第77話 いつかは、でも今はまだ
雫さんの「にひひ」という楽しげな笑い声を背中に浴びながら、俺たちは逃げるようにして階段を登った。
そして二階にある彼女の部屋の前に辿り着く。
「……ここ、だから」
凛が少し掠れた声で言い、ドアノブに手をかけた。
ガチャリ、と扉が開く。
「……お邪魔します」
一歩足を踏み入れた瞬間、俺の鼻腔をくすぐったのは、リビングで嗅いだものよりもずっと濃密な、凛自身の香りと石鹸の匂いが混ざり合った「女の子の部屋」の空気だった。
白とパステルブルーで統一された清潔感のあるインテリア。ベッドの上には可愛らしいクッションが並び、本棚には学校の教科書と一緒に、俺も読んでいる漫画の単行本が整然と並んでいる。
けれど、その一角だけが異様な「威圧感」を放っていた。
部屋の隅に鎮座する、L字型の大きなデスク。
そこには三台の巨大なモニターと、虹色に淡く発光するゲーミングキーボード。
そして、三年間使い込まれてグリップが少し削れた、あのコントローラー。
(……ここが、ハルの本拠地か)
学校での完璧な「東雲凛」と、ネットでの最強の相棒「ハル」。
二つの顔が完璧に同居したその空間に、俺は言いようのない感動と、そして——。
「…………っ」
背後でドアが閉まる音。
完全な密室。
さっき一階で雫さんに投げかけられた、あの言葉が、呪文のように脳内で再生される。
『――そういうことは、もう少し経ってからするんだぞ?』
俺が反射的に返してしまった「まだしません!」という言葉の残響が、今のこの沈黙を耐え難いほどに甘く、そして気まずいものに変えていた。
「……。一真、そんなに立ったままだと疲れるよ。……。そこに座って?」
凛が指差したのは、ベッドの横にある毛足の長いラグの上だった。彼女自身はベッドの縁に腰を下ろし、所在なさげに自分の膝を抱える。
「……ああ。……お邪魔してるわ」
わけのわからない返事をしてしまった。俺は座り、何気なく壁の時計を見た。秒針の刻む音がやけに大きく聞こえる。
数分の沈黙。
やがて、凛が意を決したように顔を上げ、赤くなった瞳で俺を見つめた。
「……。ねえ、一真。……。……さっきの、お姉ちゃんの話なんだけど」
「――――っ! ……。ああ、……。雫さんの、冗談だろ? 気にするなよ」
「……。冗談だけど。……。でも、一真。……。……『まだしません』って……。……。それって……」
凛は自分の唇を噛み締め、さらに顔を赤くして続けた。
「……。……いつかは、……。……したいって、……。思ってるの?」
……。
…………。
直球。回避不能の、最大火力の魔法が飛んできた。
俺は喉の奥がカラカラに乾くのを感じながら、必死に言葉を探した。
「したい」か「したくない」かで言えば、そんなの、健康な男子高校生として答えは決まっている。
目の前にいるのは、世界で一番可愛い俺の彼女なのだ。
……けれど。
俺が彼女を好きになったのは、そんな欲望のためじゃない。
三年間、隣で笑い合ってきたハルとしての彼女を。
学校で一人戦っていた、凛としての彼女を。
そのすべてを、大切にしたいと思ったからこそ、俺はあの日告白したのだ。
敢えて逃げずに、そのまま俺の気持ちを伝える。
「……当たり前だろ。……。……。お前のこと、……。……変な目で見ない方が、……。……男としてどうかしてるわ」
俺が開き直って答えると、凛は「あ……」と声を漏らして俯いた。
「……でもさ。……俺は、お前との今の時間が、世界で一番大切なんだよ。だから、雫さんに言われたからどうこうとか、……そんなこと、一ミリも考えてない。……お前が、……。……『いいよ』って言ってくれるまで待つ。……それが、騎士の役目だろ?」
「………………」
そして。
俺のすぐ隣。にちょこんと座ると、俺のシャツの裾をぎゅっと握り締めた。
「…………バカ。……。……カッコつけすぎ。……。……。……でも、ありがと。……。……私も、……同じ気持ちだよ」
凛の声は、今にも消えてしまいそうなほど優しかった。
「……。……私も、一真となら、……いつかは、……って、思うけど。……今は、こうして……名前で呼び合って、学校で秘密のやり取りして……そういうのが、……すっごく、……幸せだから」
凛は俺の肩に、こてんと自分の頭を預けてきた。
狭い個室に、二人の心拍数が重なり合い、共鳴していく。
三年前、ボイチェン越しの声に恋をしていたあの頃。
俺たちは、こんな未来が待っているなんて想像もしていなかった。
――コンコン。
不意に、小気味よいノックの音が響いた。
「――――っ!?」
俺たちは弾かれたように距離を取り、不自然なほど背筋を伸ばして固まった。
「はーい、お二人さん。楽しんでるところ失礼するわね?」
扉が開き、お盆を持った雫さんが余裕たっぷりの笑顔で入ってきた。
そこには、俺が持ってきた洋菓子セットのクッキーと、湯気の立つ紅茶が三つ。
「……。……。お姉ちゃん! 入る時は返事待ってって言ったでしょ!」
「あら、ごめんなさい。でも、あんまり静かだったから……。……もしかして、もう『そういうこと』始めちゃったのかと思って、お姉さん心配になっちゃって」
「してない!!」
雫さんは、凛の怒声を柳に風と受け流すと、俺たちの前にひょいとお盆を置いた。
彼女は一真の顔をじーっと覗き込み、ニヤリと笑う。
「にひひ! 一真くん、顔真っ赤。……合格ね。……。妹を大切にしようっていう、健全な煩悩の匂いがするわ」
なんだ健全な煩悩とは。
「…………雫さん。……。勘弁してください」
「いいじゃない。……ほら、これ。……一真くんが持ってきてくれたお菓子。凛ちゃんが貰って嬉しそうにしてたから一番に持ってきてあげたよ」
凛が立ち上がって雫さんを早くここから出そうと押し出そうとするが、雫さんはするりと身をかわし、俺の隣に座り込んだ。
……近い。凛とは違う、大人びた香水の匂いが鼻を突く。
「……ねえ、一真くん。……凛の部屋、どう? ……あっちの『廃人コーナー』見て、引かなかった?」
「……いえ。……。むしろ、……あそこが一番、落ち着きます」
俺がデスクの方を見て答えると、雫さんは少しだけ意外そうに目を見開き、それから、今までで一番優しい、本当の「お姉様」の笑みを浮かべた。
「……ふふ。……やっぱり、……。……本物だね」
彼女は俺の頭を、子供をあやすように一度だけ優しく撫でた。
「……凛ちゃん……。よかったね。……。……。あなたの『ハル』としての魂を。……そのまま愛してくれる人が、……こんなに近くにいてくれて」
「……そんなことはとっくに知ってる。……。……そんなこと」
凛は俯きながらも、どこか誇らしげに口角を上げた。
「……。……さて! 私もお邪魔虫はこの辺にしておくわ。……。一真くん、クッキー冷めないうちに食べてね。……。……あ、あと」
雫さんは立ち上がり、ドアの前で最後にもう一度だけ振り返った。
「……あんまり遅くまで二人きりでいさせると、お父さんが帰ってきた時に一真くんが『物理的』にレイドバトルされることになるから。……。……気をつけてね?」
凛のお父さんか。どんな人かは分からないが、こんな可愛い娘が二人いたら父親もさぞそこら辺には敏感になるだろう。
もし俺が二人の親なら『お前なんかにはやらん!』という典型的な娘だいすき親父になってしまいそうだ。
「あはは! じゃあ、ゆっくりね、お二人さん!」
嵐のようなお姉様が去っていき、部屋には再び静寂が戻った。
けれど、さっきまでの「気まずい沈黙」はもうなかった。
テーブルに置かれたお菓子。
隣で「もー、お姉ちゃんのバカ……」と呟きながら、俺の袖を離さない相棒。
「……。……。ハル。……。……食うか」
「……。……うん。……一緒に、食べよ。……。……カズ」
俺たちは、並んで洋菓子を口にした。
フワフワした食感と、バターの甘い香りが、俺たちの緊張をゆっくりと解かしていく。
夏休みは、まだ始まったばかり。
最強の義姉に翻弄され、不器用な恋に戸惑いながらも。
俺たちは、この聖域の中で。
新しい物語のページを、一歩ずつ、大切にめくり始めていた。




