【 孤 雲 一 文 字 】流 (ながれ)
【 孤雲一文字 】
流
『孤雲一文字』
その男の正体を知る者は、八百八町の奈落をいかに探そうとも、一人としていなかった。
人別帳から名のはずれた無宿の徒であることは確かだが、いかなる生まれで、いかなる流派の剣を修めたのか、それを語る公の記録はどこにもない。
その生き方は、まさしく空に浮かぶ孤雲の如きであった。誰の指図も受けず、己の気紛れだけを道標として漂泊を続けるその姿は、一見するとただの無欲な風来坊に見えた。本心を周囲に見せない。さっきまで壊れた木偶のように無邪気に笑っていたかと思えば、次の瞬間には、深い愁いを帯びた目で虚空を凝視している。その底の知れぬ妖気が、彼の本心を完全に覆い隠していた。
だが、その掴みどころのない佇まいの裏には、他者を戦慄させるもう一つの顔が隠されていた。
定住の家を持たぬ流がいかにして日々の糧を得ているか。それは、夜陰に乗じて無頼の徒やごろつきを襲い、その懐から血に染まった路銀を容赦なく奪い取るという、冷酷極まりない手段によってであった。
夜の品川宿は、旅人も飯盛女も姿を消した漆黒の街道であった。容赦なく吹き抜ける激しい潮風とともに、馬糞の饐えた臭気が濃く這い回っている。相次ぐ大名改易によって食い詰めた浪人や、宿場町の利権を巡って暴虐の限りを尽くす無頼の徒が牙を剥く寛永年間。江戸の境界線たるこの海岸沿いの街道は、深夜には宿役人すら近づかぬ、暴力だけが支配する底なしの猟場と化していた。
その夜霧のなかを、流は擦り切れた三度笠を深く目深に被り、旅合羽の下に極限まで引き締まった細躯を潜ませて歩んでいた。
肩の肉は薄く、一見すれば飢えた野良犬のようだが、歩を進めるたびに合羽の隙間から覗く筋骨は、まるで鍛え上げられた鉄索の如く強靭に引き締まっている。余分な脂肉などひとかけらもない。
ただ人を屠るためだけに削り出された骨組の肉体。
腰に帯びた得物は、誰にも縛られない自由奔放な軌道から、鋭く冷徹な打突を繰り出す名刀――
孤雲一文字。
流が足を踏み入れたのは、品川の裏街道を根城にする兇賊「餓鬼衆」の隠れ家であった。狙いは、彼らが悪辣な手段で溜め込んだ路銀である。
薄暗く酒臭い堂内では、餓鬼衆の首領と凄腕の手下ども四人が、掠めてきた女たちをはべらせて下卑た笑い声を上げ、悪所さながらの狂宴に興じていた。その熱気が最高潮に達しようとした、まさにその時である。
「……ぅ……ん……っ……ぁ……」
楽しげな喧騒の隙間を縫うように、どこからともなく低くかすれた、言葉ともつかぬ異様な声が漏れ聞こえてきた。
「あ? なんだぁ、今の声は……?」
首領が不意に杯を止め、不機嫌に眉をひそめる。手下の男たちも互いに顔を見合わせ、得物に手を伸ばした刹那――。
激しい音を立てて木製の引き戸が容赦なく蹴破られた。
立ち込める夜霧を背負い、不気味にぶつぶつと呪文のような独り言を呟きながら現れたのは、三度笠の男。流であった。爛々とした狂気の瞳が、笠の奥から無法者たちをじっと見据えている。
「なんだてめえは!」
「ぶつぶつ……ぶつぶつ、ぶつぶつ。……」
「何をごちゃごちゃと言ってやがる……!」
苛立ちを隠せない刺客の一人が、刀を構えて流ににじり寄る。男がその不気味な独り言に耳を澄ました、まさにその刹那、全身の血が凍りついた。
「……右、三寸。……鎬、喉。……切り落とす……」
それは、酷く冷徹に淡々と刻まれる、彼固有の「屠殺手順」であった。
「ひっ……!? これから俺たちを、どうやって斬るか話してやがんのか……っ!」
あまりの恐怖に男たちの気合いが一瞬だけ乱れた。流は何も答えない。笠の縁を指先で押し上げた瞬間、彼の呟き通りに肉体が動いた。
肩の力を完全に抜き、腰の鋭い回転から生み出された「孤雲一文字」の変幻自在な一撃は、恐怖に腰が引けた先頭の太刀を鋭く滑り落ち、その喉元を深く薙ぎ払った。噴き出す鮮血が、乱雑に置かれた酒器や女たちの肌を赤く染めていく。
「……あ、は……。……あはっ、あは。……喉、三寸。……いた、風。……あたり……」
流は血飛沫の中で、壊れた傀儡のように小さく笑った。しかし、返り血を浴びながら一歩を踏み込み、左の敵へ脇差を逆手で突き刺した瞬間――男が必死に身を捩り、刃は、狙った鳩尾ではなく肩口へと深く突き刺さった。
その瞬間、流の顔から一切の笑みが消えた。冷たい嗚咽が漏れる。
「……あ。……ちがう。……肩、じゃない。……みぞおち。……うそだ。……だめだ、だめ、だ……」
ボロボロと大粒の涙を流し、酷く哀れに喉を鳴らしながら、流はさらに不気味さを増していく。これでは形が狂う。美しくない。崩壊の恐怖に泣きじゃくりながらも、残る者たちが「見張りの目の隙間」から必死に放った捨て身の斬撃を、流は狂ったように合羽を大きく翻してあしらった。堂内の砂塵と夜霧を巻き上げ、彼らの視界を完全に奪い去る。
「……ひざ。……ににん。……まとめて。……つぎは、ぜったい……」
闇の中で視力を失い、狼狽する男たちの背後を、流れる雲のようにすり抜ける。「孤雲一文字」の冷たい横一文字が奔り、二人の膝の裏、すなわち膕を同時に深く薙ぎ払った。
「ひっ、足が……立てねえ……っ!」
今度は完璧であった。飛び散る血肉と酒が混ざり合う床の上、己の血の海の中で悶え苦しむ男たちを見下ろし、流は再び、耳まで裂けるような狂った笑顔を浮かべた。涙の乾かぬ顔のまま、小さく手を叩く。
「……あ。……そろった。……ひざまづいた。……おもしろい、ね……」
これから行われるであろう「次の手順」をぶつぶつと呟き、情緒を激しく乱高下させる流の狂気に、餓鬼衆の首領をはじめとする外道どもは完全に肝を潰し、失禁しながら命乞いを始めた。だが、流は急に興味を失ったように真顔に戻った。
息絶え絶えの首領の胸元に無造作に手を伸ばすと、彼らが掠め取っていた金目のものや紙入れを容赦なく毟り取り、懐へと仕舞い込む。彼らを振り返ることもせず、カチリと硬質な音を立てて刀を鞘に収めた。その冷たい金属音は、外から吹き込む潮風の轟音の中に静かに溶けて消えていく。
男の胸の内に去来するのは、金を奪った喜びでも、勝利の歓喜でもない。自分の思い通りに肉体を解体できたという刹那の快楽と、それが終わればすぐに戻ってくる、底なしの虚無と、荒野を行く雲のような静かなる孤独だけであった。
流は三度笠の縁を深く引き下げ、まだ息のある男たちの呻き声と女たちの悲鳴を背中で聞きながら、隠れ家を後にして闇の奥へと足を進めた。
「……あ。……みぞおち、はずした。……しくじり、だ。……きょうは、ろくぶの出来。……つぎは、がんばろう……」




