寝返り
産み落とされてからどれくらいの時間が経過したのか。
俺の精神は、完全に崩壊していた。
トドメをさしたのは排泄だった。
ある瞬間、腸が突然動き、力も入れていないのに勝手に全てが身体の外に出た。
生き地獄だと思った。
もはや死を願うことすらも俺はやめていた。
ただ無心で横たわるのみ。
それなのにそんな心を置いて身体は少しずつ成長し、五感は整えられ、受け取る情報量は増え続けていく。加えて首にかけられた謎の何かは発光を繰り返し心すら少しずつ治しているようだった。
絶望して心を手放すことすら赦されない。
そんな環境の中で俺はもう何万回目かわからない祈りを、神に捧げていた。
助けてください。神様、助けてください。せめて、せめて今すぐに殺してください。
覚えている神仏の名前を、国も宗教もめちゃくちゃに唱え続ける。
その時、発光する何かが治したであろう理性の片隅で、ふと、思った。
白い箱庭で暮らしていたあの世界では、切れた喉は勝手に治らない。とても至極当然な、当たり前のこと。
それならば、そんなことが起きるこの世界は、元いた世界とは全く別の異世界で、当然、この世界の神は別にいるのではないか——。
そう認識した瞬間だった。
視界の端に何かが写った。
見えていたはずなのに、見えていなかったもの。
小さな祠が、そこにはあった。
祠には文字が書かれていた。知らない文字。読めないはずの名前。それが何故か、読めた。魂がそれを理解した。
スウメロプテ。
発音もしにくいわけのわからない文字列が、神様を指す言葉だと、神様の名前だと、分からないのに理解できた。
その、ナニカに。
助けてください——と、切に祈った。
瞬間、声がした。
"よかろう!!!"
脳に直接響く声。
耳馴染みのない言葉、聞いたこともないはずの意味がわからない音だったが、しかししっかりと俺の中に染み込んできた。
無邪気で神秘的な響きを帯びながら、優しく甘く耳に溶け込み、なのに、その純粋な優しさの奥底には、黒い穢れが静かに滲み出すようなそんな声の持ち主は続ける。
"泣き喚き続ける小さき者よ!生を受けてすぐに死を願う愚かな子よ!助けて欲しくば、そこの洞穴に己が身を押し込め!"
そう言われた瞬間、祠の隣に洞穴が見えた。小さい。小さな洞穴。
狂気の中で叫ぶ。声は出ない。伝われと祈るような思いで頭の中で叫ぶ。
"生まれてすぐだから体が上手く動かせないんです!手足を少し動かすのがやっとなんです!"
それを聞いてその声は俺を嘲笑った。
"そんなことは知らん。動けぬのならそのままそこで泣いておれ。ここまで来れぬなら助けはせんわ。"
ただし声はその後にこう続けた。
"洞穴の中まで来れば、確実に助けてやるぞ。神に誓ってな。"
確実。
その言葉が持つ魔力、それがもたらした意志の力が、首も据わらぬ赤子の体を動かした。
赤子が寝返りをできるようになる期間は平均して半年、早くても3ヶ月。そんな常識を、草をかき分けるように押し退けて、必死に必死に力を入れた。脳が焼き切れそうなほどの力を込めれば仰向けだった体が回転した。
成功体験は人に、より強い力を与える。
「ぅ゛う゛う゛う゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」
およそ赤子が出したとは思えないような音を響かせながら俺は回転し続けた。
もはやどう身体を動かしているのか自分でも分からないまま、ひたすら、ひたすらに転がる。
草が顔を撫で、全身に土が付く。
早く!早く!早く!もっと早く動け!
無我夢中で転がれば、ついには洞穴までたどり着いた。距離にして10mの大移動。
必死に体をねじ込むと、中は急な下り坂になっていた。身体を押し込んだ勢いそのままに、全身を何度も土の壁にぶつけながら、急なカーブを超え、ほぼ直角に落ちながらも転がり続けた。
突然、体が放り出された。
次に鈍い衝撃が来た。
硬い石畳の上に、勢いよく叩きつけられたらしい。
そのまま少し回転し、やっとのことで止まる。
額から流れた血が左側の視界を赤く染める中、恐る恐る目を開けた。
そこは、深い暗闇だった。
背後の洞穴から、わずかな光が差し込んではいるものの、長く曲がりくねったトンネルのせいで光はほとんど届かない。薄暗い空間に、ぼんやりと自分の小さな手足がかろうじて浮かび上がる程度だ。
何度も壁にぶつけてひしゃげ、機能を失いかけている鼻を、くんくんと動かしてみれば古い本の匂いが鼻腔に広がった。




