第76話 まだしません
背中にはノートパソコンを入れたカバン。右手には、途中の駅ビルで散々迷って購入した、有名店の洋菓子セット。
俺は今、人生で最も高い「敷居」を跨ごうとしていた。
(……ここが、東雲家か)
辿り着いたのは、白を基調としたモダンなデザインの一軒家だった。
手入れの行き届いた庭、品の良い表札。学校で「天使」と崇められる東雲凛が育った場所として、これ以上ないほど説得力のある佇まいだ。俺は一度、自分のシャツの襟を正し、意決してインターホンを押した。
ピンポーン――。
静かな邸内に、チャイムの音が吸い込まれていく。
数秒後、バタバタと小走りの足音が聞こえ、重厚な玄関のドアが勢いよく開いた。
「――一真! いらっしゃい!」
そこに立っていたのは、さっきビデオ通話で見せたオーバーサイズTシャツ姿とは一変、清楚なサマーニットにロングスカートを合わせた、お出かけ仕様の凛だった。
「早かったね! 暑かったでしょ? ほら、早く入って」
「……ああ。お邪魔します。これ、お近づきの印に」
「にひひ、ありがと! さすが気が利くじゃんっ」
彼女は俺の手から紙袋を受け取ると、嬉しそうに目を細めた。玄関に入った瞬間、冷房の涼しい風と、凛の髪から漂うあの清潔感あふれる香りが俺を包み込む。
だが、その安らぎは長くは続かなかった。
「――おや。その子が、凛が三年前からずっと『私の騎士サマは世界一かっこいいの!』って電話で豪語してた、噂の一真くん?」
廊下の奥、リビングへと続く扉の横。
優雅に壁に寄りかかり、読書用らしき細いフレームの眼鏡を指で直しながら、一人の女性が微笑んでいた。
「――――っ!?」
一瞬、心臓が跳ね上がった。そこにいたのは、凛によく似た面影を持ちながら、さらに数年分の「成熟」を積み重ねたような、圧倒的な美貌の女性だった。
東雲雫。三年生。
ゆったりとしたベージュのブラウスに、知性を感じさせるタイトなパンツ。
彼女の瞳は、凛のような真っ直ぐな強さではなく、すべてを見透かした上で面白がっているような、深い余裕を湛えている。
(……一つ救いなのは、雫さんが俺と凛のネトゲでの関係を知ってくれていることか)
変に「どこで知り合ったの?」と追求されないのは助かる。だが、その安心感を上回るほどのプレッシャーが、彼女の笑顔からは放たれていた。
「お、お姉ちゃん! 何言ってんの! そんなこと言ってないし!」
「え~、凛ちゃんそうだったっけ~? 録音しておけば良かったかな~」
雫さんは、凛の慌てっぷりを柳に風と受け流すと、音もなく俺の目の前まで歩み寄ってきた。
「……初めまして。佐藤一真です。今日はお招きいただきありがとうございます」
俺が緊張でガチガチになりながら頭を下げると、雫さんは俺の目をじっと覗き込んできた。
ふわりと、少し大人びたビターな香水の匂いが鼻をくすぐる。
「…………ふぅん。……なるほどね」
「……? 何か……」
「いいえ。とっても『誠実』そうな顔をしてるな、と思って。凛ちゃんが安心できる理由、会って五秒で分かっちゃった」
雫さんは、俺のシャツの襟元を少しだけ整えるような仕草をしながら、いたずらっぽく微笑んだ。その立ち居振る舞いは、どこか人を惑わせる魅力に満ちている。
「あの……東雲さん」
「……凛ちゃんも東雲さんだよ? お姉さん、どっちのことを呼んだか分からないな~」
くすくすと肩を揺らしてからかってくる雫さん。
「雫お姉ちゃん、って呼んでいいからね?」
「雫お姉ちゃん……?」
「だって、一真くん、お姉ちゃんが欲しそうな顔してるもの」
「どんな顔ですか」
「――お姉ちゃん! 一真をからかうのはそこら辺にして!」
凛が真っ赤になって叫ぶと、雫さんは「ええ~、これからが楽しいところだったのにぃ~」とわざとらしく口を尖らせた。
「わかったわ。じゃあ、雫さんって呼んでね」
「わ、わかりました、雫さん」
「……ねえ、一真くん。凛ちゃんはわがままじゃなかった? 三年間、この子の『ハル』としての暴言に耐え続けてきたあなたの忍耐強さ、私、個人的に表彰してあげたいくらいだわ」
「ちょっと、お姉ちゃん! 一真に変なこと吹き込まないで!!」
凛が顔を真っ赤にして俺と雫さんの間に割って入った。
雫さんは「あはは」と鈴を転がすような声で笑うと、俺の肩を軽く叩いた。
「にひひ、冗談よ。……さあ、座って。一真くんが持ってきてくれたお菓子、今、最高に美味しい紅茶と一緒に淹れてあげるから」
雫さんはそのまま、流れるような動作でキッチンへと消えていった。
凛のいつもの「にひひ」は雫さん由来なのか。そんなことを思いながら、俺はようやく肺に溜まっていた空気を吐き出した。
「(……一真。ごめん。お姉ちゃん、ああ見えてすっごく過保護っていうか、人をからかうのが生きがいみたいな人なの……)」
凛が、俺の袖を掴んで申し訳なさそうに囁いてくる。
「(……いや、大丈夫だよ。すごく……綺麗な人だな、お前の姉さん)」
「(……っ! 綺麗だけど! 綺麗だけど、中身は私よりタチ悪いんだからね!?)」
そう言って頬を膨らませる凛。そのやり取りさえ、雫さんはキッチンからすべて把握しているようだった。
「――はい、お待たせ。一真くん、お砂糖は一つで良かったかしら?」
雫さんが戻ってくると、リビングの空気は一気に「大人のティータイム」へと塗り替えられた。彼女は迷いなく、凛と俺の対面の席に座る。
「ねえ、一真くん。凛が、学校で『他人のふり』をしてる時の顔。……あなたには、どんな風に見えてるの?」
雫さんは、ティーカップを傾けながら、鋭くも優しい瞳で俺を見た。それは単なる冷やかしではない。妹が「本当の自分」を預けている相手が、どれほど彼女のことを理解しているのかを、見極めようとする姉の目だった。
「……そうですね」
俺は少し考え、隣で緊張して固まっている凛の横顔を見た。
「東雲さんは――凛は、学校じゃ誰に対しても完璧な『天使』を演じてますけど。……。俺にとっては、あの不器用で、口が悪くて、負けず嫌いな……『ハル』としての彼女の方が、ずっと人間味があって。……なんていうか、目が離せない存在です」
凛が、持っていたカップをガチャンと鳴らした。
雫さんは一瞬だけ意外そうに目を見開き、それから、今までで一番柔らかい、本当の「お姉様」の笑みを浮かべた。
「…………ふふ。……合格。……というか、満点ね」
彼女は俺に向かって、小さくウインクしてみせた。
「凛ちゃん、よかったね。あなたの、一番見てほしかった場所を、ちゃんと見つけてくれる騎士サマで」
「…………うるさい、お姉ちゃん」
凛は真っ赤になって俯いたが、その指先は、テーブルの下で俺のシャツの裾を、ぎゅっと……幸せそうに握り締めていた。
最強の義姉、東雲雫。彼女は俺たちの関係を壊しに来た敵などではなかった。むしろ、誰よりも凛の幸せを願い、面白がりながらも温かく迎え入れてくれた「最高の共犯者」なのだ。
「さて、と。……お茶が終わったら、凛の部屋に行くんでしょ? 一真くん。凛の部屋、色々あるから楽しみにしててね?」
「……。覚悟はしてます」
なんだ覚悟はしてますって。
「にひひ! 楽しみだわ。……あ、あと」
ニヤリと雫さんは笑い、大人の余裕たっぷりに爆弾を放り投げてきた。
「そういうことは、もう少し経ってからするんだぞ?」
『そういうこと』。
二十歳を越えた大学生の姉が放つその言葉の意味を察し、俺はつい反射的に叫んでいた。
「――まだしません!」
「…………えっ!?」
隣で凛が絶句する。雫さんは「ま、まだ……!?」と目を丸くして、それから腹を抱えて笑い出した。
「いや、えっと違う! 凛、そういう意味じゃなくて……!」
焦れば焦るほど、場は混沌へと誘われていく。凛は顔から火が出そうなほど真っ赤になり、俺の腕をポカポカと叩いた。
「にひひ! あー面白い。最高のご馳走様ね、お二人さん」
雫さんの余裕たっぷりの送り出しに、俺はタジタジになりながらも。
東雲凛という少女を育んだ、この温かくて少しだけ刺激的な家庭の空気に、心地よい居場所を見つけ始めていた。
夏休みは、まだ始まったばかり。
俺たちの「恋人としてのログイン」は、最強の義姉という予想外のバフを得て、さらに賑やかに動き出そうとしていた。




