【 無供養御前刀】猪股でん五郎
【 無供養御前刀 】
猪股でん五郎
『投げ込み寺の落ち穂拾い』
吉原遊郭の華やぎは、ここまで届かない。
そこは衣装を剥ぎ取られ、裸同然のまま穴に投げ込まれる遊女たちの奈落であった。引き取り手なき死骸が、有縁無縁の区別もなく折り重なる。
三ノ輪、浄閑寺。
幕府の強烈な差配も追いつかぬ八百八町のどん底は、雨上がりの泥濘となって、死臭とともにぶつぶつと泡立っている。その泥の中に、両手を突っ込んでいる男がいた。
猪股でん五郎。
生まれ故郷の泥臭さを残したおぼこい顔立ち。困ったようにへの字に曲がった眉毛。かつて故郷を襲った、容赦なき一揆の鎮圧。あの生き埋めの地獄から生還し、艶を失って白茶けた霜振る髪。
男は夜霧に濡れながら、黙々と死体を漁っていた。冷え切った死骸の、まだ強張らぬ指を一本ずつ無造作にへし折る。爪の間にまで指先をねじ込み、泥にまみれた髪を毟るようにして、遊女が生前に隠したはずの金目の簪や、鼈甲の櫛を探り当てた。
死臭の染みついた懐からむき出しの肌へと手を這わせ、客からせしめた懐紙包みのお足や、切り銀を一つ残らず剥ぎ取る。死人の肉も、まとわりつく泥も、男にとってはただの土塊に過ぎない。それらをケチくさく毟り取るでん五郎にとって、ここは弔いの場ではなかった。ただ収穫を待つ秋の畑と変わりなく、死骸から金品を掘り起こす手つきは、作物を引き抜く百姓のそれそのものであった。
「もったいねえな、死んでしまえばただの泥だ。着物も泥塗れだ。洗えばまだ使えるだにな」
感情の欠落したずーずー弁を呟きながら、冷酷な手つきで硬直した胸元をまさぐる。その時、でん五郎の指先が、死骸の山の底で、他とは違う奇妙な硬さに突き当たった。
引きずり出したのは、つるりと剃り上げた頭を血に染めた、変わり果てた坊主の死骸であった。その坊主の胸元には、柄を泥まみれにした一振りの刀が、無造作に、深く突き刺さったままになっていた。何者かに刺殺され、そのまま刀ごと死骸の山へと蹴り込まれたのだろう。
でん五郎がその柄を掴み、肉の腐った泥から引きぬくと、刀身は弔われぬ死者の怨嗟を吸い尽くしたかのように、鈍く昏い光を放っていた。
──名を。
【 無供養御前刀 】
かつていかなる刀工が鍛え、どのような血を吸ってきたのかは分からない。ただ、坊主を貫いていたその一振りを、でん五郎はただの「重くて頑丈な鉄の棒」として泥の中から引きぬいた。
腰に差すでもなく、ただ獲物を見つけた百姓のように無造作に掴み取る。その時、境内の奥から、ぬうっと異様な影が這い出してきた。
夜な夜な辻に立ち、人を人とも思わぬ冷徹な刃を振るってきた凄腕の辻斬り。男の眼光は、焦燥と冷酷さに引き絞られていた。
この男こそ、つい先刻、吉原の裏手で利害の絡んだ件の坊主を刺殺した張本人であった。死体をこの投げ込み寺へ投げ捨てたものの、己の得物である刀を坊主の胸元に突き刺したまま、粗忽にも現場を離れてしまったことに気づき、慌てて闇夜を戻ってきたのだ。証拠となる愛刀を回収し、悪事を完全に闇へ葬り去るために。
だが、男は目撃した。見ず知らずの間抜け面をした男が、今まさに坊主の死体から己の刀を引き抜いた瞬間を。
男の眉が、不快げにぴくりと動いた。驚きはない。ただ、己の不始末を知る生き証人は、またたく間もなく切り刻んで口を封じるのみ。それ以上の思考を放棄した殺戮の亡者として、男は無言のまま、でん五郎を一撃のもとに両断する構えを取る。その身体から、容赦のない確実な殺気が立ち上った。
でん五郎はおぼこい顔のまま、腰を落とした。
「せっかくの収穫の邪魔だだ」
でん五郎は先ほど坊主の死体から引きぬいたばかりの刀を、使い慣れた鍬のように構え、静かに見据える。両者の間を、凍りつくような沈黙が支配した。
冷徹な辻斬りの双眸から放たれる殺気は、夜霧さえも切り裂くかのように鋭い。いつ、いかなる角度から死線が走るか、一寸先は肉塊と化す奈落の淵。対するでん五郎は、ただ泥まみれの足場を確かめるように腰を落としている。
その構えには武芸の型などひとかけらもなく、ただ硬い土壌を穿つ百姓の不格好な執念だけが凝縮されていた。殺気と狂気がぶつかり合い、ただの沈黙が、肉を削ぎ落とするほどの重圧へと変貌していく。
互いの呼吸さえ聞こえぬ。衣類の擦れる音すら絶え、時が止まったかのような、極限の緊迫。その緊迫が、張り詰めた糸のように引き絞られ、破裂せんばかりに達した、その瞬間。
──ぶうっ。
湿った境内の静寂を、あまりにも間の抜けた、濁った音が容赦なく引き裂いた。でん五郎が屁をこいたのである。
張り詰めていた死線が、その一音であっけなく霧散した。凄腕の辻斬りという、研ぎ澄まされた殺人剣の前に、人間の最も泥臭く、最も下俗な生の実感が投げつけられた。
「あ、屁が出ちまった、ハハハ」
でん五郎がのんきに笑ったその刹那、凄腕の辻斬りが出し抜けに動いた。凄絶な速さの一撃が、抜き打ちにでん五郎の首筋へと殺到する。
だが、でん五郎の野生の勘は、さらにその上をいった。野暮ななりからは想像もつかぬ、地獄の泥底で培われた末恐ろしいまでの速さと力。でん五郎は鍬を振り下ろすかのように、無供養御前刀を凄まじい一閃で叩き落とした。
ガキィンッ!
辻斬りの放った必殺の刃を、根元から叩き落とする。同時に、泥を穿つその一閃は止まらない。
百姓が硬い土壌を叩き割るように、容赦のない一太刀が辻斬りの頭部を無造作に、深く、真っ二つに裂き割った。でん五郎は、泥の中に無様に転がった男の姿をまじまじと見下ろした。割れた頭から溢れるものは、彼の目にはただの泥と変わらない。
「割れた大根みてぇだ。畑の作物を台無しにされた気分だだ」
おぼこい顔にへの字の眉毛を歪め、ぼそりと吐き捨てる。
そのまま無造作に腰をかがめると、いまだ引き攣る辻斬りの懐へ平然と手をねじ込み、溢れ出た血にまみれた小粒や一分銀を一つ残らず毟り取った。どれほど腕の立つ男だろうが、死ねばただの物言わぬ土塊。懐から奪えるだけの金をすべて毟り取り、その血塗れた肌から手を引き抜く。
だが、生者の刃なら先を読んで鍬で叩き割ればすむが、死んだ奴が幽霊となって枕元に這い出てくるのだけは、どうにも割り切れず、始末が悪い。散々その身を漁っておきながら、ただそれだけをひどく億劫に思い、でん五郎はへの字の眉を歪めた。
「おいらは怖がりだで、ばけてでねぇでくんろな」




