナ
キュッ、キュッ、とバッシュが床を鳴らす鋭い音が、蒸し風呂のような体育館に響き渡る。
お母さんの実家から戻り、息をつく間もなく始まった女子バスケ部の強化合宿。
窓の外からは相変わらず蝉の声がうるさく聞こえてくるけれど、今の私にはそれを気にする余裕なんて一ミリもなかった。
「凛、右! スクリーン行くよ!」
「了解、咲希! ――そこっ!!」
咲希のパスを受けて、私は鮮やかなドライブでディフェンスを抜き去り、ゴール下でレイアップを決めた。
周囲の部員たちから「ナイスシュート、東雲さん!」「さすがエース!」と声が飛ぶ。
私はポニーテールから滴る汗をリストバンドで拭い、凛とした……いわゆる学校での『東雲さん』としての完璧な笑顔を浮かべて頷いてみせた。
でも。
私の頭の中にある「メインモニター」に映っているのは、バスケットボールでも、戦術ボードでもなかった。
(……あーあ。一真今頃何してるかな……)
休憩時間。私は誰にも気づかれないように素早くエナメルバッグからスマホを取り出し、通知をチェックする。
届いていたのは、一時間前の一真からの短いLIME。
一真:【合宿、頑張れよ】
一真:【無理して怪我すんなよ。ハルの代わりはいないんだからな】
……。
…………。
(――――っ。にひひ。……もう、そういうことサラッと言うんだから……)
たった二行。
いつも通り、不器用で、飾り気のない言葉。
けれど、その言葉の奥に潜む『バフ』の効果は絶大だった。
私はスマホを胸に抱きしめ、緩みそうになる口元を必死に抑えていた。
「凛りーん。ニヤニヤが止まってないよー?」
「――――ひゃっ!?」
不意に背後から声をかけられ、私はスマホを落としそうになった。
振り返ると、そこにはドリンクボトルを片手に持った一ノ瀬咲希が、すべてを見透かしたような邪悪な笑みを浮かべて立っていた。
「さ、咲希! 急に話しかけないでよ! びっくりするじゃない」
咲希は周りに他の部員がいないことを確認すると、
「にひひ、ごめんごめん。でもさ、今の凛りん。コートの上での『氷の女王』様とは、別人だったよ? さては、カズッチくんからの『愛のメッセージ』かなぁ?」
「ち、違うわよ! ただの相棒としての……業務連絡よ!」
「ふーん? 業務連絡でそんなに顔真っ赤にしちゃうんだ。凛りん、嘘つくの下手くそすぎー!」
咲希は私の肩をポンと叩くと、「あとで、じっくり聞かせてもらうからね!」と言い残してコートへと戻っていった。
……。
嫌な予感がする。
一ノ瀬咲希という軍師。彼女は私の幸せを願ってくれている最強の味方だけれど。
……同時に、私の「弱み」を突かせたら右に出る者はいない、最強の天敵でもあるのだから。
******
――夜。二十三時。
地獄のような三部練習を終え、お風呂と夕飯を済ませた私たちは、合宿所の六畳一間の和室にいた。
他の部員たちは疲れ果ててすでに爆睡している。
けれど。
私の布団のすぐ隣。暗闇の中で、一ノ瀬咲希だけはパッチリと目を見開いて、獲物を狙うハンターのように私をロックオンしていた。
「……咲希。……寝ないの?」
「寝るわけないじゃん! 今日は凛りんとカズッチくんが『正式に』どうなったのか、白状してもらうまで寝かせないよ?」
咲希は自分の掛け布団を私の布団に重ねるようにして潜り込んできた。
……。
近い。女子校ノリのこの距離感、普段なら気にならないけれど。今の私には、自分の心拍数が筒抜けになりそうで怖かった。
「……。……。別になにもない……。ただ、その。……。……付き合うことに、なっただけだし」
「――――っ!!!」
咲希が叫びそうになるのを、私は音速で彼女の口を掌で塞いで阻止した。
「静かに! みんな起きちゃうでしょ!」
「んぐっ……! ……ふぅ。ごめん。でも、やっぱり! 合宿の夜は恋バナに限りますな〜。ほら、凛りん。咲希にだけは教えて。どっちから? どこで? どんな言葉で!?」
……。
…………。
私は、暗闇の中で天井を見上げた。
あの夜。展望台。打ち上げ花火。
「親友は卒業だ。俺の彼女になってくれ」
一真が、私の肩を掴んで、真っ直ぐに私の目を見て言ってくれたあの言葉。
そして、その後の……。
「……一真から。夏祭りの花火の時に。見晴らしの良い場所で……『好きだ』って。……。……言われた」
「ひゃあぁぁぁ……! カズッチくん、やるじゃん! 騎士サマ、ついに剣を抜いたんだね!」
咲希は枕をポカポカと叩きながら、自分のことのように喜んでくれた。
「で? で!? その後は? キスとかしたの? 手は? 抱っこは!?」
「……したわよ」
「え、どれを!?」
「…………手も繋いだし。……抱っこ、っていうか。……キス、も。……一回だけ」
私が蚊の鳴くような声で白状すると、咲希は文字通りフリーズした。
そして、みるみるうちに瞳を潤ませて、私の手をぎゅっと握り締めてきた。
な、なんで泣いているんだこの子は。
でも本当にいい子なんだろうな。改めてこの子が親友で良かったと思う。
「…………凛りん。……。よかった。……本当によかった。……。……あの子、あんなに不器用だったのに。……ちゃんと、凛りんを幸せにしてくれたんだね」
「うん。……一真はね。……。……。……すごく、……優しいの」
私は、一真の大きな掌の熱を思い出しながら、微笑んだ。
三年前。ボイチェンの声に恋をしていた頃。
こんな風に、親友に自分の幸せを報告できる日が来るなんて、思ってもみなかった。
けれど。
幸せな話をしているはずなのに。
私の胸の奥に、ほんの少しだけ、チクリとした「小さな棘」が刺さっていることに、私はまだ気づいていなかった。
それから少しの間白状を終えると、咲希はこんなことを言い出した。
「にひひ! それにしても凛りん、意外と積極的だよねぇ」
「えっ? ……私が?」
「そうだよ! 話を聞くに、ネカフェの時は凛りんから『休憩』って言って一真くんにくっついたんでしょ? 」
咲希は、何の気なしに、いたずらっぽく笑って続けた。
「凛りんってば、カズッチくんのこと大好きすぎて、自分からグイグイいっちゃうんだもん。カズッチくん、幸せ者だなぁ。凛りんみたいな美少女に、あんなに甘えられちゃってさ!」
「………………え?」
咲希の言葉が。
冷房の風よりも冷たく、私の心臓を撫でていった。
自分から。
甘えられた。
……。
思い返してみれば。
あのハイタッチの時。
手を握った時。
ネカフェで肩を預けた時。
そして、一真の家で抱きついた時。
……。
全部。
全部、私からだ。
一真は、告白はしてくれた。
でも、それ以外のスキンシップや、甘い言葉や、わがままは。
いつだって、私が彼に押し付ける形で始まっていた。
(……………一真は?)
――一真は、どう思ってるんだろう。
私が一方的に「相棒」として。あるいは「彼女」として。
甘えまくっているのを。
あいつはただ、「騎士」としての義務感で受け止めているだけなんじゃないか?
三年間、私が「ハル」として彼に頼り続けてきたから。
その延長線上で。
彼はただ、私を見捨てられないから、優しくしてくれているだけなんじゃないか。
本当はそうじゃないのに。そんなことないのに。
考えれば考えるほどそんな気がしてしまう。
「…………。……。ねえ、咲希」
「んー? なあに、凛りん」
「……。……。私ばかりが、……。……好きなんじゃ、ないかな」
「え?」
咲希が、きょとんとして私の顔を見た。
私は、布団を鼻先まで引き上げると。
暗闇の中で、一瞬だけバイブが震えたスマホを、悲しい目で見つめた。
【一真:そろそろ寝たか? 明日も早いだろ。おやすみ】
……。
短くて。
誠実で。
けれど、どこか「一線」を引いているような、彼の言葉。
(……カズの声が、聞きたい。……データ(文字)だけじゃなくて、……一真の方から、『好きだ』って。……一真の意志で、……。私を、抱きしめてほしいよ……)
一度芽生えてしまった不安は。
合宿所の湿った空気の中で。
毒属性のデバフのように、私の心をじわじわと蝕み始めていた。
「………おやすみ、咲希」
「え、あ……うん。おやすみ、凛りん。……(……あれ、私、余計なこと言っちゃったかな?)」
咲希の心配そうな視線を感じながらも。
私は、自分の小さな拳を胸元で握り締め。
一週間ぶりに会えるはずの、大好きな相棒の顔を思い浮かべて。
期待よりも「不安」と一緒に、重い眠りへと落ちていった。




