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【 鬼 ノ 首 切 】 荒 木 茂 助

【 鬼 ノ 首 切 (おにのくびきり) 】


荒 木 茂 助 (あらき もすけ)


『大井町鈴ヶ森刑場の血霧』


 夜の大井村(おおいむら)の沿海は、のちに鈴ヶ森刑場として血に染まる、不浄の土壇場(どたんば)であった。


 人の背丈を優に超える磔台(はりつけだい)の隙間をねっとりとした夜霧が這い回り、低く垂れ込めた雨雲が、月光をどす黒い鉛色に変えて荒涼たる処刑場を照らしている。


 相次ぐ大名改易によって戦う場を奪われ、狂犬と化した無宿の徒が、夜な夜な東海道の旅人を襲っては人剥ぎを繰り返す寛永年間。


 江戸の境界線たるこの地は、深夜には町奉行所の役人すら見回りを完全に放棄する、剥き出しの飢餓と殺戮だけが支配する底なしの墓所と化していた。


 荒木茂助(あらき もすけ)は、黒漆塗りの異形の鉄仮面でその顔貌を完全に覆い隠し、不気味なほどに静かな足取りで、数多の骸が転がる泥土を踏みしめていた。


 その体躯は、常人の倍近くはあろうかという異形の巨躯。 茂助は生まれながらに頭の育ちが遅く、言葉も碌に解さぬ、知恵の足りぬ男であった。


 生きていく術を持たぬ彼は、もともと「非人」の身分にありながら、その牛をも一撃で屠る恐るべき怪力と見上げるような大男の肉体をかわれ、この刑場で死体を運び、磔台へ吊るすといった不浄の力仕事に励むことで、どうにか食い繋いでいた。


 しかし、そのあまりに醜怪な巨躯と、言葉の通じぬ顔貌を周囲の人間に忌み嫌われ、お上の命令によって、戦国期の遺物である黒漆塗りの軍陣用総面(鉄仮面)を無理やり顔に釘打たれるようにして嵌め殺しにされていたのである。


 いまは役目を退いて野に下った茂助であったが、その根は、弱者を虐げることを知らぬ心優しい大男であった。


 彼が夜の刑場に佇んでいたのは、昼間、隣接する東海道・品川宿の宿場町周辺を徘徊していた折、無法な人買いの野盗どもに連れ去られそうになっていた幼い子供を、放っておけずに助け出したからである。 人買いの値を狂わされ、面目を潰された地回りの無頼どもは逆上し、お上の詮索が及ばぬこの不浄の海岸線へと茂助を追い詰め、徒党を組んで報復の揉め事を起こしたのだ。


 茂助の背後には、怯えてガタガタと震える小さな子供が縮こまっている。 腰に帯びた得物は、かつて幾多の罪人の首を落としてきたと伝わり、一度刃を交えれば確実に対象の首筋を毟(むし)り取る大刀――「鬼ノ首切」。


 磔台の巨大な影を割って、武器を構えた無法者たちが徒党を組んで一斉に襲いかかってきた。


 茂助は子供をその巨躯の背後にそっと隠した。 難しい言葉は分からない。だが、目の前の連中がこの小さな命を傷つけようとしていることだけは分かった。


 鉄仮面の奥から聞こえたのは、凄みなどない、どこか困ったような、しかし地響きのように低い茂助の声だった。


「……だめ。この、ちいさいの、いじめちゃ……だめだぁ」


 一閃。


 それは技や術理を超越した、圧倒的な膂力の暴発であった。 茂助の巨腕から繰り出された「鬼ノ首切」の一撃は、迎え撃つ男たちの刀を骨ごと叩き割り、すさまじい血しぶきを夜霧に撒き散らしながら、一振りのうちに刺客の四肢を無残に吹き飛ばしていった。


 さらに怯む間もなく、茂助は残る敵の胸元へ丸太のような拳を狂おしく叩き込む。 ドォン、と刑場全体に轟く凄まじい破裂音が響き渡り、殴られた男の肉体は文字通り内側から粉々に爆砕した。


 噴き上がる鮮血の雨の中、千切れた肉塊と四肢がどさどさと土壇場に転がり、地面はどどす黒い赤に染まった。 勝負は一瞬にして決した。 茂助は全身に大量の返り血の雨を浴びながら、カチリと硬質な音を立てて大刀を鞘に収めた。


 大男は、己の凄まじい暴力を目の当たりにして凍りついている子供の方へと、ゆっくりと巨体を振り返らせた。


 鉄仮面の隙間から覗く、言葉の通じぬ大きな目。血飛沫を浴びた異形の巨躯。 子供は、自分を助けてくれた恩人であるはずの茂助に対し、そのあまりの恐ろしさに息を呑み、腰を抜かして後退りした。


 やはり、自分はみんなに怖がられる怪物なのだ。 茂助は鉄仮面の奥で、ひどく悲しい、今にも泣き出しそうな顔をして、力なく大きな肩を落とした。 子供にこれ以上の恐怖を与えぬよう、男は漆黒の合羽の裾を風になびかせ、夜霧の奥へと寂しげに背を向けて歩み去ろうとする。


 カチ、カチと、寂しい足音が夜の刑場に響く。 だが、その時であった。


「待って! おじちゃん、待って!」


 背後から、小さな足音が泥を蹴って走ってくる。 振り返ると、さっきまで腰を抜かしていた子供が、涙をボロボロと流しながら茂助の合羽の裾を小さな手できゅっと掴んだ。


「怖がってごめんなさい! 助けてくれて、本当に、本当にありがとうございました!」


 子供は一生懸命に頭を下げ、何度も感謝の言葉を述べた。 自分を怪物ではなく、助けてくれた優しい人として見てくれた。その温かい言葉が、彼の心に真っ直ぐに届いた。


 茂助は足を止め、じっと子供を見つめていたが、やがて鉄仮面の奥から、低く、しかし心の底から嬉しそうな声で、にへらぁと不器用な笑みを漏らした。


「……もすけ。おれ、もすけ。……よかったなぁ、ちいさいの、ぶじで、よかったなぁ」


 知恵の足りぬ頭で、一生懸命に紡いだ自分の名と、無垢な喜びの言葉。嵌め殺された冷たい鉄仮面の奥から響いたその声は、夜霧に包まれた刑場を優しく溶かすように、いつまでも暖かく響いていた。

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