【 夜 風 八 柳 】柳 夜十郎
【 夜 風 八 柳 】
柳 夜十郎
『風鳴りの夜』
「あー、良い夜だねぇ……」
新吉原の夜が更け、刻限は丑三つ時。大門を背に、千鳥足で衣紋坂を下りながら、男はうっとりと夜空を見上げていた。
つい先ほどまで、馴染みの花魁の柔肌に包まれ、極上の地酒をかっくらっていたのだ。今夜十さんが身にまとっている、渋い墨色の着流し。男が歩くたび、羽織の裾から覗くのは、狂い咲く桜吹雪と妖しく微笑む餓者髑髏の凄絶な意匠。
これは吉原の馴染みの女が、十さんのためにと特別に仕立ててくれたものだった。それだけではない。懐にあるおしろいの香りが残る紅染めの手拭いも、腰に差した上等な煙管も、すべて廓の女たちから貢がれた物ばかり。
女に愛され、極上の酒に酔う。まさに極楽のような帰り道。
──だが、その極楽は、唐突に断ち切られた。
闇の奥から、肌を刺すような冷気が吹き抜ける。夜風がピタリと止み、見返り柳の葉の擦れる音さえも消え失せた。
五感のすべてが「死」を警戒するほどの、圧倒的な重みを持った殺気。
衣紋坂の、緩やかな曲がり角の向こう──夜霧を割って、一歩、また一歩と、地響きさえ聞こえそうな重々しい足取りで、何かが近づいてくる。
月光を浴びて妖しく歪んだ輪郭が見えた。それは、白晒の死に装束に、凄絶な怒りと悲しみを湛えた般若の面。
面の奥の双眸は、ただ十郎を確実に屠るためだけに研ぎ澄まれた、凍てつく鉄の光。すれ違う誰もが命を乞うであろうその圧倒的な暗殺者を前にして、しかし、男はただめんどくさそうに口元を歪めた。
柳 夜十郎 (やなぎ よじゅうろう)
吉原の女たちが、熱い吐息とともに「十さん」と呼ぶ、天下無双の伊達男。
だが、その腰に帯びた得物は、ひとたび抜けば夜風に揺れる柳の如くしなやかな軌道を描き、一瞬で敵の命を毟り取る兇刃。
──裏社会で、
【 夜 風 八 柳 】(よかぜやつやなぎ)
と恐れられる一振りであった。
「柳夜十郎だな。命を貰う」
般若の口から漏れた声は、まるで墓底から響くように重く、鋭かった。その声が放たれた瞬間、周囲の空気がさらに一段、張り詰める。
「……へっ、般若たぁ、丑三つ時ににゃあちと怖すぎるねぇ」
十郎は頭を掻いた。誰の差し金か、心当たりが多すぎる。(あの米問屋の若旦那の囲い者に手を開いた件か? それとも、あの旗本の道楽娘と駆け落ちまがいの真似をしたっけか。いや、こないだの売れっ子芸者の男が嫉妬したのか……? クソ、理由が多すぎて見つからねぇよ)
「まぁ、どれでもいいか」
十郎が溜息を吐いた刹那、般若の面が幽霊のように間合いを詰めた。一切の予備動作なく、地を走るような踏み込みから、刀が上段へと跳ね上がる。
月光を浴びた兇刃が、空気を引き裂き、十郎の真っ向目掛けて一気に振り下ろされた。
ガッ、と凄まじい風切り音が鳴る。だが、そこにはもう十郎の姿はなかった。
──ひらり。
まさに夜風に舞う木の葉の如き身軽さ。十郎は、重心をふっと崩すような脱力した動きで、達人の一撃を紙一重でかわしていた。
刃がかすめた風に髪を揺らしながら、餓者髑髏の着流しが夜闇に美しく翻る。かわされた般若の面が、驚愕にわずかに対象を揺らした。
十郎はニヤリと、獣のような艶っぽい笑みを浮かべ、【夜風八柳】の柄にそっと手をかけた。
「女の柔肌に包まれて、酒かっくらって……せっかく気持ちのいい夜だったのによ。おめぇの血の匂いで、台無しになっちまうじゃねぇか」
上段からの凄まじい一撃を外され、体勢をわずかに崩した般若の面。しかし、強引に刃を横一線へと払う。
──キィン!
十郎の【夜風八柳】が鞘から滑り出たのは、まさにその瞬間だった。
抜き放たれた刃は、まさに「ゆらぁ〜」としなやかに般若の剛剣を受け流し、軌道を上空へと逸らした。懐に入り込んだ十郎の身体から、濃密なおしろいの香りがふわりと立ち上る。
「──粋じゃねぇんだよ、無粋な真似はさ」
闇を裂いた【夜風八柳】の低い一閃が、般若の喉元を寸分違わず薙ぎ払う。
音もなく命を奪い去る、圧倒的な早業。
生々しい肉声とともに、般若の面を被った達人の身体が、衣紋坂の土を踏みしだき、どさりと冷たい地面のうえに沈んでいった。
十郎はふぅ、と息を吐き、紅染めの手拭いで刀の血を滑らかに拭い去った。カチリ、と美しい音がして、刃が鞘に収まる。
冷たくなった骸を冷ややかに見下ろし、十郎はつまらなそうに言い放った。
「おめーさんは死神とでも寝ときやがれ、おいらは女と寝ることにするからよ」
十郎は乱れた衣紋を少し繕い、懐に両手を突っ込んで、再び日本堤の暗がりへと歩き出した。背後では、血に濡れた見返り柳が、夜風にさらさらとただ妖しく揺れていた。




