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【 鬼 髭 】 獅子倉 牙次郎

【 鬼 髭(おにひげ) 】


獅子倉 牙次郎(ししくらがじろう)


『鬼の獅子倉大立ち回り』


 抜けるような夏の青空が、江戸八百八町の屋根をじりじりと焼きつけていた。 日本橋吉原の大門外。照り返す白洲の熱気と陽炎のなかに、安油の爆ぜる臭いと肥桶の不快な臭気がねっとりと立ち込めている。戦なき世となり、大名家の相次ぐ改易で禄を失った野良犬どもが、行き場を失ってこの隔離空間の乾いた辻に吹き溜まっていた。 だが、ぎらつく陽光のした、ここには生の執着がどす黒くのたうっている。 忘八から、遣手、お針。そして、辻に落ちた紙の切れ端を拾い集めては再生紙の問屋に売り、その日を繋ぐ紙屑拾い。最底辺の無宿人たちの生々しい息遣いが、強い日差しに晒されながらひしめき合っていた。


 寛永のある夏、正午を回った頃のことであった。 照りつける陽光の強さに、辻を歩く者の影さえ短くすぼまる時間。大門の影へと続く路地で、いつものように竹籠を背負った茂平が、遠くからこちらに気づいて片手を挙げた。


「おい、がじの旦那! 見ておくれよ、今日も極上の紙屑がこんなに拾えたんだ」


 歯の抜けた口元を歪めて親しげに笑いかけてくる。その皺だらけの顔には、最底辺ながらも精一杯に生きる人間の確かな営みがあった。 その白茶けた路地を大股で悠然と踏みしめていた男は、濃い顎髭をふっと緩め、腹の底から豪快に笑い返した。


 男の総髪は、野獣の如く逆立っている。 その顎には無頼の風格を漂わせる、針金のように硬く濃い髭が荒々しく生い茂り、色を失った唇の横には幾度もの死線を潜り抜けた証である裂け傷が歪に引きつり、見る者を気圧している。 だが、その眼差しには奇妙な静けさがあった。普段は傷ついた遊女にそっと手を差し伸べ、最底辺の裏方たちを気にかける、壮年の豪傑。


 その男こそ──


  獅 子 倉 牙 次 郎 (ししくら がじろう)


  武士の身分を捨て、奉行所の支配が及ばぬ吉原で、禿やお針、紙屑拾いといった最底辺の無宿人たちの生を陰から支える、裏社会の侠客の首領。 影すら消し去る踏み込みによって鍛え上げられた、鋼のような肉体が、衣服の擦れる音とともに波打つように躍動している。


 放置された荷車の影、背に負うた得物は、戦国の戦場をそのまま引き継いだ規格外の長大刀。


 ──名を、


 【 鬼 髭 】(おにひげ)


  という。 三尺に迫るその刀身は、戦国期に実戦のためだけに太く厚く、兜ごと脳天を叩き割る重量の凶器として鍛え上げられた代物だ。経年のなかで幾千の脂を吸い、鈍い銀色に曇った鋼の刃先には、荒々しく逆立つ波紋が焼き付けられ、まさに鬼が牙を剥くような凶兆を宿している。


「ははは、相変わらずいい目を持っていやがるな、茂平じいさん。だがよ、そんなに根を詰めると熱気にやられちまうぞ。たまには美味ぇ酒でも引っ掛けにいきやがれ」


「へへ、旦那にそう言ってもらえると、この老いぼれの骨にも妙な力が湧いてきますわい」


 二人は辻の片隅で、たわいもない冗談を言い合いながら、確かに親しく笑い合っていた。その穏やかなやり取りは、この奈落のような吉原において、唯一の救いのように見えた。


 ──だが、その平穏は、カサリと響いた乾いた紙屑の音とともに一瞬で吹き飛んだ。 話の最中、茂平が路傍に落ちたちぎれ紙を拾おうと、ふと屈み込んだ。ただそれだけのことだった。 だがその時、大門外は乗り物を降りて徒歩にて通るべしという触れをあえて踏みにじり、直参の傲りを誇示する武者振りのまま、馬を駆って辻をうろついていた旗本奴の視界に、その丸まった背中が映り込んだ。大名小路から放蕩の限りを尽くしにやってきた大身の旗本、神保主膳が、高い鞍の上から不快げに眉をひそめる。高い馬上から見下ろす奴らの眼に、地べたを這う無宿人は、馬の蹄を汚す泥塊に等しかった。


「不届き者が。武士の歩みを妨げるか」


 神保の鋭い威圧に、茂平は一瞬で血の気を失い、拾った紙屑をその場に落とした。地べたに額を何度も擦りつけ、みみっちい身体をより一層小さく丸める。


「め、滅相もございません、お、お許しを、お許しを……! おいらのような垢舐めが、お引き回しのお邪魔を……っ」


 さっきまでの笑顔は消え失せ、情けなく震える声で命乞いをし、必死に許しを請うた。だが、馬上の神保は冷酷な引きつった笑みを浮かべたまま、抜刀の銀光でまばゆい日差しを弾いた。 無造作に振り下ろされた神保の刃が、怯え引きつる茂平の首筋から肩口へと容赦なく食い込む。肉を断ち、鎖骨を砕く鈍い音が響いた。 老人はそれ以上の言葉を失い、切り裂かれた肉から鮮血を噴き上げ、どぶ泥のなかへと崩れ落ちた。ピクリとも動かない。ただ、背負った籠から白い紙屑が溢れ、泥水を赤く染めていくだけだった。


「茂平じいちゃん!」


 そのとき、物陰から叫び声とともに一人の幼い童が飛び出した。 必死の形相で倒れた老人にすがりつこうとした童の細い身体を、神保の冷酷な視線が捉える。 馬上の悪鬼は、何の躊躇もなく、返す刀でその小さな肉体を一文字に薙ぎ払った。 凄絶な風切り音。二尺半を超える長大刀が、童の胸元を深く、骨まで達する深さで切り裂いた。小さな身体が弾かれたように地面を転がり、渇いた土の上に叩きつけられる。


「武士の行く手を遮る虫ケラどもが。命を以て償うは当然のことよ」


 神保は抜いたばかりの刀の血を懐紙で平然と拭いながら、鼻で笑った。 上流の傲りが、ただ泥を這うだけの命を平然と圧し潰していた。錦切れを纏った畜生どもが振るう法外の凶刃。まばゆい陽光が照らすのは、天下の看板一枚で、地を這う者の肉を容赦なく引き裂く不条理の刃だった。


 駆け寄った牙次郎は膝を突き、どぶ泥にまみれた童の小さな身体を、その太い両腕で抱き上げた。 まだ温かい。だが、胸の傷口からは容赦なく生が流れ出ていく。童は、焦点の合わぬ眼を微かに動かし、牙次郎の黒縮緬の袖を小さな手で掴もうとした。その唇が微かに震え、何かを言い残そうとするかのように、喉の奥でひゅうひゅうと独り言のようにつぶやいた。 やがて、その小さな身体から完全に力が抜ける。


「……う、あああああッ!!」


 牙次郎の腹の底から、五臓六腑を狂わせる雷鳴のような咆哮が轟いた。 濃い顎髭を涙と血で濡らし、男は白日を仰いで号泣した。 かつて、御家の命という絶対の差配のした、直参の家臣として直立不動のまま、目の前で身内が理不尽に斬られるのをただ凝視するしかなかった。あの日、微動だにできず、刀の柄にかけた手を白く震えさせるだけだった己の無能。守るべき者を守れず、身分の壁に屈して牙を隠したあの日の血の味が、抱きかかえた童の冷たさとともに、五臓六腑の奥で燻る火薬となって爆発した。


「てめぇえらが、どんだけえらいんだあああっ!!」


 男の眸から光が消え、底知れぬ漆黒の穴となった。沸騰した五臓六腑から噴き上がる怒気だけが肉体を突き動かす。理不尽な不条理への激怒が、男から人間を剥ぎ取り、そこにはただ血を求める「鬼」だけが残されていた。 牙次郎は【鬼髭】を凄絶な覇気とともに引き抜いた。 神保が一糸乱れぬ手練れの太刀筋で突きを放つが、それを避ける素振りすら見せない。己の肉を盾と成し、肉鎧に深く刃を食い込ませながらも、歩みを止めずに距離を詰める。神保が色を失う暇もなく、至近距離から【鬼髭】の圧倒的な重量を真っ向から叩きつけ、その頭蓋を木端微塵に粉砕した。 脳漿と血が、真夏のまばゆい光の中に飛び散る。


「何だこの化け物は! 斬れ、斬り殺せ!」


 残りの旗本奴どもが逆上して一斉に襲いかかる。しかし牙次郎は、敵の連撃の合間を縫うような小細工は一切しなかった。ただ童の仇という一念だけで、斬りつけられ、突き刺され、肉を削がれながらも突進する。敵の刃ごと腕をへし折り、返す横一文字の薙ぎ払いで、悪党どもの胴を深く両断していった。


 肉を裂き、骨を砕く鈍い音が重なり、悪党どもは次々と渇いた土へ転がった。 だが、その騒ぎに気づいた奉行所の徒士どもが、抜身の槍をきらつかせながら大門外へ怒涛の如く押し寄せてきた。その数、数十。


「曲者だ! 囲め!」


 その背後、大門の陰から長屋の無宿人たちや若い者たちが、天秤棒や棍棒を握りしめて色めき立った。「がじさん、今助けるぞ!」 その怒号を聞いた瞬間、牙次郎は振り返り、割れんばかりの声で吠えた。


「すっこんでいろ、野郎ども! 手を出すな! これは、おれの戦さだ……っ!」


 底知れぬ凄まじい眼光が仲間を射抜く。吉原の吹き溜まりに生きる者たちを、公儀の連座という血の網から外すための、死を孕んだ咆哮。牙次郎は【鬼髭】を強く握り直し、一人で槍の嵐の中へ肉体を投じた。 技を捨て、身の護りを捨て、ただ敵の槍を掴んでは引きちぎり、斬り散らす。 しかし、押し寄せる兵の波は尽きない。無数の刃がその肉鎧を容赦なく削り取り、鮮血が噴水のように陽光の下で弾けた。


 ついに、数十の兵に完全に包囲され、一斉の地鳴りのような掛け声とともに、十数本の槍が牙次郎の胴体を深く、容赦なくぶすりと貫いた。 


「...がじさん……ッ!!」


 大門の陰から、お針の女たちや、風呂番の親父が、押し殺した慟哭とともに叫ぶ。 牙次郎の膝が、白茶けた地面に折れかける。だが、男は槍に貫かれ、そこからどっとどす黒い血を溢れさせながらも、無理やり膝を突っ張り、顔を上げて腹の底から豪快に笑った。その顔には、理不尽に抗う鬼の、凄絶な誇りが漲っていた。


「泣くんじゃねえ、野郎ども……!こんな理不尽な世の中に、おれは堂々と立って、上流の外道どもを地べたから見下してやるのさっ……! 」


「これがおれの本懐!一世一代の漢立ちよ……ッッッ!!!」


 カチリ、と。 牙次郎は最後の力を振り絞り、長大刀を鞘へと収めた。その音が、静まり返った大門外に妙に高く響いた。 そのまま、豪切たる漢は、槍ぶすまに貫かれたまま青空を仰ぎ、微動だにしなくなった。溢れ出る血が渇いた土に吸われ、急速に色を失っていく。


 ぎらぎらとした陽光の下、理不尽の世を見下ろすように立ち往生を遂げた鬼の骸は、威風堂々とそこにあり続け、陽炎の向こうへと静かに溶けて消えていった。


 ──この事件は、のちに江戸の庶民の間で『鬼の獅子倉大立ち回り』として長く語り継がれることとなる。 理不尽に抗い、情義のために命を咲かせた無頼の漢立ち。その壮絶な死に様は、八百八町の吹き溜まりで生きる者たちの心を激しく揺さぶり、やがて芝居小屋の掛け物や歌舞伎の狂言として仕立てられ、江戸中の喝采を浴びる伝説の物語となって伝わっていくのである。

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