【 踊り舞首 】 町屋 梟介
【 踊り舞首 (おどりまいくび) 】
町屋 梟介
『朝霧の血溜まり』
すべての境界線が白い乳白の帳に溶け落ち、音さえも吸い尽くされたような、夜明け前の朝霧。 しっとりと湿った気流が本所割下水の水面を這うたび、長屋の家並みは現世の幻のように霞み、江戸八百八町は生物の気配を拒絶するような、冷徹な静寂に支配されていく。
その白く明滅する霧の底、辻灯籠の影に、不気味なほど手足の長い細身の漢が佇んでいた。 ――町屋 梟介。 常にピリピリとした鋭い殺気をまとい、その両眼を油断なくギラつかせている、無宿の手練れだ。
梟介は、本所割下水の最底辺にひしめく無宿人たちの間で、細々とした闇取引の縄張りを握っていた。 彼は決して手広く商売を広げようとはしない。石橋を叩いて渡るが如き、極めて慎重な男だった。大きな野心は持たず、自分が確実に管理できる小さな生業だけを手堅く、確実に守り抜く。それが、天涯孤独の梟介がこの現世を確実に生き抜くための、彼なりの知恵であった。
しっとりと立ち込める朝霧の向こうから、不気味な気配がじわじわと路地を這い上がってきた。
石橋を叩いて渡る慎重な梟介は、わずかな風の淀み、そしていつもなら聞こえるはずの浮浪児たちの寝息が完全に消え失せていることに気づく。 霧の白濁に浮かび上がる己の「異常に長い手足の影」すらも、すでに複数の視線に縛り付けられている。
包囲されている。それも、ただの路地者ではない。
「……上等だ。そこにいるのは分かってんだよ。コソコソ隠れてねえで、ぬっと出てきなよ」
梟介が静かに声を響かせた瞬間、朝霧を割って、逃げ道を塞ぐように無言の影が這い出てきた。
姿を現したのは、数打物の打刀を構えた不逞の輩ども。 先頭に立つのは、冷徹な眼光を放つ手練れの刺客。霧に濡れた刀身を無造作に下げ、足元を完全に据えたまま、音もなく梟介を仕留める死の包囲網を狭めてくる。 熟練の暗殺者だけが持つ、圧倒的な強敵の威圧感がそこにはあった。
「町屋梟介。……その細長い五体ごと、朝霧の藻屑になれ」
冷徹な声とともに、じわじわと間合いを詰めてくる手下ども。 子供たちに裏切られ、この濃霧の街角で完全に孤立無援となった事実を突きつけられても、梟介の心は揺るがなかった。彼は臆病ゆえに慎重だったのではない。土壇場でいつでも死線を超える覚悟があるからこそ、平時は無駄な動きをしないだけなのだ。
逃げ場がないと察した瞬間、梟介の両目がカッと血走って見開かれ、その精神は完全に退路を断って腹を括った。ここで防戦に回れば、待っているのは犬死にだけだ。
「ククク……おらぁ、絶対に死なねえ。生き残るのは俺だ……!」
梟介がその長い右腕で懐から引き抜いたのは、【 踊り舞首 】。
手にした者を狂わせる、血を吸う妖刀の長剣である。
一斉に殺到する男たちの白刃に対し、梟介は異常に長い手足を伸ばし、まるで白昼夢の中で舞うかのように、滑らかに、そして美しく濡れた石畳の上を足拍子を踏んで踊り始めた。
次の瞬間、梟介の肉体が人間の限界を超えた挙動を見せる。 常人の骨格ではおよそ不可能な角度まで、その細い腰を限界を超えて激しく回転させたのだ。 激しくのたうつ独楽の軸の如き腰の捻りが、細身の肉体に凄まじい遠心力を生み出していく。
異常に長い両腕が遠心力で鋭くしなり、妖刀の長剣が朝霧を美しい真円に切り裂いた。
遠心力を極限まで上乗せされたその一撃は、音を置き去りにするほどの速度と破壊力を伴い、襲いかかった男の首を一撃で完璧に断ち切った。
骨を断たれた首が、勢いよく宙へ高く吹き飛ぶ。 あまりの速度に、切断面から血が噴き出すよりも早く朝霧の中を舞ったその生首は、くるくると、まるで歓喜に躍っているかのように見えた。
「――おい」
梟介は、目の前で自分の仲間が首を飛ばされ、言葉を失ってガタガタと震えている最後の男へと、長い手足をゆらりと向けた。
完全に悪鬼の覚悟を決めた梟介は、引きつった不気味な笑顔のまま、長剣の切先を男の喉元へと突きつける。
「俺と死の踊り(うたげ)でも踊るかぁい?」
刹那、梟介の腰が再び常軌を逸した回転を遂げる。 凄まじい遠心力を乗せた妖刀の長剣が、鋭い風鳴りを響かせて横一文字に払われた。
男の首が、勢いよく夜明けの空へと跳ね上がる。 白濁した朝霧の彼方へ向かって、切り離された首が激しくのたうち、くるくると、美しく踊るように空中を舞い飛んでいった。




