【 夜桜般若 】小 桜 お 紅
【 夜桜般若 (よざくらはんにゃ) 】
小 桜 お 紅 (こざくらのおべに )
『夜桜般若』
大気の一片すらも水分を失い、乾いた風が吹き抜けるたび、皮膚がピリピリと裂けるような真冬の乾ばつ。何ヶ月も雨の恵みの絶えた江戸八百八町は、あらゆる木々が枯死していた。地表は醜くひび割れ、ただ乾いた砂埃だけが舞う極限の乾燥に喘いでいる。
その渇ききった赤土の辻、枯死した老桜の根元に、妖艶にして底知れぬ影を落とす女がいた。
――夜桜の女王・小桜 お紅。
吉原の華やかな灯りが絶対に届かないどん底、悪臭と死臭が泥にまみれる【無宿溜まり】の利権を一手に握る女親分である。人別を外された悪党や無宿者の生死を支配し、その愛憎の深さゆえに裏切り者を絶対に生かしてはおかぬ、海千山千の業を背負っていた。 お上を鼻で笑うその凄絶な生き様に惚れ込み、命を賭して従う博徒や任侠の男たちは、江戸の裏社会に数知れず存在した。
肌を苛む乾風のなか、お紅は艶やかな朱のキセルを燻らせる。残忍なまでの美しさを湛えた瞳で、濁った夜の闇をじっと凝視していた。お紅が懐から静かに引き抜いたのは、一尺未満の小ぶりな刺刀。
禍々しく波打つ板目肌に、不気味に表裏の揃った「村正刃」の凹凸が走る。
――妖刀・村正の刺刀【 夜桜般若 】である。
至近の間合いで相手の懐に滑り込み、あばら骨の隙間から命の臓腑を強引に抉り出す。刀としての美徳など最初から存在しない、凄惨な殺意の塊であった。
カラカラに乾いた風が砂を巻き上げる路地。お紅が囲う遊女を誘拐し、他国の岡場所へ売り飛ばそうと企てていた不逞の輩どもが、数打物の打刀を手に闇から躍り出た。
「小桜お紅……だな。お上のお触れに首が乗った大層な玉だってぇから拝みに来てみりゃあ、ただの干からびかけた泥狐じゃねえか。その首にぶら下がった金塊、ここで有り難く毟り取らせてもらうぜ。――この割れた赤土が、おめえの野垂れ死にの寸法よ」
お紅はふうと紫煙を吹きかけ、けだるそうに首の骨を小さく鳴らした。その瞳は冷ややかに濁り、襲撃者たちの浅ましい顔ぶれをただ退屈そうに眺めている。
「お触れの紙切れ一枚で、このあたいが買えると思っちまったかい? ──安い舐め方してんじゃないよ、この三下どもが。あたいの首が欲しけりゃあ、まずはお前さんたちの薄っぺらい命を、ここに並べてみなさね」
その凛烈たる気迫に無頼漢たちが怯んだ刹那、お紅は大地を踏みしめた。 ──刃のうねりが、乾いた砂嵐を横一文字に切り裂く。
村正の刺刀は相手の太刀筋の内懐へ滑り込み、突き出された手首を肉ごと容易く断ち切った。凄惨な悲鳴が上がるより早く、お紅の左手が男の胸元を掴み、その下腹部へ深く、深く、鋼の牙を突き刺した。男たちは乾いた赤土の上に内臓をぶち撒け、激しく身悶えしながら折り重なっていった。
恐怖に腰が抜けた最後の男の喉元へ、お紅の手首が冷酷に沈んだ。ドスッ、という重い肉声とともに、村正の刃が男の喉笛を深く、正確に刺し貫く。男は泥を噛むように平伏し、二度と動かなくなった。これが、この渇ききった辻に遺された、唯一の「潤い」だった。
闇の中から、お紅を狂信的に崇拝する若い博徒や侠客たちがゾロゾロと姿を現し、手際よく死体を片付け始める。お紅は彼らに一瞥もくれず、愛刀の刃先を死体の衣服でぞんざいに擦り、深い懐の奥へと鋼を収めた。
お紅は歩き出し、ただ一度だけ、肩口から着物を無造作に滑り落とした。 乾いた月光の下、露わになった白い背中。そこには、夜桜の吹雪を浴びて血の涙を流す、凄絶な般若の面がぎらりと浮き上がっていた。お紅はただ一言、低く言い放った。
「あたいから女を奪おうなんてさね、背中の般若が許さないよ」




