【 仇 丸 】城 ヶ 崎 天 の 助
【 仇 丸 (あだまる) 】
城 ヶ 崎 天 の 助 (じょうがさき てんのすけ)
『大井町鈴ヶ森刑場の死札』
大井町鈴ヶ森刑場の夜は深い。
磔台の真下を吹き抜ける禍々しい塩風とともに、処刑されたばかりの罪人の死骸が放つ、強烈な死臭が濃く立ち込めていた。
戦を失して凶暴化した浪人が、辻斬りや追剥へと身を落とし、江戸の境界線を血で汚す寛永年間。
その漆黒の闇の中を、一人の男が歩んでいた。
城 ヶ 崎 天 の 助 (じょうがさき てんのすけ)
引き締まった細身の体躯。
はだけた着流しの隙間から覗く白磁の如き皮膚。
男でも女でも己の欲の向くままに貪る両刀使いであり、一重まぶたの涼しげな目元を歪めて辻斬りを繰り返す、脳髄の侵された狂気の浪人であった。
男色、女色、そのいずれにも快楽を見出す肉体を持ちながら、人倫の道は疾うに踏み外しており、八百八町の奈落の怨嗟を一身に浴びて生きている。
腰に帯びた得物は、抜き身の美しさに身震いするほどの妖刀。
【 仇 丸 (あだまる) 】
波打つ刃文はまるで、悶える肌の雪白が夜を誘うようであった。
ひとたび鞘を払えば、吸い込まれるような凄艶なる地肌が、夜の闇を鋭利に切り裂く。
流れるような曲線を描くその刃線は、獲物の生き血を啜るためにのみ誂えられた、呪わしき極上の業物であった。
「おや……、珍しいねぇ。こんな寂しい吹き溜まりで、私に逢いに来てくださるなんて。こっちへもっと、お寄りよ」
天の助が、鼻にかかった艶っぽい声で、語尾をねっとりと長く引いた。
その耳元を痺れさせるような響きとは裏腹に、闇を割って飛び出してきたのは一人の男。
かつて天の助の気まぐれな刃によって、なぶり殺しにされた男の同胞であった。
友の仇を討つべく、狂ったように江戸の底を探し回っていた無頼の徒が、怒りを爆発させて刀を抜く。
天の助は、どこか突き放すような冷たい眼差しを向けながら、ふっと声音を崩した。
「あのアホ面をした男の仲間かい? あれは実に良い鳴き声で逝ったよ。男のくせに、最後は女のように縋ってさぁ」
「黙れ、外道が!」
男の怒火は頂点に達し、なりふり構わぬ白刃が天の助へ襲いかかる。
しかし、天の助は吸い付き、滑るような歩法でそれを紙一重でかわし続けた。
執拗な刃をひらりと躱し、相手をなぶるようにじらし抜く。
怒りに狂い、大振りの一撃を繰り返す男の息が完全に上がったその瞬間――。
天の助はにやりと笑った。
吸い込まれるように放たれた「仇丸」の刃が、男の胴を深く切り裂いた。
どさりと地面へ倒れ伏し、激痛に身をよじる男を見下ろし、天の助の双眸に異変が起きる。
いつもは糸のように細められている一重の目が、一瞬にして三倍にも見開かれた。
眼球の白い部分が爛々と剥き出しになり、そこには人間の理性など微塵もない、精神が破綻した怪物の恐るべき貌があった。
切り裂かれた腹から溢れ出る熱い血と痛みに、男はまともな悲鳴すら上げられず、獣の喉を潰したような、ひゅうひゅうと低く鳴る奇怪な声を漏らした。
その無様な悶絶の響きが、夜の静寂を引き裂く。
「あはっ……!もふ、もふ……骨までとろけるようだねぇ。そんな声を出しちゃ、たまらないよ」
天の助は息を荒くし、恍惚として身悶えした。
血に濡れた「仇丸」をゆっくりと引きずりながら、重傷を負って這いつくばる男の泥にまみれた顔面を、容赦なく踏みにじる。
さらに狂気混じりの笑みを浮かべ、男の傷口へ指先を深く突き入れた。
裂けた肉をねちねちとかき回し、溢れ出る生き血を自らの指頭へ絡め取る。
その濡れた指先を今度は男の顎へと使い、骨が軋むほどの力で乱暴に抉り上げた。
ねっとりとした吐息が、男の首筋にかかった。
「頼む……ひとおもいに、ひとおもいに突いてくれ……っ!」
絶望のなかで懇願する男を見下ろし、細められた一重の目が、再び冷徹な狂気を孕んで歪む。
「一思いに、だって? 気が早い男は嫌いじゃないけれど……。ここからが面白いの。私がしているのは果たし合いじゃないわ。ただの、なぶり殺しよ」
肉声とともにさらに刃が引かれ、男の肉体がどさりと磔台の黒い土壇場の上で物言わぬ骸と化すまで、鈴ヶ森の夜風は、ただ血の匂いを運ぶのみであった。
「私は死に札、引いちまったら必ずあの世往きさ」




