【 悪 神 ウ ェ ン カ ム イ 】ライクル(死を運ぶ者)
【 悪 神 ウ ェ ン カ ム イ 】
ライクル(死を運ぶ者)
『両国広小路の血煙』
寛永年間。隅田川の川風が吹き抜ける両国広小路は、江戸で最も熱き人間の欲望を孕む巨大な伏魔殿であった。立ち並ぶよしず張りの見世物小屋からは、大虎の曲芸や怪力男の口上が不気味に響き、露店から漂う鰻の蒲焼の香煙が、押し合う群衆の熱気と混ざり合う。ここには天下のあらゆる富と頽廃、そして幕府の法度が到底届かぬ裏社会の怨嗟が集まっていた。
「どけ、どけい! 邪魔する奴は叩き斬るぞ!」
賑わう大通りを割るようにして、抜刀した無頼の徒党が、ある一角を取り囲んでいた。利権を巡る縄張り争い――押し込まれた地元の町奴たちが凄惨に血を流して倒れる中、勝利を確信した仕掛け屋の浪人どもが、ぎらついた刃を翻す。祭りの喧騒は一瞬にして絶望の悲鳴へと変わり、見物客たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ惑った。
その混沌の渦中へ、雑踏を逆流するように、一人の男がゆったりと歩み出てきた。
油を塗ったように鈍く光る小麦色の皮膚。泰平の江戸には異質な、獣の毛皮を部分的にあしらった着物を夜風に晒し、虚ろな目で佇む男。男が歩く一歩ごとに、なぜか周囲の空気が凍りつき、盛り場の喧騒が嘘のように引いていく。男の名はライクル。北方の原生林で人を喰らい、神の境界を踏み越えて災いとなった人食いグマ――「ウェンカムイ」の呪いを宿したと噂される、人斬りの怪異であった。
彼が背負うのは、圧倒的な身体能力から放たれる質量兵器の如き巨刀「悪神ウェンカムイ」。
「あァ? 何だお前は。見世物小屋の熊男が、間違えて檻から出てきたか?」
勝ち誇っていた浪人の一人が、ライクルの異様な風体に気づき、嘲笑しながら間合いを詰める。しかし、ライクルは相手の顔を凝視したまま、頑なに瞬きを一つもしない。その瞳の奥には、人間としての理性が一切、存在していなかった。あるのはただ、生肉を求める獣の狂暴な意志のみである。
ライクルは抑揚のない平坦な声で、低く呟いた。
「肉の匂いがする。……ここは、俺の狩り場か」
「何だと――」
浪人が刀を振り下ろすより早く、ライクルは刀の柄頭を指先で優しく撫でる仕草から滑り込んだ。
それはまるで、夜の闇から突如として襲いかかった嵐のようであった。抵抗の声をあげる暇もなく、男たちの命の灯火は無残に吹き消され、ただの抜け殻となって地面へと折り重なる。祭り囃子が遠くに響く華やかな盛り場が、一瞬にして、容赦のない冬の原野へと一変した。血飛沫が夜空に舞い、両国広小路は一瞬にして屠殺場と化したのである。
ライクルは返り血を浴びた顔のまま、唇の両端を不意に釣り上げた。その表情は、かつて北の聖域で人間を屠った悪神の、狂気的な笑みに酷似していた。もはやそこには、人間の感情など微塵も残されてはいまい。
男は懐紙を取り出すこともせず、ゆっくりと着物の袖で刀身の血を拭い去り、刃を鞘に収めた。カチリという重い音が、静まり返った広小路に響き渡る。
怯え、腰を抜かした残りの浪人どもを見下ろし、ライクルは狂気を孕んだ目で静かに、冷徹に言い放った。
「人間の取り決めなど、悪神の飢えには届かない。……この深山を統べるのは、俺だ。」




