第87話 もっともっと
駅ビルの喧騒を背後に、俺たちは沈みかけた夕日に照らされる歩道橋の上にいた。
八月の夕暮れ。空は燃えるような茜色から、深い紫へとゆっくりとグラデーションを描き始めている。
猫カフェを出てから約十分。俺たちの右手と左手は、一度も離れることなく、指を深く絡めたまま繋がれていた。
「ふぅ。暑いけど、なんか……いい匂いがするね。夏の匂い」
凛が繋いでいない方の手で少し乱れた前髪を払いながら、空を仰いだ。
逆光に照らされた彼女のシルエットは、どこか現実離れした美しさがあって。
けれど、俺の掌に伝わってくる少し汗ばんだ熱が、彼女が今、間違いなく俺の隣にいる「一人の女の子」であることを証明していた。
「そうだな。でも、お前、さっきから一歩歩くたびに顔が『にひひ』って笑ってるぞ。猫の余韻、引きずりすぎだろ」
「にひひ! いいじゃん! だって本当に幸せだったんだもん。一真の膝の上のあの子、最後は私のこと見て『フンッ』て鼻鳴らしたんだよ? 絶対に私の勝ちを認めたんだって!」
「本当にお前ってやつは……」
俺が呆れ顔で答えると、凛は「にひひ!」と今日一番のハルとしての勝ち誇った笑みを浮かべ、俺の腕にさらに身体を寄せてきた。
薄手のブラウス越しに伝わってくる彼女の体温が、俺の理性をじわじわと削っていく。
ふと、駅前のロータリーにあるカフェのテラス席が目に留まる。
夏休みの休日、街は多くの人で賑わっているが、俺たちの周りだけはどこか静かな空気が流れている気がした。
「凛。なんか冷たいもんでも飲んでいくか? 電車、まだ時間あるだろ」
「あ、賛成! 私、さっきから喉カラカラだったの。ねえ一真、あそこの期間限定スムージー、二人で半分こしよ?」
俺たちはパッションフルーツのスムージーを一つ買い、近くのベンチに座った。
交互にストローを吸い、甘酸っぱい冷たさが体に染み渡るのを待つ。沈黙が流れる。けれど、それは気まずいものではなく、今日という日がもうすぐ終わってしまうことへの、静かな名残惜しさだった。
ふと、ストローの先に残る彼女の唇の感触を意識してしまい、俺は喉を鳴らした。付き合う前なら「間接キスだ」と騒いでいたはずなのに、今はそれを当たり前のようにやってのけている自分たちに、少しだけ驚く。
「……ねえ、一真」
不意に、凛がスムージーのカップを見つめたまま、真剣なトーンで切り出した。
「お盆休みなんだけど……お姉ちゃんとかから聞いたりした?」
「いや、まだ何も」
そういうと、一度凛はため息を吐いてから話し始めた。
「あのね、私、お母さんの実家に帰省しなきゃいけないの。おじいちゃんたちが楽しみにしてるから、どうしても断れなくて。……今年は六日間くらいなんだけど、そこから続けてバスケ部の強化合宿があるから。その、合計で九日間、一真に会えなくなっちゃうんだ」
「…………九日、か」
胸の奥が、冷たい氷水を流し込まれたようにヒヤリとした。
九日間。今の俺たちにとって、九日間顔を合わせられないというのは、想像以上に重い現実だった。
三年前。ただのネトゲの相棒だった頃なら、ログインすれば会える、声が聞ける。それだけで十分だった。けれど、一度こうして「体温」と「隣にいること」を知ってしまった俺たちにとって、画面越しだけの時間は、あまりにも過酷な縛りプレイのように感じられた。
「夜、ログインはできると思う。でも、おじいちゃんの家、電波あんまり良くないからボイチャも不安定かもしれないし……。なにより、一真に触れないのが、こんなに寂しいなんて思わなかったよ」
凛は、俺のシャツの袖を指先でぎゅっと握りしめた。
その指先は、微かに震えている。
「ねえ、一真。……帰りたくないな。もっと、こうしていたい」
「――――っ!?」
不意打ちの、剥き出しのデレ。
彼女は俯き、消え入りそうな声で続けた。
「学校じゃ他人のふり。LIMEじゃ名前呼び。でも、こうして手を繋いで、笑い合えるのはこの時間だけなのに。これから九日も一真に会えないなんて、寂しすぎて私、どうにかなっちゃいそうだよ」
「…………凛」
俺は、スムージーのカップを傍らに置くと、空いた右手で彼女の握っている手の上から、そっと包み込んだ。
「逃げねーよ。九日間会えないなら、その分、今日はいっぱいお前のワガママ、聞いてやるから」
「……本当?」
「ああ。お前の気が済むまで、隣にいてやるよ。……俺だって、同じだしな」
「…………にひひ。バカ一真。そんなこと言われたら、離したくなくなっちゃうじゃん」
凛はしっかりと俺の手を握り直し、深呼吸を繰り返した。
九日間の別れを前に、俺たちの心は、これまでのどんな攻略会議よりも切実に、お互いを求め合っていた。
「ねえ、一真」
「なんだよ」
「帰省が終わったら……もう一回、デートしてね。その時は、一日中私を甘えさせてよ? 私が『もういい』って言うまで、一真を独占させてよね」
「……ああ。約束だ。……次は俺から、とっておきの場所へ連れてってやるよ」
俺が力強く答えると、凛は顔を上げ、最高の笑顔を見せた。
夕闇が、街を優しく包み込んでいく。
駅の改札へと歩く帰り道。
繋いだ手のひらは、さっきよりもずっと熱く、そして強固に結ばれていた。
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凛視点
駅のホーム。電車に乗り込み、窓の外で手を振る一真を見送る。
ドアが閉まり、彼の姿が見えなくなっても、私は自分の左手に残るあの大きな掌の感触を、大切に抱きしめていた。
(……あーあ。一真のバカ。九日間も会えないなんて、そんなの、私の方が耐えられるわけないじゃん)
車内は冷房が効いているはずなのに、頬の熱が全然引いてくれない。
私はスマホを取り出し、今日猫カフェで撮った、唯一のツーショットを眺めた。
一真の肩に頭を預けて、二人で笑っている写真。
画面越しに声を聞いていた三年前。
あの頃の私は、この写真の中の私が、こんなに幸せそうな顔をしているなんて、想像もしていなかった。
「カズ」という相棒を、私は自分の手で、「一真」という恋人に変えた。
その対価が、この胸を締め付けるような寂しさなのだとしたら、私は喜んでそれを受け入れよう。
(……一真。……一真、一真、一真)
心の中で、彼の名前を何度も繰り返す。
九日間の空白。
それは、私にとって「一真がいない世界」の恐ろしさを再確認する時間になるのだろう。
でも、だからこそ。
次に会える時間が、もっともっと、甘くて熱いものになることも分かっていた。
【凛:無事に乗ったよ。ねえ、一真。帰省した後のデート、覚悟しててね】
送信ボタンを押して、私は窓に映る自分の真っ赤な顔を隠すように、カバンを抱きしめた。
夏は、まだ始まったばかり。
けれど、九日間の離れ離れという試練を前に、私の「恋」という名のステータスは、もう限界を超えてオーバーフローしてしまいそうだった。
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一真視点
見送った電車のテールランプが、暗闇の中に消えていく。
俺は一歩、夜の街へと踏み出した。
九日間。
きっと俺は、毎日スマホの画面を見つめて過ごすことになるだろう。
でも、不思議と不安はなかった。
あいつのあの、泣きそうなほど切実な「帰りたくない」を聞けたから。
(……待ってろよ、凛。九日分の寂しさ、次のデートで全部、お釣りが出るくらい埋めてやるからな)
俺はスマホの裏側に貼られたドラゴンのシールをそっと指先でなぞり、走り出した。
騎士は、お姫様が帰ってくる場所を守り抜かなければならない。
俺たちの「真夏のクエスト」は、この一時的な別れを経て、さらに最高潮へと向かっていく。




