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【 送り狼 】灰原九郎

【 送り狼(おくりおおかみ) 】


灰原九郎(はいばらくろう)


『佐渡相川の金山契り』


慶長年間の佐渡・相川。一攫千金を狙う金掘、職人、お尋ね者が命懸けで稼ぎ、浪費する。人間の欲が形を成したような、狂気の地であった。泥の匂いと、採掘された金銀を巡る闇の抗争が、夜な夜な血を呼ぶ。酒の抜けない頭で、灰原九郎は相川の場末、煤けた飯盛旅籠の軒下をふらついた。


薄汚れた灰色の着流し。埃まみれの総髪。


肉体は、無駄な脂肪を一切削ぎ落とした枯れ木のようであった。皮膚のすぐ下には、何百回も叩き鍛えられた鉄棒のような筋が異様に蠢いている。だが、だらしなく緩んだ口元には、下心に満ちた生温かい笑みが張り付いていた。


「おい、そこの器量良し。これからどこの宿へ行く。夜道は物そうでいけねえ、俺が優しく送ってやろうじゃないか。あわよくば、朝まで一肌脱いで温め合おうじゃねえか」


九郎は、路地を小走りに抜けていく女の前に、ぬうと大きな影のように立ち塞がった。騙してきた女の数から得た九郎の勘が、目の前の獲物を上物だと告げていた。だが、その女――お凛は、九郎が手を伸ばすより早く、懐から一本の鉄の小刀を抜き放った。ぎらりとした銀光が、九郎の鼻先をかすめる。


「退きなさい、野良犬! ――私は大崎陣内の娘、お凛。その薄汚い手で私に触れれば、この場で喉笛を突き通します!」


月光を弾いた刃先は、九郎の皮膚からわずか紙一重の位置でぴたりと止まっていた。激しく上下する肩。喉の奥で鳴る、引き絞るような乱れた呼吸。お凛の双眸は、絶望的な逃走の最中、むき出しの恐怖と焦燥に濡れながらも、夜の闇を烈烈たる強光で射抜いていた。九郎は引き結ばれた彼女の唇と、切っ先を突きつける細い手の甲に、うっすらと滲む泥と汗を見る。


「おいおい、いきなり光もん出すとはとんだ跳ねっ返りだ」


九郎は首をすくめ、おどけたように両手を上げてみせた。その口元にはなおも薄笑いが張り付いているが、双眸の奥だけは、お凛の網膜に焼き付いた命の灯火を冷徹に値探っている。その名乗りがはったりではないことは、小刀を握る指の、骨が白むほどの力感で分かった。彼女の父・大崎陣内は、相川を揺るがす莫大な新金脈を発見した老練な山師であった。だが、その利権を独占せんとする金山役所の役人の罠に嵌められ、父親は獄死。新金脈の場所を記した極秘の山図を懐に抱え、お凛は夜を徹して逃亡を続けていたのだ。幕府の強烈な差配によって家を追われ、その手先どもに追われながらも、必死に走る彼女の背筋は一本の竹のように真っ直ぐに伸びている。


直後、路地の角から、重く統率された足音がどっと押し寄せてきた。現れたのは、非道な役人が金で飼い慣らす、戦場の構えを崩さぬ凄腕の浪人衆。鉱山が闇に伏せる、無慈悲な刺客たちであった。手にした長脇差の刃先は平に寝ており、確実に人を屠るための呼吸を宿している。


「大崎の小娘、そこまでだ。山図を出せば、なまくらで一突き、苦しまずに逝かせてやりぞ」


十数人の凶刃に包囲され、お凛の細い手首が、ほんの微かに震えた。だが、彼女は隣に立つ九郎に目もくれず、凍りつくような声一つ上げなかった。それどころか、震える手で小刀をさらに強く握り直し、死地と知りながら、自ら浪人衆の刃の渦へ飛び込もうと一歩を踏み出した。九郎の動きが止まった。だらしなかった色欲の膜が、その一瞬で完全に剥ぎ取られる。十数人の刺客を前にして、この小娘は命乞いすら口にしない。助けなど求めていない。ただ自らの足で、死地へ踏み込もうとしている。狂気じみた相川の闇に屹立する、一本の若竹のような立ち姿であった。九郎の胸の奥で、冷え切っていた何かが、不意に小さく震えた。痛覚もなく、人の情も忘れたはずの肉体が、他者の命の輝きに戦慄している。ただ、その折れぬ誇りの美しさに、どうしようもなく目を奪われていた。ここでこの誇りが理不尽に踏みつぶされることだけは、我慢がならなかった。


九郎はお凛の肩を乱暴に掴むと、近くの廃坑の、腐りかけた木枠の陰へと強引に放り込んだ。


「な、何を――!」


お凛が体勢を崩しながらも、なお小刀を握り直して飛び出そうとするのを、九郎は大きな身体で遮るように立ち塞がった。


「すっこんでいろ。……余計な牙を立てるんじゃねえぞ」


それは、お凛の無謀な突撃を止めるための、彼なりの不器用な制止だった。九郎は振り返り、ふらふらとした足取りで、鋭利な殺気を放つ刺客どもの前に出た。煤けた灰色の背中が、夜風に激しく翻る。九郎は答えない。ただ、懐からゆっくりと、その銘なき白刃を引き抜いた。


反りの浅い、尋常ならざる長鋒。


刃文は、幾重にも重なる狼の牙のごとき逆がかりの互の目。


鈍く黒ずんだ地鉄が、妖しい冴えを見せる名刀。


――『送り狼』。


その顔には、再び、緊張感の欠片もない締まりのない薄笑いが戻っていた。


「お、お前たち、待ってくれ……。俺はただ、このお嬢さんと夜伽をひと差し、交わしたくてよぉ……」


腰を抜かしたように膝をがくつかせ、だらりと両腕をぶら下げる九郎。そのあまりに無防備な佇まいに、刺客どもの刃線が一瞬だけ戸惑うように揺らいだ。その瞬間、九郎の身体が鋼の罠のように弾けた。勘。それだけで、殺到する凶刃の筋道を見切る。ドス、という肉を抉る重い音が響いた。九郎の『送り狼』が、先頭の喉笛を下から貫き、引き抜くと同時に二人目の胴を真横に両断する。だが、流石は役人の飼う刺客たちであった。動じず、すぐさま三人がかりで九郎の四肢を封じにかかる。タガネで穿つがごとき、冷徹な一太刀が、九郎の背を、肩を、深く深く切り裂いた。バリ、と骨を削る不快な音が響き、どど黒い血が噴き出す。だが、九郎の眉は微塵も動かない。普通なら絶叫し、刀を落とすはずの深手。しかし九郎の肉体には痛覚が存在しない。脳が異変を感知しないため、彼の筋肉は弛緩することも、恐怖で縮こまることもなかった。肉を切らせて、骨を断つ――いや、彼は自らの肉が切られていることすら意識していない。肩の肉が裂け、骨が露出しても、九郎の太刀筋は一寸の狂いもなく加速する。逆に、九郎のあまりの無反応さと、狂ったように正確な動きに、刺客たちの目が驚愕に見開かれた。


「化け物め……!」


刺客の一人が恐怖に声を漏らした瞬間、肉厚の刃が骨の抵抗を一切受け流し、狂ったように肉を裂いた。九郎の刃が弧を描くたび、刺客たちの首が音を立てて転がった。わずか、三息。手強い刺客たちの死体が、相川の赤土をどす黒く染めていく。九郎は立ち尽くし、自身の肩から溢れる血を気にも留めず、死体の衣服で白刃の血を無造作に拭った。静寂の戻った死地で刀を収めると、再びだらしない薄笑いを顔に張り付け、廃坑の陰から出てきたお凛をねめ回した。


「……へっ、片付いたぜ。さあ、さっき言った通り、お前さんの行く先まで送ってやる。お礼は、その後のお楽しみってことでどうだ?」


お凛は、自身の血と敵の血で濡れそぼりながらも、化け物のように佇む九郎を前にしても、その背筋を曲げなかった。わらじをしっかりと踏みしめ、小刀を握ったまま、九郎の目を真っ直ぐに見据える。


「……ついてきなさい。ただし、一歩でも私に近づいたら刺します」


「はは、怖いねぇ。これじゃあ寄り添うこともできやしねえ」


九郎はだらしなく肩をすくめながらも、偏屈な一歩の距離を保ち、彼女の後ろを静かに従った。夜明け前。お凛の目指す、山を越えた先にある古い隠れ家に二人は辿り着いた。お凛の帰りを待っていた数人の護衛たちが、息を切らせて駆け寄ってくる.彼らもまた、役人の追手と激しく刃を交え、満身創痍の体でありながらお凛の無事を喜んだ。だが、新金脈を巡る闇の抗争は、いまだ始まったばかりであり、この隠れ家すら決して安全な場所ではない。お凛は振り返り、九郎の下心を拒絶するように、固く閉ざされた玄関の前に立った。


「ここまでよ。送ってもらったことだけは、感謝します」


「へっ、やっぱりお預けか。送り狼の伝承じゃあ、無事に送り届けたら『お礼の作法』ってのが決まってるんだがねぇ。塩か、それともお前さんが履いてるわらじの片方でもポイと投げてくれりゃ、俺も大人しく山へ帰るんだが……、それとも――」


九郎は言葉を濁し、にやにやとした薄笑いを浮かべたまま、お凛の顔を覗き込んだ。そのだらしない視線の奥には、彼女の出方を愉しむような、底暗い獣の光が揺れている。お凛は一瞬、きょとんとした顔をしたが、すぐにその凛とした顔を崩さぬまま、足元のわらじを片方、器用に脱いで九郎の胸へとポイと投げつけた。


「……これで満足?」


九郎は飛んできたわらじを片手でひょいと受け止めると、それを愛おしそうに懐へと仕舞い込んだ。底暗い朝靄のなか、九郎はお凛の前に一歩、にじり寄った。


「だがよ、お嬢さん。このわらじの片割れは、どうするんだい」


お凛の目が、警戒に細くなる。


「……何が言いたいの」


「片方だけじゃあ、まともに走れねえだろう。次に出会う時、そのもう片方を俺に放り投げるか……それとも、俺の手でその細い足に履かせてやるか。どっちにしろ、近いうちにまた、俺がお前さんを送り届けるってことさ」


お凛は口元をきつく結んだ。だが、その視線は逸らさなかった。九郎の言葉にある再会の約束を、その傲慢なまでの意思表示を、お凛は確かに理解していた。大崎陣内の娘としての誇りと、冷徹な現実が待つこれからの逃避行において、それを拒むこともしなかった。満身創痍の護衛がいるとはいえ、抗争の渦中に一人残される身。口にこそ出さないが、この気まぐれな化け物が、なんとなく自分を助けてくれればありがたい、と内心では拒まずに受け入れていた。


「じゃあな、お嬢さん」


古き伝承が言う。送り狼が背後についている間は、山に潜むいかなる邪悪な妖怪も近寄ることはできない、と。それは、法を守る者にのみ大いなる守護であった。


そして、獣を従えるその唯一の法とは、恐怖に負けて転ばぬこと――己を律する、強靱な意志の力に他ならない。これからもお凛がその強き意志を示すならば、気まぐれな狼は、それに答えるだろう。

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