第86話 最高でわがままな彼女
猫カフェ特有の、柔らかい光が差し込むソファ席。
俺の膝の上では、一匹のマンチカンが「ゴロゴロ」と喉を鳴らし、幸せそうに目を細めて丸まっていた。小さな命の鼓動と、じわじわと伝わってくる確かな温もり。
けれど、俺の心臓をこれほどまでに狂わせているのは、膝の上の毛玉ではない。
「…………じーっ」
すぐ隣から、突き刺さるような視線を感じる。
東雲凛。学校では誰もが羨む「天使」であり、俺の三年来の相棒「ハル」でもある彼女が、信じられないことに、俺の膝の上にいる猫を相手に本気で頬を膨らませていた。
「凛、どうしたんだよ。猫、怖がってるぞ」
「怖がってないもん。……羨ましいなって思ってるだけだもん」
凛は膝を抱えて、さらに俺の方へと身体を寄せてきた。
肩が触れ合い、彼女の体温がダイレクトに伝わってくる。薄手のブラウス越しに感じるしなやかな感触に、俺の理性はさっきから綱渡り状態だ。
「……猫が羨ましいのか?」
「そうだよ。だって、一真の膝の上。……そこ、私の特等席なんだもん。それなのに、その子が当たり前みたいな顔して独占してるのが、なんか……面白くない」
突然やってくる、更なる独占欲。
俺は慌てて前を向き、猫の背中を無意味に高速で撫でた。
凛はそんな俺の動揺を楽しむように、クスクスと喉を鳴らして笑う。
「にひひ。一真、分かりやすすぎ。耳まで赤くなってるよ?」
「……。うるせー。お前が変なこと言うからだろ」
「変なことじゃないよ。本音だもん。……ねえ、一真」
凛は甘えるように少しだけ体を寄せてきた。
「……なんだよ」
「……幸せだね。こうして、二人で並んで座って。本物の猫さんに囲まれて。……隣には、一真がいて」
凛の声は、いつになく優しくて、温かかった。
学校での「東雲さん」としての張りのある声でも、ボイチェンを通したハスキーな少年の声でもない。
俺と付き合い始めてから、彼女が時折見せるようになった、等身大の「凛」の声。
「三年前。私が『ハル』になったとき。……まさか、自分がこんなに幸せな夏休みを迎えるなんて、思ってもみなかったよ」
「……俺もだよ。お前が女の子だって分かったとき、人生終わったと思ったしな。それが今じゃ……こうして、お前と猫カフェにいるんだから、人生何があるか分かんねーわ」
「にひひ。人生終わったとか失礼だなー! まぁ、そのあと『綺麗だ』なんて言って告白してきたのは一真の方だけどね?」
「……ああ、そうだよ。俺がお前に惚れたんだ。文句あるか」
俺が開き直って答えると、凛は一瞬だけ驚いたように目を見開き。
それから、これまでのどの瞬間よりも深く、愛おしそうに目を細めた。
「――――ない。文句なんて、一個もない。……大好きだよ、一真」
彼女は小さな声で囁いた。
膝の上の猫が「ふにゃあ」と欠伸をする。その平穏な空気が、俺たちの間の「特別」を、より鮮やかに描き出していた。
「……ねえ、一真。一つ、ワガママ言ってもいい?」
「……。今さら何だよ。もう十分言ってるだろ」
「だーめ。今日の私は『彼女』なんだから、もっと言わなきゃ損でしょ。……あのね。お店出た後も。……駅まで。……ずっと、手を繋いでてほしいの」
凛は、俺のシャツの袖を指先でぎゅっと握りしめた。
「学校じゃできないもん。海斗くんとかクラスメイトの前じゃ、まだ『他人のふり』しなきゃいけないから。……だから、二人っきりの今だけは。……。一真が私の彼氏だってことを、身体で感じていたいんだよ」
「………………」
心臓が、今日何度目かわからない爆発を起こした。
この美少女は、時折こういう、相棒ならではの「遠慮のなさ」を「恋心の熱」に変えてぶつけてくる。
「……。分かったよ。お前が嫌だって言っても、離さねーよ」
「にひひ。合格! さすが私の騎士サマ!」
凛は満足そうに笑うと、俺の膝の上の猫を一緒に撫で始めた。
二人の手が、猫の柔らかい毛の上で重なる。
猫の鳴き声。
遠くで響く食器の音。
そして、お互いの鼓動。
俺は、隣で幸せそうに微笑む凛の横顔を見つめながら。
この時間が、ネトゲのどんな報酬よりも尊いものだと、改めて確信していた。
******
一時間後。
受付を済ませ、店を出た瞬間、夏の熱い風が俺たちの頬を撫でた。
猫たちの楽園から、現実の世界へと戻る境界線。
けれど、俺たちの間には、もう境界線なんて残っていなかった。
「……ほら、ハル。手」
俺が右手を差し出すと、凛はパァッと顔を輝かせた。
「にひひ! 待ってました!」
彼女は迷いなく、俺の手をぎゅっと、指を深く絡める『恋人繋ぎ』で握り締めてきた。
駅ビルの人混み。
すれ違う人々が、東雲凛の美貌に足を止め、隣を歩く俺の姿を見て驚きの声を漏らす。
「ねえ、見て。あのカップル……」
「女の子、モデルかなんか? めちゃくちゃ可愛くない?」
そんな囁きが聞こえてくる。
以前の俺なら、「俺なんかが東雲さんと……」と卑屈になって、繋いだ手を解こうとしていただろう。
けれど今は。
俺の掌に伝わってくる、凛の少し汗ばんだ、けれど熱くて確かな体温が。
そして、俺の腕にしがみつくようにして楽しそうに笑う、ハルの存在が。
俺に、この場所から逃げない勇気をくれていた。
(……見ろよ、世界。……この最高に可愛くて、最高にわがままな相棒を)
俺は心の中で、誰にともなく勝利宣言を叩きつけた。
「……ねえ、一真。また、来ようね? 猫カフェ。次は、私がカズの膝の上を死守するから!」
「……お前、本気で猫と張り合うつもりかよ」
「にひひ。当たり前じゃん! 相棒の特等席は、誰にも譲る気ないもん!」
彼女はそう言って、俺の腕を強く引き寄せた。
学校では、他人のふり。
けれど、この陽光の下で。
俺たちは、三年間積み上げてきた「信頼」という名の種に。
「恋」という名の、あまりにも甘くて眩しい花を咲かせようとしていた。
「次は、負けないようになっハル」
「にひひ。うるさいなぁ!」
俺たちは笑い合い、繋いだ手を一度も解くことなく。
真夏の熱気が充満する、さらなる賑わいの中へと足を踏み出していった。




