第85話 姫と猫カフェ
日曜日、午前十一時。
隣町の駅ビル。待ち合わせ場所に向かう俺の心臓は、昨日の夜の電話を引きずりながら高い回転数を維持していた。
そして到着。少し待っていると、
「――一真! お待たせ!」
聞き慣れた声に顔を上げると、そこには清楚な白のノースリーブブラウスに、淡いグリーンのロングスカートを合わせた凛がいた。
さらさらとした黒髪は今日は下ろされていて、風になびくたびに爽やかな石鹸の香りがこちらまで届いてくる。
「おはよ。……その、今日も綺麗だな」
俺が少し照れながら本音を伝えると、凛は「にひひ」と相棒らしい笑みを浮かべ、俺の腕を軽く小突いた。
「合格! さすが一真、エスコートの準備は万端みたいだね。……それで? 例の場所、もう予約してくれた?」
「ああ。五階だ。……行くか」
俺たちは並んでエスカレーターに乗り、目的の場所へと向かった。
到着したのは、オープンしたばかりだという『キャット・テラス』。
木目調の温かみのある内装に、ガラス越しに見えるのは、思い思いの場所でくつろぐ猫たちの姿だ。
入店の手続きを済ませ、手洗いを終える。
その間、凛はずっとソワソワと落ち着かない様子で、まるでレイドバトルの開始を待つアタッカーのように、視線を店内の奥へと向けていた。
「……凛、そんなに力入れるなよ。猫、逃げるぞ」
「わかってるって! でも、本物だよ? 動画じゃなくて、動いてる本物の猫さんたちがこんなにたくさん……!」
そして、二重扉が開けられ、俺たちが一歩足を踏み入れた、その瞬間だった。
「…………っ!!」
凛が、その場に凍りついたように立ち止まった。
目の前には、キャットタワーの天辺で丸くなる茶トラや、ソファの隅で毛繕いをするアメリカンショートヘア。
一匹の白猫が、トテトテと凛の足元に寄ってきて、彼女のロングスカートの裾に鼻を寄せた。
「あぁぁ…………可愛い。……うそ、幸せすぎる……」
凛の声が、これまでに聞いたことがないほどふにゃふにゃに蕩けていた。
彼女はそのまま、ゆっくりと膝をついて床にしゃがみ込む。
学校での、凛とした「東雲凛」のオーラはどこへやら。
彼女の瞳は完全に「獲物を見つけた」……いや、「恋に落ちた」少女のそれだった。
「カズ、見て! 見てよ、この子の肉球、ピンク色だよ! 奇跡じゃない!? 天才じゃない!?」
「……落ち着け。肉球がピンクなのは珍しいことじゃないだろ」
「いいの! 目の前にあるのが大事なの! ……あぁぁ、こんにちは。私は凛だよ。怖くないよ、悪い人じゃないよ……」
凛は赤ちゃんに話しかけるような甘い声で、白猫の頭を指先でそっと撫で始めた。
その瞬間の、彼女の表情。
俺は、隣に立っていられなくなるほどの衝撃を受けた。
目を細め、口角を緩ませ、心底愛おしそうに猫を見つめるその横顔。
学校で見せる「誰にでも優しい天使」の笑顔とは違う。
あれは、相手にどう思われるかなんて一切考えていない、彼女の心の奥底にある純粋な「優しさ」がそのまま形になったような、そんな柔らかい表情だった。
(……ヤバい。これ、俺の心臓が持たないわ)
俺は慌てて視線を逸らし、適当に猫じゃらしを手に取った。
けれど、俺の動揺をよそに、凛の「猫好き」はさらに加速していく。
「にひひ! カズ、勝負だよ! どっちが先に、あっちの黒猫さんに懐いてもらえるか!」
凛はいつの間にか『ハル』としての負けず嫌いを発動させ、猫じゃらしを手に取ると、俊敏な動きで猫たちと遊び始めた。
「ほらほら、こっちだよ! 隙あり! にひひ、今の回避性能高いね、君!」
彼女は床に這いつくばるのも厭わず、猫たちと同じ目線で笑い、燥いでいた。
さらさらとした黒髪が乱れるのも気にせず、本気で猫と戯れる彼女の姿は、まるで小さな子供のようで。
でも、時折見せる「ハル」としての生意気な笑みが、彼女が間違いなく俺の相棒であることを教えてくれる。
「……凛。お前、それ完全に『挑発』入れてるだろ。もっと優しく動かせよ」
「うるさーい! これが私のプレイスタイルなんだもん! ……あ、カズ! その子、お膝に乗る気だよ!」
凛が指差した瞬間、一匹のマンチカンが、俺の膝の上にぴょんと飛び乗ってきた。
丸まって、喉をゴロゴロと鳴らし始める。
「……乗ったな」
「………………」
さっきまであんなにはしゃいでいた凛が、急に静かになった。
彼女は俺の膝の上でくつろぐ猫をじーっと見つめ、それから、少しだけ頬を膨らませて俺を見た。
「……いいな。……その子」
「……。羨ましいのか?」
「……羨ましい。……そこ、私の特等席なのに。猫さんに先を越されちゃうなんて……」
「――――っ!?」
凛は不満げに呟きながらも、俺の腕のすぐ隣に自分の身体を寄せてきた。
ふわりと、彼女の体温と甘い香りが、猫の温もりと一緒に俺を包み込む。
相棒のハルかと思いきや、突然の独占欲を見せてくる、俺のお姫様。
凛は俺の膝の上の猫を一緒に撫でながら、小さな声で囁いた。
「……ねえ、一真」
「なんだよ」
「ありがと。私、こんなに笑顔になったの久しぶりかも。……。カズが、私の『一番好きなもの』を知ってくれて、一緒にそれを楽しもうとしてくれて……私嬉しい」
凛は、膝の上で目を細める猫に指先を絡めながら、俺の方を向いた。
そこには、これまで俺が見てきたどの瞬間よりも、柔らかくて、眩しくて、愛おしい……
俺の彼女としての、最高の笑顔があった。
「……ああ。お前がそんなに喜んでるなら、俺も、来た甲斐があったよ」
俺は空いている左手で、凛の頭を、猫を撫でるのと同じくらいの優しさで、そっと撫でた。
「――――っ!!」
凛は一瞬驚いたように肩を揺らしたが、すぐに幸せそうに目を細め、ニコリと微笑んだ。
猫の鳴き声。店内の穏やかなBGM。
そして、重なり合う二人の呼吸の音。
学校では、ただのクラスメイト。
ギルドでは、最強のペア。
けれど今、この猫たちに囲まれた静かな空間で。
これからの夏休みのすべてを、この「天使」と一緒に攻略していく覚悟を、改めて固めるのだった。
「にひひ! カズ、心臓の音、猫さんより大きいんじゃない?」
「…………うるせー、バカ凛」
俺たちは笑い合い、どちらからともなく、さらに深く寄り添った。




