第75話 ビデオ通話
俺は、デスクに置かれたスマホが短く震えるのを待っていた。
いや、正確には「待ち構えていた」という方が正しい。
ロック画面に浮かび上がる、『凛』からのメッセージ。
【凛:一真! 起きた? 】
【凛:私はもうお洗濯も終わらせて、完璧な夏休みモード!】
その一文字一文字。
それだけで俺の心拍数は、ネトゲの最高難易度レイドに挑む前夜のように跳ね上がる。
「親友」という便利なラベルを剥がしてから、まだ数日。文字のやり取り一つとっても、そこには「相棒」としての気安さと、「恋人」としての甘い緊張感が同居していた。
【一真:起きてるよ、凛も家事やるんだな】
一瞬、『東雲さん』と打ちそうになって、慌てて消した。
あの日、展望台で彼女に言われた「一真の特別として、隣にいてほしい」という言葉。それを思い出すたびに、俺は自分の不器用な指先にさえ、彼女の名前を呼ぶ許可を出し渋っていることに気づく。
【凛:当たり前でしょ! 私だって普通の女子高生なんだから】
【凛:ねえ、一真】
【一真:ん?どうした?】
【凛:メッセージ打つの大変だし、ビデオ通話していい?】
……!!
ビデオ通話。
その単語を見た瞬間、俺は跳ね起きるようにして自分の格好を確認した。
寝癖だらけの髪。首元がよれかけた、いつもの部屋着用Tシャツ。
「……っ。ま、待て。五分……いや、三分待て!!」
誰に聞かせるでもない叫びを上げながら、俺は音速で髪を整え、洗面所に駆け込んだ。顔を洗い、昨日双葉に「これならマシ」と言われたシャツに着替える。
(……。なんで俺、画面越しに会うだけなのに、こんなに必死なんだ……?)
自嘲気味に笑いながらも、俺の指は迷いなく『いつでもいいぞ』という返信を送っていた。
直後、画面が切り替わる。
着信音と共に、スピーカーから響いたのは、あの鈴を転がすような地声だった。
『――あ、繋がった! 一真、おはよー!』
画面いっぱいに映し出された彼女の姿を見て、俺は思わず息を呑んだ。
凛は自分の部屋にいるのだろう。少しだけ窓からの光が差し込む明るい室内。
彼女は大きめの白いオーバーサイズTシャツに、髪をざっくりと後ろでまとめていた。首元には微かな汗が光り、お風呂上がり……いや、家事の後特有の、少しだけ火照った、無防備な姿。
「……。……おはよう、凛。お前、その格好……」
『にひひ。家だもん、いいでしょ? それより一真、なんか小綺麗にしてない? さては私にカッコいいところ見せようとして、今、慌てて着替えたなー?』
「……うるせー。……。お前が急にかけたいとかいうからだろ」
画面越しの彼女は、学校で見せる「完璧なアイドル」でも、オフ会で見せた「背伸びした美少女」でもない。
三年前から俺だけが知っていた、あの最高に生意気で、けれど世界で一番信頼できる「相棒」の表情だった。
けれど。
その瞳の中に宿る熱は、三年前とは決定的に違っていた。
『……。……。……ねえ、一真』
凛の声が、少しだけトーンを落とす。
彼女はスマホを自分の顔に近づけた。画面いっぱいに広がる、彼女の白い肌と、長く、濡れたような睫毛。
『……。……。夏休み、……。始まったね』
「……ああ。……そうだな」
『……。……私たち、付き合ったんだよね。……。……あの花火の下でさ。……。……。夢じゃないんだよね?』
少しだけ不安そうに首をかしげる彼女。
そんな顔をされたら、もう「相棒」なんていう逃げ道には戻れない。
俺は、モニター越しの彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、はっきりと答えた。
「……ああ。夢じゃない。……俺たちは、……。……恋人だ。凛」
『――――っ。……にひひ。……合格! さすが私の騎士サマ、言うようになったじゃんっ!』
凛は真っ赤になった顔を隠すように、画面から一度フェードアウトしてしまった。
……。
かわいい。
ボイスチャットのノイズ越しに聞いていたあの声が、今はこうして、愛おしさを伴って俺の鼓動を狂わせる。
『――よしっ! じゃあさ、一真。今日、さっそく夏休み初日のミッション、発動してもいい?』
再び画面に戻ってきた凛は、どこか何かを企んでいるような、イタズラっ子の顔をしていた。
「ミッション?」
『うん! 私の家 、遊びに来ない?』
「――――えっ!?」
俺の声が、ひっくり返った。
凛の家。それは、佐藤一真というモブにとって、ある意味ではラスボスの居城よりも踏み込みにくい、不可侵の聖域だ。
「……。い、いや……流石に急すぎないか? ご両親とか……」
『大丈夫だよ! 今日、お父さんもお母さんも仕事で遅いし。……。お家でゆっくり夏休みの計画立てたいなって思って。……。……二人で。……並んでログインもしなきゃだし、……月一のギルドレイドに向けた作戦会議も……』
凛は、指を折りながら理由を並べる。
けれど、最後に彼女はボソッと、小声で付け加えた。
『……本当は、理由なんて何でもいいの。……。……ただ、一真と一緒にいたいだけ。……。……。だめかな?』
……。
…………。
断れるわけがなかった。
「……。わかった。……。……お邪魔させてもらうよ」
『やったぁ!! にひひ、待ってるからね! あ、そうだ。……一つだけ注意』
凛が不意に、少しだけ真面目な……というより、困り果てたような顔をした。
「……注意?」
『今、私のお姉ちゃんが大学から帰省してて。……東雲雫って言うんだけど。……。……あのね、お姉ちゃん、ちょっと……性格に難があるっていうか、人を弄るのが趣味っていうか……』
「…………性格に難?」
『一真のこと、すごく会いたがってるんだよね。……。……変なこと言われても、本気にしないでね? 私、本当にお姉ちゃんには勝てないから……』
凛がこれほどまでに弱気になる相手。
あの東雲凛が「勝てない」と言い切る存在。
一ノ瀬咲希とはまた違う、強大な「何か」が、彼女の家の扉の向こう側に潜んでいることを、俺は予感せずにはいられなかった。
「……とりあえず、なんというか覚悟はしておくよ。……。……。お前の家族だもんな、挨拶くらいさせてもらうわ」
『うん。……ありがと、一真。……にひひ。……。……楽しみにしてるからね。……。……。私の家で、待ってるから』
ビデオ通話が切れる。
静まり返った部屋。
俺は深く溜息を吐き出すと、デスクにあるドラゴンのシールを見つめた。
この一ヶ月。
俺たちは「親友」という境界線を越え。
大人のオフ会を乗り越え。
夏祭りの夜を越えてきた。
その集大成としての、夏休み。
(……ギルドの月一レイドの報告か。……ゲンゾウさんたち、なんて言うかな)
凛が先程一瞬出した話。
さすがにあれほど背中を押してもらっておいて報告を何もしないのは良くないだろう。
「付き合い始めました」という報告をした瞬間の、マリエさんの絶叫が今から想像できる。
けれど。
それよりも先に、俺には立ち向かわなければならない強敵(?)がいる。
「……お姉ちゃんか」
俺は、お祭り編で培ったほんの少しの自信を胸に。
彼女の家へと向かう準備を始めた。
七月の太陽は、どこまでも眩しく。
俺たちの新しい物語の始まりを、熱く、熱く、照らし続けていた。
「……頑張りますかね」
俺は、少しだけ浮ついた足取りで、部屋のドアを開けた。




