【 隠し鉄 鴉】三影吟
【 隠し鉄 鴉】
三影吟『奥山奈落』
寛永十九年、秋。
徳川の天下なお盤石ならざる草創の江戸。その最も深い吹き溜まりたる浅草寺の裏手には、底の知れぬ泥濘が広がっていた。
月の光すら届かぬ真っ暗闇の湿地である。立ちこめる大気は、腐った泥の底から湧き上がるような、じっとりとした死臭を孕む。一歩足を踏み入れれば、音もなく五体を吸い込まれて生きては戻れぬ底なしの沼地であった。
だが、この世の地獄のさらに底、漆黒の帳の奥には、常軌を逸した怪異が蠢いていた。
夜な夜な、その闇の深淵へ吸い込まれていく奇妙な影があった。身なりの良い武家が人目を忍んで泥に塗れ、あるいは、骨と皮ばかりに痩せ衰えて生きながら腐れ落ちていくような重い労瘵の病み人が、何かに憑かれたように這い進んでいく。彼らが泥濘の奥で貪るのは、いかなる大病をも一瞬にして癒やし、極楽の幻覚を見せるという、正体不明の御禁制の秘薬「回生散」であった。
ひと口啜れば、脳髄の芯が痺れに弾け、あらゆる病苦も現世の地獄も瞬時に霧散する。だが、その薬を三日断てば、骨の髄から狂い悶え、己の肉を掻き毟りながら凄惨な死を迎えるという。
一体、誰が、いかなる妄執を以て、この悪魔の如き劇薬を江戸の暗黒に流し込んでいるのか。しかも、この血生臭い噂の背後には、お上の治世を根底から揺るがす天下転覆の陰謀が蠢いているという、不気味な密告が公儀に届いていた。大身の旗本や各大名家の重臣までもが、すでにその薬の奴隷となり、闇の血判を押して加担しているという。
肉を削ぐような張り詰めた静寂のなか、泥濘の闇をじっと見すえる一対の冷酷な眼光があった。暗殺の命を受け、素性を隠してこの不浄の巣窟へと這入る男。
男の名は、
三影吟。
人並みよりは一寸ほど高いかと思われる背格好。贅肉というものを、あたかも彫刻師が鑿で抉り取ったかのように徹底して削ぎ落としたその五体は、風雨に晒され、ひび割れた黒渋色の岩塊を思わせた。そのはだけた胸元から覗く肉体は、鉄を鍛え上げたような、どす黒い威圧感を放っている。
その正体は、大手門の警護を装う、老中・大目付直属の「公儀隠密・山鴉」。
手にする得物は、
【 隠し鉄 鴉 】。
南蛮の精微な発条と烏頭の麻痺毒を仕込んだ、幕府公金による公儀極秘の暗殺道具であった。
勧善懲悪の正義も、邪教への義憤も、山鴉には何の意味もない。ただ、奈落の底で蠢く影の正体を突き止め、天下転覆の証拠を押さえ、その場で処分する。それだけが吟のすべてであった。
獲物の足音が、すぐそこまで迫っている。吟は唇の端をわずかに吊り上げ、己の殺気を完全に泥の底へと沈めた。
◇
浅草の夜。泥を捏ねたような薄暗い居酒の軒先で、宿無しの身に落ちた男たちと親しげに、濁り酒を酌み交わす男がいる。
寛永の大飢饉で身寄りをなくし、博打にも負けて食い詰めた――そんな哀れな浪人の身の上話を、吟はぽつり、ぽつりと漏らしていく。周囲の男たちは「全くだ、米ばかりが高くなりやがって、俺たちに死ねってのか」と同情し、濁り酒を吟の杯へ注ぎ足した。
その店の片隅。薄汚れた頭巾を被った男が、じっと吟の話に耳を傾けていた。男は深く頷きながら、獲物をねめ回すようなねっとりとした眼光を頭巾の奥に潜ませ、吟の隣へと滑り込んできた。男の目は妙に据わり、瞳の奥にどす黒い狂気が揺れている。
「辛いな、お前さん。ただただ理不尽に飢え、誰も助けちゃくれねえ。このまま路頭で野垂れ死ぬのを待つだけなんて、哀れな話だ」
頭巾の奥の濁った瞳が、憐れむように吟の顔をねめ回す。そのねっとりとした声音、ただの宿無しがこぼす安易な同情ではない。吟の研ぎ澄まされた勘が、微かに跳ね上がった。こいつもしかして――。
吟は濁った目で男を見つめ返し、飢え死にへの恐怖をただ瞳に宿してみせる。脳髄は氷の如く冷え切ったまま、男の次の一言を待った。
「そうだ。お上も神仏も、その檻から救ってはくれぬ。だが、幽世への扉は、すぐそこに開いている」
男の口から漏れた、不浄の教え。その刹那、吟の胸中に冷徹なる確信が奔った。かかった。こいつは邪教の放った間者だ。
男は周囲の目の隙間を確認すると、懐から小さな紙包みを取り出した。開いた包みから覗いたのは、妙に赤みがかった、不気味な黒い粉末。回生散であった。
「これを、試してみるか。現世の苦痛がすべて吹き飛ぶ。極楽の光が、脳髄の奥で弾けるぞ」
男の指先がかすかに震えている。蝦蟇の毒を用いた試作の薬がもたらす、狂乱の痙攣であった。吟はその微細な肉の揺れを見すえ、ごくりと喉を鳴らした。
「……本当に、救われるのか」
「ついて来い。信じる者にだけ、その秘薬の源を授けよう」
頭巾の男は満足げに唇を歪めると、店の灯火から逃れるように、暗い路地へと歩き出した。
吟はその足跡を追う。浅草寺の境内を抜けると、道幅は急激に狭まり、明かりの類いは完全に途絶えた。一寸先は闇。ただ、男の踏む泥の音だけが響いている。
男は時折、不自然に立ち止まり、振り返った。尾行がいらぬか、奉行所の役人が潜んでおらぬかを確認する、老獪な隠蔽の動き。薬の幻覚に怯えるように虚空を睨む男に対し、吟はその都度、足をもつれさせるように遅れ、ただの怯えた追従者を演じきった。
やがて、人気の途絶えた崩れ土塀の裏へと、男が誘うように踏み込んだ。行き止まり。四方を崩れた土壁と生い茂る雑草に囲まれた、孤立した闇の空間であった。
「ここで待て。間もなく、お前を幽世へ導く者が……」
頭巾の男が振り返り、そう告げようとした、まさにその瞬間。
吟の放つ空気が、凄絶な殺気へと一変した。凡夫の脆さは消え失せ、底の知れぬ漆黒の気配が、男の視界を圧伏した。
闇を切り裂く、冷徹な鉄の擦れる音。
男が驚愕するよりも早く、【 隠し鉄 鴉 】の鋼の刃が、喉元へ音もなく突きつけられていた。
「案内はここまででいい。お前たちの巣窟、生身仏の仕事場へ続く穴はどこだ」
吟の低い、地獄の底から響くような声が、男の鼓膜を震わせた。刃の切っ先が、男の喉の皮膚をわずかに圧する。浸み出す烏頭の麻痺毒が、男の正気を恐怖で完全に縛り上げていった。
「あ、浅草寺の真裏……生身仏を彫る、彫刻師の仕事場だ。その床下、仏像の台座の裏に、地下へ下りる木戸がある……見張りは二人……」
男は白目を剥きながら、震える声で全てを吐き出した。
「上出来だ」
吟の呟きと同時に、黒き刃が僅かに男の首筋を掠める。毒は音もなく男の五体を駆け巡り、男は叫ぶことも、崩れ落ちる音を立てることも叶わず、立ったまま全身の筋を強張らせて物言わぬ肉塊と化した。吟はその死体を崩れ土塀の雑草の奥へと蹴り込み、即座に姿を消した。
◇
漆黒の影が、浅草寺の真裏に建つ薄暗い仕事場の屋根へと滑り込む。常に強烈な線香の煙が満ちるその床下へ、吟は一匹の這う虫のごとく無音で潜入した。
仏像の台座の裏に隠された、地下へ続く木戸。吟の鋭敏な勘は、闇の奥に立つ二人の気配を捉えていた。衣服の隙間から覗く肌に、刑場で転がる死体から剥いだ血膿染みの麻布を巻きつけた、幽世帰一宗の狂信者どもである。
彼らが一寸先の闇に潜む死神の存在に気づく猶予はなかった。
吟の袖口から、二条の極細の鋼線が無音で射出された。南蛮発条によって放たれた鋼線は夜陰を奔り、二人の信者の喉へと正確無比に巻きつく。吟が手元の黒鉄の柄を微かにねじると、鋼線は肉を噛む速度で瞬時に引き絞られた。悲鳴を上げる隙すら与えぬ。強靭な鋼の緊縛は一瞬にして喉笛を圧潰し、男たちの肉と皮を裂いて喉の奥深くへ食い込んでいった。
抵抗しようと悶く男たちの背後へ、吟の身体が音もなく滑り込む。双腕が両側の頭部を左右から冷徹に挟み込んだ。
直後、乾いた闇に、獣の骨でも噛み砕いたかのような鈍い破壊音が二度、響く。頸骨が根本からへし折れる音であった。
頭部をあらぬ方向へねじ曲げられた二人の信者は、床へ崩れ落ちる音を立てることも叶わぬまま、立ったまま息絶えてただの肉塊と化した。一切の無駄な息遣いすら立てず、闇のなかで公儀隠密・山鴉の暗殺術が完了した。
木戸を開け、冷たい風の吹き抜ける長い地下の隠れ穴を、吟は足音を消して下りていった。突き当たりにある重厚な鉄の扉の隙間から、凄惨な死臭と、それに混ざり合う香木の甘い匂いが漂ってくる。吟は扉を僅かに押し開け、中の様子を覗き見た。
そこで吟は、この教団の名が「幽世帰一宗」であることを、壁に掲げられた血塗られた祭壇の文字から初めて知ることとなる。
掲げられた布には、教団の印たる『逆さ三つ大字』がどす黒く浮かび上がっていた。太い筆の炭に解体した人間の血を混ぜて殴り書きされたその紋様は、単なる文字ではない。戦場で生首を切り落とし、手足をだらりと広げて泥の中に転がる人間の死体そのものの象形であり、それが逆さまに三つ重なり足が絡み合う様は、刑場で死体を積み重ねる「重ね胴」の惨状そのものを模していた。
地下の試し場。そこに、一人の女が縛り付けられていた。親の薬代のため、自ら講に身を寄せた貧民の娘、お初である。彼女は生贄の器――教団の隠語でいう「四足」、あるいは刑場から流れてくる肉塊と同じく「小塚原の鯨」として、無残に手足を木製の台座に縛り付けられていた。
地下堂を照らす油皿の灯火は、菜種油ではない。非人頭から買い叩いた「人間の脂肪」を煮詰めたものを灯している。そのため、地下の空気は常にどす黒く煤け、息を吸うだけで肺の奥に、人の肉が焦げる特有の甘ったるく油っこい悪臭がべっとりと張り付く。この骨髄の煤が、お初の白い肌や、信徒たちの不浄な包帯を容赦なく黒く汚していた。
周囲では、不浄の麻布を全身に巻いた半裸の信者たちが、怪しげな呪物を身に着けて痙攣するように蠢き、生々しい人間の肉塊を餓鬼のごとく貪り食っている。泥阿片と曼陀羅華の毒によって完全に脳髄を破壊された彼らの目には、血濡れた地下堂が黄金の極楽浄土として映っているのだ。
その狂乱のただ中、虚ろな笑いを浮かべた一人の信者が、ぎらついた刃をお初の面へと近づけた。お初の目玉を抉り、まさに貪り喰らおうとしたその刹那、信者はぎらつく狂気をその瞳に滾らせ、美濃伝の古刀の切っ先でお初のはだけた胸元を無慈悲に突き刺した。
「幽世の神へ、その柔肌を捧げよ」
肉を裂く鈍い音とともに、お初のはだけた肉体へ、容赦なく冷たい鋼が引き下ろされた。じわじわと噴き出す鮮血が、黒い煤に汚れた彼女の生肌へと、教団の印たる『逆さ三つ大字』の歪んだ切り傷を刻みつけてゆく。
お初の口から、地下堂の天井を震わせる凄絶な絶叫がほとばしる。生きながら呪いの肉塊にされる恐怖と、皮膚を削がれる激痛。そのお初が絶望の極みで声を枯らした、まさにその瞬間であった。
闇の奥から、凄じき風切り音が轟いた。
吟の袖口より放たれた黒鉄の礫が、寸分の狂いもなく刃を持った信者の脳天を直撃したのである。南蛮発条の強烈な縮力が生んだ鉄塊は、鈍い破壊音とともに男の頭蓋を木端微塵に粉砕して吹き飛ばした。床に飛び散るは、生々しい血と脳漿であった。
「何奴だ」
「曲者だ」
地下堂は一瞬にして血煙の巻く修羅場と化した。不意の死に幻覚から叩き起こされた狂信者どもは、血錆に塗れた古刀を抜き、狂ったように周囲を鋭い眼で見回す。
しかし、彼らが構える古刀の刃先が切り裂くのは、ただ人間の脂肪が燃える、どす黒い煤煙のみであった。一流の山鴉たる三影吟は、その気配を完全に奈落の闇へと溶け込ませており、誰一人としてその姿を捉えることはできない。
混乱の極みに達した儀式の場を、一条の漆黒の影が疾走した。吟はお初の縄を瞬時に断ち切り、その頑強な腕でお初を軽々と抱え上げた。
そのまま地を滑るように進み、血肉の池の奥――禍々しい髑髏の数珠をまとい、半裸の肉体に呪術の装飾をこれでもかと着飾った教祖の、まさに眼前に、吟は忽然として姿を現した。
教祖が羽織る皮の羽織は、大坂の陣で飢え死にした行き倒れや、討ち取られた無宿人の背中の皮を剥ぎ、乾かして粗末な麻糸で繋ぎ合わせただけの、未だ人の脂が染み出す代物であった。彼が身を揺らすたび、骨の数珠が乾いた音を立て、獣の乾皮に似た生臭い匂いが周囲に飛び散る。
そこには、氷の裂けるがごとき静寂があった。
周囲では未だ信者どもが狂い叫び、古刀を振り回して得体の知れぬ敵を探している。彼らが構えるのは、関ヶ原や大坂の陣の折、泥水と血を吸ったまま刀身全体が赤黒い「血錆」に覆われた美濃伝の古刀であった。刃先には何度も人間を斬ったことで、落としきれない人間の脂が黄色く固着している。一太刀浴びればその脂と錆の毒によって、例えかすり傷であっても傷口が即座に腐り、破傷風でのたうち回って死に至る凶器。
だが、この教祖の座す一画だけは、大気が氷結したかのように音の途絶えた異空間と化していた。教祖は、目の前に音もなく突っ立った男を仰ぎ見、息をのんだ。
男の顔には汗一滴、息の乱れ一つない。ただ、泥の底から見据えるような一対の冷酷な眼光――死骸をついばむ鴉のごとく冷徹な目だけが、じっと教祖の眉間を射抜いている。生きている人間のそれではない。公儀が飼い慣らした、冷徹な屠殺の獣の風貌であった。
「……な、何奴、だ。幽世の神に仕える、この身を……不浄の刃で穢す気か」
教祖の掠れた声が、泥の奥へ消えかける。
間髪入れず、吟の低い、地獄の底から響くような声が突き刺さる。
「俺は公儀の山鴉。不浄を払うただの羽音」
その一言が、静まり返った一画に凄絶な緊張感をもたらした。教祖の目が恐怖に大きく引きつり、呼吸が止まる。
吟は答えた直後、抱えたお初を背後へ庇うように僅かに半身になり、腰の【 隠し鉄 鴉 】の柄へじわりと五指をかけた。長年、鉄の得物を握り締め、幾人もの命を奪ってきた手のひらの、あの異常に固く盛り上がった肉が、黒鉄の冷たさと無音で噛み合う。地下の仄暗い灯火を吸って、漆黒の冷徹な光を放つ。
満を持した静寂の底から、吟の薄い唇が、再び静かに開かれた。
「お前のような不浄の者に、微笑む神仏など、この日ノ本にはおらぬ…」
――冷酷無比なるその断罪が、地下堂の天井を震わせた、まさにその刹那であった。
吟の身体が、ゆらりと揺れた。
一歩。地を蹴る。
教祖が恐怖のあまり絶叫を上げるよりも早く、暗闇を裂いて漆黒の刃が奔った。肉を断つ手応えすら残さぬ、神速。
教祖は両目で虚空を睨んだまま、その首筋を真横に深く裂かれ、喉の奥から汚れた血を噴き上げた。烏頭の毒が瞬時に五体を駆け巡り、男は悲鳴を上げることも叶わず、立ったまま全身の筋を強張らせ、やがて打ち捨てられた骸のように「人の皮の羽織」を揺らしながら床へ崩れ落ち絶命した。
周囲の信者たちが、そのあまりの凄惨さに息を呑む一瞬の隙。
吟は再びお初を抱え上げると、骨髄の煤が巻く地下の闇へと同化した鴉の如く、仕事場の表へと音もなく脱出した。
◇
地下の血煙と人の脂肪が焦げる悪臭を置き去りにし、三影吟は一条の影となって仕事場の表へと躍り出た。
夜の浅草寺裏は、それまでの修羅場が嘘のように、ただ冷たい秋風が吹き抜ける不気味な静寂に満ちていた。
吟の頑強な腕から、泥濘の縁へと音もなく腰掛けさせられたお初は、未だ混濁する意識の中で、己の身に起きた悪夢を咀嚼できずにいた。はだけた胸元の傷口から流れる生温かい血と、尻の下から伝わる湿地の底冷えが、かろうじて現世の感覚を繋ぎ止めている。
闇を見つめる彼女には、もはや行く当てもなかった。親を失い、世の理不尽に嬲られ、恐怖の底で彼女は、骨髄の煤と人間の脂肪で黒く汚れた己の身体を抱きしめるように、ぽつりと言った。
「ここで、死んだほうが、良かった」
感情の失せた、乾いた声。しかしその直後、張り詰めていたものが決壊したように、彼女の目から大粒の涙が溢れ出した。声にならぬ慟哭が、静かな夜の湿地帯に響く。
その様子を、血の匂いを纏ったまま見つめていた三影吟は、刀の血を払い、静かに鞘へと収めた。
「……一緒に来るか」
冷徹な隠密の口から漏れた、唯一つの問いかけ。
激しく泣きじゃくるお初は、長い静寂の後、涙に濡れた顔を上げ、こくりと小さく頷いた。




