赤い薔薇の刺繍 2
「愛、ですか……」
啓安が去った後もその言葉だけが耳に残っていた。
後宮において愛は珍しいものではない。
だが、面倒事の原因としてはあまりにもありふれている。
「やはり恋文みたいなものではないですか?」
杏華は赤い手拭いを広げながら言う。
「だとしたら本人に名乗り出るでしょう」
「恥ずかしかったとか?」
「一年もですか?」
「一年もです」
妙な自信をもって彼女は頷く。
子安は思わず額を押さえた。
「なぜそんなに断言できるのですか」
「女だからです」
「説得力があるようなないような……」
手拭いを見つめる。
赤い布。
丁寧な補強。
そして赤いバラの刺繍。
誰かが大切に使っていたことだけは分かる。
「もしかすると、この手拭いは使われていたのかもしれませんね?」
「それも女だからですか?」
「いえ、手拭いを見てください。汚れ一つありません」
広げられた手拭いからは綺麗で甘い匂いがした。
「普段から使っていて洗濯をしていたと言うことですか?」
「補強の跡などを考えるとそう仮定するのが自然だと思います」
「一年間もですか?」
「はい」
「それは面倒ですね?」
「愛とは時間でもありますからね」
「それも女だから分かることですか?」
「そうです」
愛とはなんと時間のかかるものなのだろうか。私には到底理解できない話だ。
それはともかく、一年間もの間使っていたのなら、誰かに見られているかもしれない。
「目撃者がいるかもしれませんね」
「ええ、その可能性は高いでしょうね」
「ならば、話は早いですね」
杏華はスタスタと前を歩いて行く。
「ほら、聞き込みに行きますよ」
「はあ」
子安は根が張っているような足を無理矢理上げて杏華の後を進む。
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子安は通りすがりの侍女を捕まえて聞き込みを行っていた。
「え?バラの刺繍がされた手拭いですか?」
「ええ、見ていませんか?」
「確かどこかで見たような……」
「本当ですか!?」
「は、はい。たしか……下級妃の方の一人にそんな人がいたような」
「名前は分かりますか?」
「いえ、ただ、珍しい真っ赤な髪色の方でした」
真っ赤な髪色。
それに子安は聞き覚えがあった。
「高麗妃ですか……」
「誰ですか?」
「高麗妃は、後宮で唯一珍しい真っ赤な髪をお持ちの下級妃様ですよ」
「つまりその方が手拭いを拾って修繕して返してきた方かもしれないということですね」
「ええ……」
ただ、子安はこの時点でかなりうんざりしていた。
下級妃と武官の恋愛沙汰などあっていい物ではない。
いくら位の低い妃でも帝以外の者に恋慕を抱くなどあっては大問題だ。
「じゃあ、さっそく彼女に会ってきましょう!」
杏華は声高らかにいい前を歩いていく。
その彼女の肩を子安はガシっと掴む。
「待ってください」
「はい?なんですか?」
喉元に手を持っていき軽くなでる。
「今回の件、啓安には分からなかったと伝えましょう」
「なぜですか?送り主は確かですよ?」
「あなたもわかるでしょ?帝以外に妃が惚れるなど問題になります。両者のためにもここは知らなかったことにしておきましょう」
子安は嘘を言った。
両者のため……もし、本当にそう考えているなら武官に知らせるべきだ。
(この口は達者だな……)
内心は自分への皮肉でいっぱいだった。
「言い訳はすみましたか?」
「……言ってる意味が解りません」
「分かっていますよね?子安様なら」
杏華は視線をまっすぐそらさずに子安の目に合わせる。
ガラス玉のような目は子安の心を揺らす。
「……後宮は楽園ではありません……愛を求める場所ではないのですよ…」
「そうですね。それには賛成です」
「なら…」
「だからこそ、偶然生まれた愛を終わらせる権利は私たちにはありません。それがたとえ、帝でも」
「あなたは…」
その先を子安は言えなかった。ただ、この時に分かった。
彼女はここに権力も富も名声も求めていない。
別の何かを求めてきているのだと。
「面倒になっても知りませんよ?」
「ふふ、それは困りますね。その時は子安様が助けてください」
杏華は白い歯を見せてにかっと笑う。いたずら好きな子供のように。
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