【 六 道 切 天 海 】不 動 石 舟 斎
【 六 道 切 天 海 】
不 動 石 舟 斎 (ふどう せきしゅうさい)
『寛文の引導』
夜の神田明神下から、天下普請の泥交じりの風を突いて、一団の影が闇を這っていた。
社会の法がまだ拠って立つところを持たぬ、明暦・万治・寛文年間。江戸の夜を支配するのは、市街で日常的に乱闘を起こす「町奴」や、再就職の口を失って裏稼業へ手を染めた数十万の失業浪人どもであった。
なかでも、相次ぐ大名家のお家取り潰しによって職を失った「元足軽大将」たちの不穏な動きは、幕府の根幹を揺るがしかねない火種となっていた。槍働きしか知らぬ彼らは、ただの辻斬りではなく、夜な夜な旗本や町奉行の役人を暗殺し、江戸の治安を崩壊させて幕府への反逆の機会を窺っていたのである。
その混沌を監視し、国家を揺るがす謀反の芽を陰から摘み取るべく、頭に深々と編笠を被った虚無僧の密偵たちを従え、自ら先頭に立って歩く老人がいた。
霜降る髪を夜風にたなびかせ、一見すれば酒に溺れた老いぼれだが、その眼光は深淵の如く昏い。
その男こそ──
不 動 石 舟 斎 (ふどう せきしゅうさい)
江戸の闇を這う隠修を総べる幕府の密偵。
開戦の気配を敏感に察知するその腰に帯びた得物は、六道の輪廻すら断ち切るという仕込みの大太刀。
──名を、
【 六 道 切 天 海 】(ろくどうぎりてんかい)
という。
「頭、お家取り潰しで食い詰めた、元足軽大将の荒くれどもの根城はここです。奴ら、夜な夜な辻斬りを働き、奉行所の地回りを殺しては、裏で集めた金品で武器を買い漁っております。これ以上野放しにすれば、江戸の火薬庫になりかねませぬ」
配下の虚無僧による冷徹な報告を受け、石舟斎は黙って頷いた。彼らの目的は生きるための略奪ではなく、裏社会の勢力と結託した幕府への呪詛。それゆえ、奉行所の手には負えぬ裏の軍隊として、石舟斎自らが動く必要があった。
一行は、場末の荒れ果てた長屋へと踏み込んだ。
戸を蹴破り、夜霧とともに音もなく侵入した異様な虚無僧たちの姿を見て、酒を酌み交わしていた巨漢の悪党どもは総毛立ち、驚愕の声を上げた。
「なんだてめぇわ!」
二尺半を超える非公認の長大刀を慌てて引き抜く荒くれどもに対し、石舟斎は濁った瞼の奥の眠り目を静かに細めた。懐に両手を突っ込んだまま、腹の底から響く太い声を震わせる。
「……神仏への念仏は済んだかい……」
「なんだぁそんなもん知るかよ!」
悪党の頭領が吠えた瞬間、老剣鬼の口元が冷酷に歪んだ。
「なら、そろそろ命を貰うよ」
戦いの始まりは、まさに一瞬であった。
じり、と間合いが詰まった刹那、石舟斎は「六道切天海」を抜き放った。その構えは、まるで刀を手にしてなお、静かに神仏へ念仏を唱えるがごとし。
──ザシュッ!
無駄な動きは一切ない。石舟斎の手元から繰り出された一閃は、凄絶な速さで悪党の頭領の首を一突きに貫いていた。噴き出す鮮血。後ろに控えていた奴らは、驚く暇すら与えられない。
引き抜かれた厚刃が、流れるような円の軌跡を描き、残る刺客たちの肉体を装束ごとまとめて切り捨てる。
肉を裂き、骨を砕く鈍い音。音もなく命を奪い去る、圧倒的な早業。
一瞬にして、数人の巨大な肉体が、掘り返された赤土の地べたへどさりと沈んだ。
石舟斎は視線を己の足元へ戻し、懐紙を使うこともなく、着物の袖でぞんざいに血を拭い去った。刃が鞘に収まる鈍い音が、静寂の中に消えていく。
冷たくなった骸を冷ややかに見下ろし、老剣鬼は低く吐き捨てた。
「念仏供養代はタダにしとくよ」
再び配下の虚無僧たちを従え、石舟斎は夜霧の奥へと静かに消え去っていった。




