【 猫 じ ゃ ら し 】 猫 屋 敷 小 猫
【 猫 じ ゃ ら し (ねこじゃらし) 】
猫 屋 敷 小 猫 (ねこやしき こねこ)
『新吉原仲之町通りの落花』
夜の吉原仲之町通りは、満開の夜桜が激しい夜風にむしり取られて血の雨のように降り注ぎ、高級大見世から漏れる赤提灯の光が、散り敷いた白粉の甘さを不気味に浮かび上がらせていた。
大名の相次ぐ改易によって行き場を失い、戦の興奮を忘れられぬ元武士たちが、遊廓の莫大な利権や女を巡って夜な夜な大抗争を繰り広げる寛永年間。
ひとたび大門が閉鎖されれば、奉行所の警察権すら届かぬ、欲望と暴力だけが渦巻く隔離空間へと変貌を遂げていた。
その夜桜が散り敷いた大路を、だらしなく毛皮の襟巻きを首元に纏い、悠然と歩む者がいる。
本名、素性、あるいは生まれついた性別すらも誰も知らない。 ただ、大量の野良猫が群がる不気味な廃屋に潜むことから、廓の悪党どもに「猫屋敷の小猫」と恐るべき怪異の名で渾名される若き凶獣であった。
その腰に帯びた得物は、刀身の先端に細くしなる無数の鋼鉄線を植え付け、一振りで猛獣をも手懐け引き裂く奇形の兇刃――「猫じゃらし」。
小猫はこの地獄のような遊廓の利権や抗争には、端から興味などなかった。 ただ、この場所に囚われ、男たちの欲望に踏みにじられる不幸な女たちを哀れみ、お上の目を盗んでは夜陰に乗じて廓の外へ逃がしてやっていたのだ。
だが、今夜の大門の影、あと数歩で悲惨な少女を逃がし切れるという刹那であった。
突如として背後から松明の容赦ない炎が夜霧を焼き、ぎらぎらとした長刀の群れが小猫の網膜を射抜いた。 格子を乱暴に叩く音とともに、
「いたぞ、泥棒猫だ!」
「見ろ、女の手を引いてやがる!」
という怒号が響き渡る。
少女を闇の彼方へと突き飛ばして大門をすり抜けさせた瞬間、抜き身を構えた無法者たちが徒党を組んで一斉に躍り出、小猫はたちまち激しい追撃を受ける立場となった。
だが、小猫の逃げ足はあまりにも速かった。 夜風を切り裂き、夜桜の舞う廓内を音もなく疾駆するその姿に、追う悪党どもはただ必死にしがみつくしかなかった。
連中は小猫が恐怖で逃げ惑っているのだと確信していたが、それは大きな間違いであった。 小猫は逃げていたのではない。奴らを確実に処理するため、誰一人として近づかぬ、行き止まりの暗い袋小路へと意図的に誘い込んでいたのだ。
「逃げるな、泥棒猫め!」
悪党がそう怒鳴り声を上げ、路地の奥へと踏み込んだ瞬間、小猫がピタリと立ち止まった。
ゆっくりと振り返ったその顔には、にやぁと裂けた唇の両端が釣り上がり、夜陰に狂う山猫の化け物そのものの凄惨な狂気が浮かんでいた。 生者を餌としか見なさぬ冷徹な双眸が、追ってきた男たちを真っ向から睨みつける。
あまりの禍々しさと異様な気配に、悪党どもは激しい威圧感を覚え、その場ですくむようにして怯んだ。
その刹那の隙を、小猫は見逃さなかった。 身を極限まで低く沈めると、四足獣のごとき爆発的な速度で地面を蹴り、一瞬にして間合いを詰め寄る。
にゃははっ、と喉の奥で鈴の鳴るような笑い声が響いたと同時に、腰の奇形刀「猫じゃらし」が闇を奔った。 鋼鉄の無数の線が、怯んだ刺客たちの喉元や手首へ電光石火の速さで絡みつき、超高密度の肉削ぎによって骨から肉をごっそりと容赦なく引き剥がしていく。
血飛沫が夜霧に混じって激しく舞い散るなか、小猫はさらに残る敵の懐へ足音もなく滑り込むと、引き抜いた脇差でその心臓を正確に突き刺し、無残な死へと至らしめた。
小猫は毛皮の襟巻きを夜風になびかせ、返り血を浴びた顔のまま、愛刀の歪な呪いとその名にかけた劇的な独白を夜の底へと静かに響かせた。
「どんなに凶暴な野良犬だってさ、この『猫じゃらし』でひとたびあやされちまえば、あとはあの世で大人しく丸くなるしかねえんだよ」




