↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
10/27

【 散 り 菊 】お京

【 散 り 菊 (ちりぎく) 】


お 京 (おきょう)


『五条河原の残香』


夜の五条河原は、凄惨たる闇に包まれていた。鴨川の濁流が立てる水音に混じりて、泥にまみれた小屋からは、無宿者どもの怒号が、絶えず不気味に響きわたっている。相次ぐ戦乱と天下の変動により、古き名門の公家が没落し、その高貴なる血筋さえもが泥溝の底へと沈んだ寛永年間。妖霧のごとく立ち込める川霧のなかに佇む、一人の女がいた。


お京――


はだけた襦袢の隙間から覗く肌は、血の通わぬ白磁のごとく。その肉体は柳のごとく細くしなやかでありながら、無駄な贅肉を削ぎ落とした、強靭な骨肉の締まりを秘めている。かつては深窓の令嬢として至高の情操を注がれて育ったが、いまやその誇りは、裏街道を生き抜くための鋭利な武器へと変貌を遂げていた。夜毎、闇に紛れて身を潜め、油断した無頼漢から命を掠め取る、裏街道の毒婦。その細い腰の帯間に秘めているのは、一振りの刀であった。かつての実家が家宝とした銘を、無残にも削り落とした細身刀――


散り菊――


いまや暗殺の凶器へと成り下がった、無銘の利刃。その冷徹なる刃が、いま、五条の闇を切り裂こうとしていた。


事の起こりは二日前。お京が客である大店の隠居からせしめた小粒金二十枚。その重みをお京が懐へ忍ばせる瞬間を、盛り場の路地裏で監視していた町奴――彫政の手下である「目端の六」が、闇に光る眼で見逃さなかった。六はすぐさま、彫政の身内でも殊の外に獰猛な三人にこの件を売った。河原の利権を握る彫政の身内にとって、縄張りで勝手に大金を稼ぐ女など、格好の剥ぎ取りの標的でしかない。だが、彼らは侮らなかった。お京がどこか普通の女とは違う、底知れぬ身のこなしを隠していることを、無頼漢特有の勘で嗅ぎ取っていたからである。


そこで三人は、五条河原の泥溝に潜む無宿の物乞いどもに、安酒一升と数文の銭を握らせて放った。


「あの白磁の肌の女が、どこで一人になるか、目を皿にして見張れ」


網は、今宵の四半刻前に引っかかった。お京が一人、鴨川の淀みの、最も昏い闇の方へ歩いていったとの知らせ。三人は息を殺し、五条の橋の下から、お京の逃げ道を塞ぐようにして、三方からの包囲網を縮めていったのである。足音を川音に紛れ込ませ、抜き身の地肌を月光に晒さぬよう、あらかじめ刀身に泥を塗りつけての闇討ち。女一人の細腕を、なぶり殺しにする算段は、彼らにとって完全に整っていた。そうして、お京を取り囲んだ無頼漢らの無骨な抜き身が、いま目の前に迫っている。


「おい、泥菊。大人しくその懐のものを出しな。じゃねえと、その綺麗な肌に紅い筋を引くことになるぜ」


お京を包囲した男が、昏い闇の中からギラつく抜き身を突きつけ、嘲るように吐き捨てた。


「ふふ、せっかくいい男が待っているのかと思えば……。あたしの懐を狙う、ただの野良犬どもだったのかい」


お京は怯むどころか、妖しく目を細めて唇の端を吊り上げ、凄艶な笑みを浮かべた。わざとらしく襦袢の肩を滑らせ、鋭い視線を放つ。男たちの注意が、ほんの一瞬、その動きへと奪われた。野良犬どもの、おろそかなる一瞬であった。


先頭の男が我に返り、お京の脳天へ向けて刃を容赦なく振り下ろした刹那、お京の内に潜む凶刃たる本質が、音もなく覚醒した。それまで一切の腕力を抜き、泥のように弛緩していたお京の肉体が、突如として一本の鋼鉄の芯と化した。振り下ろされる刃の内懐へ、淀みなく滑り込む。泥を掴んだ足の裏が鋭く地を跳ね、その反発が瞬時に腰の鋭烈な回転へと連動したのだ。軸のぶれぬ強靭な腰から生み出された力が、袖の奥から逆手に突き出された散り菊へと伝わる。刃は、男の下顎の肉を突き破り、頭蓋の奥深くまで肉を断つ不気味な音を立てて貫いていた。


「が……ッ!?」


「油断が過ぎるんだよ、無宿者。あたしの身体が高くつくことくらい、知っておきな」


声も上げさせず一人を仕留めたお京は、生温かい返り血を浴びたまま、即座にその死体を盾にして残る二人へと突っ込んだ。相手の刀が死体に突き刺さり、受け太刀の構えを解く暇もない刹那。構えの崩れたもう一人の喉元を、散り菊の鋭利な刃が深く薙ぎ払った。噴き出す鮮血が、夜霧を赤く染める。


「あ……、あ……」


最後の一人となった男は、言葉にならぬ悲鳴を喉の奥で鳴らした。呼吸を止めたわずかな間に繰り出された、女の細腕による、あまりにも無頼にして凄絶な骨絡みの打突。肉を断つ音すら遅れて聞こえるような絶望的な現実を前にして、男は泥にまみれた河原の石の上で、ただ腰を抜かすことしかできなかった。お京は血と泥にまみれた川原を悠然と歩み、男の前に立ち塞がって、散り菊の切っ先をその眉間に突き立てた。怜悧な双眸を見開き、お京は不敵な冷笑を浮かべ、喉を鳴らして囁いた。


「女一人の稼ぎを当てにするような外道の面の皮、この散り菊で削いでやろうか?」


「ひ、ぃ……あ、あ、あああッ!」


男は引き攣った絶叫を上げ、狂ったように泥を掻いて逃れようとした。だが、その生白い顔面へ、冷徹な刃が容赦なく食い込む。お京の手首が冷酷に返り、額から頬にかけての皮膚が、凄惨な音を立てて剥ぎ取られていった。河原の闇を切り裂く、狂乱の絶叫。剥き出しになった肉塊へ、お京は一瞥もくれず、散り菊を真横に走らせた。留めの一撃が喉元を深く裂き、絶叫は即座に血の泡となって消え去った。


最後の肉体が、どさりと鴨川の淀みに崩れ落ちる。川上を見れば、四条の空にはきらびやかな篝火が揺れ、祇園囃子の華やかな音が夜空に響いている。当世の贅を尽くした綾織物をまとい、平和を謳歌する富商や公家たちの住まう、爛熟の花の都。だが、お京の立つ五条河原はどこまでも昏く、冷たい。飢えた無宿者の物乞う声が闇に消え、衣服を剥がれた行き倒れの死体が転がる地獄である。都の陽光を浴びることのない、日陰の散り菊。お京は奪い取った小銭の巾着を軽く放り、闇の奥へと再びその細い背中を向けた。夜風が川霧をさらう。凛とした佇まいで唇の端を吊り上げ、冷たく闇へ吐き捨てた。


「男伊達が聞いて呆れるねぇ。五条の橋の下で、安っぽく命を散らすたぁさ。――いいかい無宿者、あたしはたとえ泥にまみれて散ろうとも、誇り高き菊の花だよ」」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。