【 暁天照 】東雲 景虎
【 暁天照 (あまてらす) 】
東雲 景虎
『暁の剣聖』
夜明けの空を意味する苗字を背負い、毎朝の素振りと己の限界に挑む寒稽古を一日たりとも欠かさない、どこまでも真面目で規律や礼儀を重んじる快活な好青年だ。 彼が何よりも重んじるのは、「お天道様に恥じぬ生き方」。主君や己の信念に決して嘘をつかず、常に正しく、清廉潔白に生きることこそが彼の絶対の美学であった。
しかし、その本質は常人の理解を超えていた。 己の正義を貫くためならば一片の躊躇もなく、命のやり取りすらも「お天道様の下で行う清々しい修行」のように捉えている、純粋ゆえの恐るべき狂気――生まれついての人非人であった。
景虎が強靭な順手で、厳かに腰から引き抜いたのは、二尺四寸五分の上品な打刀。 白く輝く豪壮な濤瀾刃が、黎明の光を反射して厳かにきらめく。
――注文新刀【 暁天照 】である。
かつて一度も戦場に汚れず、ただひたすらに「邪悪を祓う」ためだけに鍛え上げられた、一切の迷いなき光の鋼だ。 景虎は、ただお天道様に恥じぬ己の正義を貫くためだけに、一切の迷いなく刀を正中線へと構えた。
その構えは無駄が一切なく、鳥肌が立つほどに美しい。 大きく見開かれた両の眼は、これから始まる「最高の果し合い」への歓喜でぎらぎらと輝いていた。彼はいつでも全力、すなわち手加減という概念を持ち合わせていない。
『 檻のなかの守護』
彼がこれほどまでに研ぎ澄まされた刃を抜き、現世の修羅場に身を置くのには、幕府の巨大な闇と、一人の男の冷徹な計算が関係していた。
ことの起こりは、現・将軍の公表されざる実弟、すなわち「最高権力者の御落胤」の存在である。 もしこの血筋が世に露見すれば、国家を揺るがす大乱の火種となりかねない。しかし、公式の与力や同心を動かせば、将軍家の禁忌を自ら世間に晒すことになる。 ゆえに、お上は「最初からそんな人間は江戸にいなかった」ことにするため、お公家や武家も恐れる闇の暗殺組織【骨違えの衆】を放ったのだ。
この御落胤を連れて、貧しい御家人の拝領地と長屋が入り混じる本所割下水へ潜伏した景虎であったが、実はこの状況こそ、元主君・片岡小十郎の恐るべき策略であった。
片岡はお家を取り潰された男である。 彼にとって、将軍の弱みである御落胤の命は、幕府を裏から脅迫して大名へと返り咲くための「お家再興への極上の切符(人質)」であった。 景虎が御落胤を守り抜き、暗殺計画を行き詰まらせれば、しびれを切らした幕府に「命を隠し通す代わりに領地を返せ」と政治取引を迫ることができる。
片岡は、景虎が「爽やかな好青年」を装いながら、その本質は「お天道様のためなら、赤ん坊でも笑顔で首を撥ねられる心の壊れた狂人」であることを見抜いていた。 最も忠誠心が厚く、お上の法を一分も恐れない景虎に預けることこそが、自分が安全圏に残り続けるための最善策だったのだ。
『景虎よ。この幼き命をお上は闇に葬ろうとしている。だが、お天道様は生きよと仰っている。幕府の法と、お天道様の天理……どちらが正しいか、お前なら分かるな?』
この言葉は、景虎の脳内で「お上を裏切り、刺客をすべて斬り殺すことは、お天道様に褒められる至高の善行である」という狂信的な理屈に変換された。
片岡の計算はそれだけに留まらない。
一般の町人がひしめくこの長屋街で大立ち回りを演じれば、幕府側は「将軍家の闇が世間に漏れる」ことを恐れ、大軍を送れず、少数の暗殺者しか差し向けられなくなる。 さらに片岡は、そんな狭い街での戦いで無関係な住人が何人巻き添えになろうとも、景虎なら一分の罪悪感も抱かずに敵を斬り捨ててくれると知り尽くしていた。景虎にとって、巻き込まれて死ぬ町人もまた「お天道様の定めた宿命」にすぎないからだ。
この本所割下水という場末の街は、幕府の動きを制限しつつ、景虎という最強の狂犬を縛り付けるための、「盾」であり「檻」であった。 片岡は絶対に血の流れない安全圏から、この怪物が町人を巻き添えにしながら江戸の街を掃除するのを、ほくそ笑みながら待っているのだ。
『驚天動地の嵐』
深い闇の底から生温かい大気が一気に押し寄せ、地表のあらゆる砂埃を激しく巻き上げる、春の夜明け。 立春を過ぎた江戸八百八町に吹き荒れる、驚天動地の春の嵐が長屋の戸をガタガタと打ち鳴らし、本所割下水の辻は、視界を茶色く染める猛烈な暴風に支配されていた。
その時、轟々と鳴り響く砂嵐の奥から、無言の影が這い出てきた。お上が放った【骨違えの衆】。 先頭に立つのは、死人のような灰色の肌をした男、名を「無宿の骸」という。わざと刃をノコギリのようにボロボロに欠けさせた奇怪な打刀をぶら下げ、ただ静かに、すり足で間合いを詰めてくる。その後に続く隻眼の剣客たちも、一切の声を立てない。 聞こえるのは風の咆哮のみ。男たちの視線には、他人の肉体を損なうことだけを生業とする手練れの、冷酷な威圧感がぎらぎらと渦巻いていた。
景虎は、相手がそれぞれの獲物を構え、無言のまま間合いを詰めてきたことを確認すると、まずは生真面目に一礼した。
「お待たせして申し訳ありません。皆さんさすがの身のこなしですね、とても良い修行になりそうです」
突き抜けるような明るい笑顔のまま、景虎は【 暁天照 】を正中線へと真っ直ぐに構える。
一斉に突風を突いて襲いかかる刺客ども。変則的な刃が風を切って襲いかかり、砂嵐に紛れてその死角から鋭い一撃が放たれる。 だが、さすがはお上が放った【骨違えの衆】。先頭の「無宿の骸」が放った鋸刃の一撃は、景虎の正中線をわずかに外れ、彼の左肩の肉を深く抉り取った。
肉を裂く鈍い音が響き、鮮血が春の嵐に霧となって飛び散る。 常人ならば激痛に顔を歪め、体勢を崩すほどの深手。しかし、景虎は身をよじることすらせず、両目を見開いたまま直進した。
「痛い! 素晴らしいですね、これぞまさに命がけの寒稽古!」
血を流しながら、景虎は突き抜けるように健気で、明るい声を上げた。 その顔には、苦悶の色など微塵もない。己の肉体が損なわれることすら、お天道様から与えられた至高の修行であると、心底から歓喜しているのだ。
白く輝く濤瀾刃が、夜明け前の闇を真っ直ぐに切り裂いた。 剛毅を極めた新刀の一閃。景虎の放った渾身の逆襲は、敵の放った変則的な一撃を正面から叩き落とし、その刀身ごと真っ二つに叩き折る。その勢いのまま、標的たちの鎖骨を滑らかに両断していった。
肉と骨が断たれる鈍い音が響き、手練れの暗殺者どもは反撃の暇もなく、風に舞う砂埃の上へともつれ合うように折り重なった。
だが、死線はまだ終わらない。背後に潜んでいた別の刺客が、景虎の剥き出しになった脇腹へ向け、無言で鎖鎌の分銅を叩き込んだ。 骨の砕ける嫌な音が鳴り響く。内臓を揺るがす衝撃に、景虎の口からどっと赤い血が溢れ出た。
明らかな窮地、凄惨極まる土壇場。 それなのに、景虎は溢れる血を爽やかに手甲で拭うと、さらに瞳の輝きを増して微笑んだ。
「お見事! 骨が軋む音が、まるで夜明けを告げる鐘のようだ! さあ、もっと私を磨いてください!」
致命の傷を負い、血を吐きながらも退かぬ最後の隻眼の男。 死を前にしてもその眼光は据わり、覚悟はとっくに決まっていた。だが、目の前で骨を砕かれながら満面の笑みを浮かべる景虎の姿に、生業として殺める手練れである男の顔が、初めて恐怖で引き攣った。
景虎は一切の躊躇なく、流れるような美しい体捌きで滑り込むと、男の腹を横一文字に深く切り裂いた。
内臓をぶちまけ、ただ他人の肉体を壊すことだけに特化していたはずの刺客どもを、一切の手加減なしに、慈悲もなく、ただの塵芥のように冷酷に切り刻んでいく。
凄絶な血飛沫が弧を描いて宙を舞い、ちょうど昇り始めたお天道様の光を、瞬時に赤黒く遮っていく。 男は静かに崩れ落ち、二度と動かなくなった。
自らも大量の血を流し、骨を砕かれている最中も、景虎の心はただ明るい太陽のように気持ちよく澄み渡っていた。お天道様に誓って、これは邪悪を祓う正しい道なのだから。
天を覆う鮮血の残光のなか、景虎は刀身に付着した血脂を鋭い「血振るい」でパァンと吹き飛ばすと、仕上げに懐紙で美しく拭い去り、鋭い金属音を響かせて静かに鞘へと鋼を収めた。。
「我が道に曇りなし!」
吹きすさぶ砂嵐を突き破るような、弾ける満面の笑顔で景虎は言い放った。
『光の音』
景虎は血の臭いを濃く漂わせ、自らの骨を軋ませながらも、何食わぬ顔で長屋の戸を開け、薄暗い奥へと足を踏み入れた。
「……景虎、本当に僕を守ってくれるのか? 僕は、お父様にも、今のお兄様にも、いらないって言われた邪悪な子供なんだろう?」
破れた障子の隙間で身を縮めていた少年――御落胤が、怯えた声で問いかける。 景虎はいつもの突き抜けるような快活な笑顔で、少年の頬に触れた。
その手は、先ほどまで刀を振るい、深く傷つき、人を解体していたせいで、健康的な生温かい温かさに満ちている。
「何を仰いますか。片岡様がおっしゃいましたよ。『このお方は、お天道様が地上に遺した光だ』と。私は、お天道様に恥じぬ生き方をしたい。だから貴方様を守る。それだけです」
「幕府から僕を守るために、君はたくさんの人を殺すんだよね……?」
「はい! たくさん殺しますよ!」
その言葉には、一片の悪意も気負いもない。 ただ翌日の天気や、道端の野花を褒めるかのような、あまりにも無邪気で健康的な声音だった。
少年の顔から、完全に血の気が引いた。
「あ……、あ……」
目の前にいるのは、自分を救いに来た正義の味方などではない。 「お天道様」という天理の怪物を脳内に宿した、ただの『壊れた人斬り』なのだと、幼い本能が冷酷に告げていた。
東雲 景虎の瞳は、すべてを見透かすお天道様の如く、残酷なまでに眩しく輝いていた。




