【 龍 斎 仙 】片 岡 小 十 郎
【 龍 斎 仙 (りゅうさいせん)】
片 岡 小 十 郎
『浅草奥山、慈雨の結界』
夜の浅草寺境内――奥山。ひしめく見世物小屋の影が不気味な死角を作るその場所は、町奉行の管轄も届かぬ無法地帯と化していた。
大名家の御家潰しが相次ぎ、失業した浪人が裏稼業の用心棒に身を落とする元和・寛永の乱世。
片岡小十郎は、古傷を覆う黒い渋革の目当てを夜風に晒し、懐に片手を突っ込んだまま静かに佇んでいた。
彼の表の顔は、幼き者たちに読み書きを教える手習塾の師匠。その内心は、預かった若い門弟たちを親代わりとして育てる真摯な【無頼の庇護者】であった。
だからこそ、彼は本気で思っている。人の未来を奪う悪人など生かす価値はない。すべて等しく、塵芥として地獄へ叩き落とすべきだ、と。
彼の手にする得物は、天に昇る八大龍王の如き神聖さを宿し、かつて命がけで主君を守り抜いた智勇の士の霊剣――「龍斎仙」。
「片岡だな。預かった童どもの命が惜しくば、刀を置いて首を出せ」
床店の筵を撥ね上げて躍り出たのは、金で辻斬りを請け負う無法者たち。彼らは、小十郎の秘密裏の世直しによって裏の利権を潰され、逆恨みから門弟を人質に取ろうと企む仕掛け屋――【浪人:志馬勘兵衛】とその手下二名であった。
三人は重く厚い新刀を上段に構え、小十郎の脳天を砕かんと容赦なき不意打ちを仕掛けてきた。
しかし、小十郎の双眸は微塵も揺らがない。彼にとってこの襲撃すら、悪人を誘い出すための予定通りの盤上であった。
我が子を諭すかのような深い憂いと誠実さを湛え、吸い付くように柄を握る。その瞳に宿るのは、すべてを包み込む絶対的な「慈悲」であった。
抗う自由などない。大いなる天の慈雨がすべてを洗い流すように、彼らの悪意はただ一方的に、優しく、徹底的に、蹂躙されていく。
夜霧を震わせ、小十郎の喉からあまりにも重烈な響きが放たれた。
「……夢から覚めなさい、迷い人よ。その刃で己の未来を切り刻んではならない」
それは、戦う尊厳すら取らずに存在を無に帰す、残酷な宣告であった。
間合いが消失した刹那、小十郎の剛腕が奔り、「龍斎仙」が神速の光輪を描く。
それは肉を破砕する暴虐ではなく、荒ぶる者を鎮める「慈悲の断罪」。山が崩れるがごとき質量の一撃は、男たちの新刀を正面から綺麗に叩き折った。
防陣が崩れた瞬間、彼は刃を滑らせ、二人の喉元を正確に一閃した。苦痛すら与えぬ神速の刃が、迷える魂を肉体から解き放っていく。
鉄の限界を知る彼は無駄な動きをしない。間髪入れずに身を翻し、引き抜いた脇差を、怯む志馬勘兵衛の心臓へと寸分違わず突き刺した。
火花すら散らぬ完全なる制圧。三つの肉体は、静かに木箱の隙間へと崩れ落ち、ただ静かに物言わぬ骸へと変わった。
刃が鞘に収まるカチリという音が夜霧の中に消えていく。男は倒れた悪党どもを哀れみの目で見つめ、穏やかで透き通った声で語りかけた。
「一度迷えば、もう二度と人の道へは戻れない。その迷い子の行き着く終の地が、この私だ」
それは憎しみによる刃ではなく、これ以上の罪を重ねさせないための、聖者による絶対的な救済。
「……さあ、その魂を天へと還しなさい。次こそは、誰もが愛する良き人へと生まれ変わるがいい」
小十郎は懐に手を戻すと、まだ見ぬ明日を待つ童たちの塾の方角へと静かに視線を向けた。隻眼が闇の中で一瞬、深く優しい光を放つ。
「さて――。明日の手習いは、お利口な子供たちに何を教えてあげましょうか」
夜霧に翻る羽織の裾。その背中は世の汚れを背負う阿修羅のようであり、同時に夜明けの慈雨をもたらす龍神のようでもあった。




