第74話 命懸けで
遂に学生にとっての聖域――「夏休み」がその幕を開けた。
窓の外からは、脳を直接揺さぶるような蝉時雨が降り注ぎ、カーテンの隙間から差し込む陽光が、すでに冷房の効きが甘くなり始めた部屋の温度をじわじわと押し上げている。
俺は、自分の部屋のベッドの上で、手元のスマホを壊れ物でも扱うような手つきで見つめていた。
【凛:一真、おはよ! ついに夏休みだね!】
【凛:起きたら教えてって言ったのに、もう起きてるかな? 】
【凛:私、楽しみすぎて六時に目が覚めちゃった笑】
「可愛すぎかよ……」
思わず一人呟いた。
画面を見つめる俺の頬が、どうしようもなく緩んでいく。
一週間前の夏祭り。あの日、打ち上げ花火の轟音に紛れて、俺たちは三年間守り続けてきた「親友」という仮面を脱ぎ捨てた。
東雲凛。学校一の美少女にして、ネトゲの最高の相棒。
俺たちは今、間違いなく『恋人』としてこの青空の下で繋がっている。
『一真:おはよ。俺も今起きたところだ。起きるの早いな』
これまでは「ハル」と呼び、学校では「東雲さん」と呼んで一線を引いていた。けれど今は、この掌の中の閉ざされた世界では、彼女は俺だけの「凛」なのだ。
その事実を噛み締めるたびに、心臓の奥が甘い熱で満たされ、思考がふわふわと浮き足立ってしまう。
「…………。お兄。顔がだらしない。見てるこっちが恥ずかしくなるからやめて」
背後から、呆れたような声が降ってきた。
振り返ると、そこにはパジャマ姿で腕を組み、ドアの隙間からこちらをジト目で見つめている妹の双葉がいた。
「……双葉。お前、いつからそこにいたんだよ。ノックくらいしろって」
「三回した。お兄が『可愛すぎだろ……』って呟いてるのも見てたし」
「……!?」
「お兄が自分の世界に入り込みすぎて、外の音が一切聞こえてなかっただけでしょ。……それで? 夏祭りからこっち、ずっとそのマヌケな幸せ面してるけど。……ついに、ちゃんと言ったの?」
双葉は自分のポニーテールをいじりながら、探るような瞳で俺を凝視した。
双葉にとって、東雲凛は中学時代のバスケ部の直属の先輩であり、今でも「一生ついていきたい女神様」として崇拝する対象だ。だからこそ、兄である俺との関係については、誰よりも敏感だった。
「……。何をだよ」
「とぼけないで。東雲凛さんと、ちゃんと『付き合って』って言ったのかって聞いてるの」
「………………」
俺は一瞬、言葉を詰まらせた。
相手はあの東雲凛だ。正直、自分でもいまだに「これは現実なのか」と頬をつねりたくなる瞬間がある。
けれど、もう「友達の話なんだけど」なんていう、自分を卑下した逃げ方はしないと決めたんだ。
俺はベッドから立ち上がり、少し照れくささを感じながらも、真っ直ぐに妹の目を見て告げた。
「……ああ。付き合い始めたよ。俺たちは……恋人だ」
……。
…………。
沈黙。
双葉は目を見開いたまま固まり、それからみるみるうちに顔を赤く染め上げると、その場にヘナヘナと座り込んだ。
「………………嘘。…………マジで? ……あの凛先輩と? ……。お兄、あんた……本当に、やったんだ」
「お前……驚きすぎだろ」
てっきりふーんって言われて流されて終わりかと思っていたが。
「だって!! 信じられないでしょ!! 私にとっては雲の上の、伝説みたいな存在なんだよ!? コートを走る凛先輩は、文字通り光り輝いてて……。その凛先輩が、よりによって……私の、この、ちょっとだけゲームが上手いだけの自慢のお兄と……っ」
双葉は顔を伏せ、膝を抱えて小さくなった。
不意に漏れた「自慢のお兄」という単語に、今度は俺の方が面食らってしまう。
「……双葉?」
「……凛先輩。あの日、お兄の部屋から出てきた時、本当に幸せそうに笑ってたから。……お兄なら、大丈夫かなって思ってたけど。……でも、いざ現実になると……なんか、悔しい……っ」
双葉は顔を上げると、俺の学習机をポカポカと叩いた。
「な、なんだよっ」
「……いい、お兄。よく聞きなさい」
「…………」
「……凛先輩はね、みんなが『完璧な東雲凛』しか見ないから、今思えば寂しそうにしてたのかもって思ったりもした。……それを、三年前からネット越しにずっとお兄は支えてた……そこだけは、お兄を尊敬してあげる」
「……。サンキュ」
「……だから。もし、お兄が少しでも彼女を泣かせたり、寂しい思いをさせたりしたら。……私、本当にお兄の全ゲームデータを消去して、お兄のPCを物理的に破壊するからね。……わかった?」
双葉の瞳には、強い覚悟と、兄への深い信頼が混ざり合っていた。
彼女なりの、最高のエール。
「…………わかっているよ。凛は、俺にとっての『特別』だ。誰にも渡さないし、もう二度と悲しい思いなんてさせない」
俺が力強く答えると、双葉は一瞬だけ驚いたように目を丸くし、すぐに照れ隠しでフンと顔を背けた。
「……ならいいわ。お母さんには、私から上手く言っておいてあげる。『お兄が女神様に釣り合うように修行に出た』って」
「普通に『付き合った』って言えよ!!」
双葉は「にひひ」と、どこか凛の笑い方に似た楽しそうな声を残して、部屋を出て行った。
扉が閉まる直前。
「……お兄! 凛先輩のこと、絶対、幸せにしなさいよ!」
その声だけは、いつもの毒舌が嘘のように真っ直ぐで。
俺は、熱くなった目頭を指先で押さえた。
一人になった部屋。
俺は、再びスマホに視線を落とした。
【凛:ねえ、一真? 既読ついたのに返信こない……! 寂しいじゃん!(。•́︿•̀。)】
【凛:おーい! 私の騎士サマ、照れすぎて爆発した?笑】
……。
一分、返信が遅れただけでこれだ。
あの「学園の女神」が、今、俺だけの前でこんなにも無防備な「甘え」をさらけ出している。
(……ああ。最高の夏になりそうだな、これ)
俺は幸せすぎる溜息を吐きながら、彼女への返信を打ち込み始めた。
【一真:ごめん、双葉に報告してた】
【一真:あいつ、お前のこと大好きだから。俺、命がけで幸せにしなきゃいけないらしい】
そう返事をすると、すぐに既読がつき、返事が来た。
【凛:にひひ! 双葉ちゃん、いい子だなぁ! 私の味方が増えちゃったね! 】
【凛:ねえ、今日はこれからどうする? 】
【凛:もう夏休みの計画、一真と立てたくてウズウズしてるんだけど】
画面の中で弾けるスタンプが、俺たちの新しいステージの始まりを告げていた。
三年前からの、デジタルの絆。
そして今、ここにある確かな体温。
それらがすべて溶け合って、俺たちは今、本物の「二人」になったのだ。
誰にも邪魔されない、俺たちの「真夏のログイン」を始める。
窓の外。
高く昇った太陽が、俺たちの新しい物語を、どこまでも眩しく照らし始めていた。




