【 常 世 な ら ぬ 】 朧木幻斎
【 常 世 な ら ぬ 】
朧木幻斎
『寛永幻魔異聞』
夜の大川端は、底なしの泥濘が広がる湿地帯であった。
人の背丈を優に超える葦原が夜風に激しく擦れ合い、一切の足音をかき消している。
満潮を迎えた川底から沸き上がるヘドロの臭気と、行き倒れの遺体を一時的に打ち棄てた仮小屋から漂う死臭が、夜霧となって低く立ち込めていた。
のちに両国橋が架けられるのは数十の星霜を経た先、大川(隅田川)にはるか上流の千住大橋しか存在せぬ寛永年間。
大目付・井上筑後守による苛烈な大名改易の嵐は、数万の浪人を江戸へ流し、帳外れの無宿者と結託した徒党が夜な夜な辻斬りや人剥ぎを働いていた。
深夜の深川干拓地は町奉行所の貧弱な徒歩巡回(同心たち)はおろか、辻番の武士すら近づかぬ、江戸でも最悪の吹き溜まりと化していた。
昼の盛り場は、照りつける陽光と、行き交う人々の喧騒に満ちていた。
その往来の片隅、埃まみれの地べたに這いつくばり、生気のない双眸でただ他人の慈悲を乞う者がいる。
だらしなく伸ばした長髪の白髪が顔を覆い、幽霊のように線の細い四肢を潜ませた不気味な物乞い老人。
それこそが、朧木幻斎であった。
「そこをどけ、薄汚い非人め」
酒臭さを撒き散らした地回りの悪党どもが、あざ笑いながら幻斎の脇腹を容赦なく蹴り飛ばした。
鈍い音とともに泥の中に転がる幻斎を見て、連中は「人間の面をするな」と唾を吐き捨て、悦に浸りながら去っていく。 だが、蹴り飛ばされた幻斎は、泥に塗れたまま、その焦点の合わぬ瞳の奥でただ愉しげに笑っていた。
彼は生まれながらにして、現世の理が一切通じぬ瘋狂の徒。
恐怖も痛覚も、人間らしい情動など初めから外れ落ちた真の狂人であり、この物乞いの姿は、今夜の『獲物』を誘い出すためのただの餌に過ぎなかった。
暗い脳の奥底で、自分を蹴った愚者たちの顔と、その命の寸尺を冷酷に値踏みしながら、幻斎は夜が来るのをじっと待ち続けていた。
幻斎は、昼間の悪党どもが必ず通る大川端の板橋の袂に、闇と同化するように佇んでいた。
やがて夜霧の向こうから、大声を張り上げて酔い払った男たちの足音が近づいてくる。
昼間、物乞いの幻斎を無体に変形させて大笑いしていた四人の無法者たちが、千鳥足で橋へと差し掛かった、その時であった。 深く立ち込める霧の奥から、現世の物物しからぬ不気味な音が響き渡る。
――カラン、……コロン。
湿った板を噛むように、低く硬く響く下駄の音。 悪党どもがぎょっとして足を止め、目を凝らした。
夜霧を割ってゆらぁ〜と姿を現したのは、幽霊のように線の細い四肢を揺らす、長髪の白髪が妖しく夜風になびく老人――朧木幻斎であった。
昼間の従順な物乞いの気配は微塵もなく、そこにあるのはただ、現世に現れた幻魔そのものの禍々しさであった。
「あぁ? 昼間の薄汚い物乞いじゃねえか。何の用だ、また蹴られたいのか」
一人の男が太刀に手をかけ、嘲るように足を踏み出した瞬間。
霧の中に佇む老人の口元が、にやぁ、と不気味に釣り上がった。
刹那、幻斎の身体からすべての骨が抜けたかのような、完全な脱力が起きた。
身構えも、予備動作も、殺気すらもない。
ただ陽炎が揺らめくような無拍子の境地から、腰の「常世ならぬ」が引き抜かれ、爆発的な高速の剣となって、悪党どもの防陣へいきなり襲いかかった。
一閃。
まさに幻魔の仕業とも言える、骨肉の完全な透過であった。
幻斎の放つ構えなき一撃は、敵の動体視力の死角へ直接吸い込まれるように這い入り、男たちが慌てて突き出した頑強な陣盾を文字通り「すり抜けた」と錯覚させる速度で、その防陣の裏側にある喉元を寸分違わず深く薙ぎ払っていった。
かつて自分を蹴り飛ばした男たちの驚愕の表情を眺めながら、現世に現れた幻魔は足音もなく滑り込み、引き抜いた脇差で残りの敵の心臓の隙間を正確に突き刺した。
夜の静寂を切り裂く肉声すら上がらぬまま、四つの肉体がどさりと板橋の上から、底なしの泥濘が広がる沼地の上へと転がり落ちた。
幻斎は返り血の雨を浴びた衣服を気にする風もなく、悠然と刀を立てた。
昼間、自分を泥塗れにして悦に浸っていた外道どもが、今は自分が這いつくばっていた泥の底で、物言わぬ肉塊となって伏している。
男は懐紙を取り出すこともせず、ただ己が刈り取った命の余韻だけを、この世ならざる虚空の彼方へと沈めていた。
刃が鞘に収まるカチリという硬質な音が、風に揺れる葦の音の中に静かに消えていく。
幻斎は夜霧に消え入りそうなその身体をゆらりと揺らし、愛刀の歪な呪いとその名にかけた、この世の理を完全に断切る劇的な独白を闇に落とした。
再び、カランコロンと、戻れぬ冥府の足音が葦原に響き始める。
「現世の盾じゃ、この刃は防げねえ。てめえらが往くのは、もう戻れねえ『常世』の底だよ」




